夢で逢いましょう

程良い静寂と喧騒の入り混じった隙間を柔らかなピアノの旋律が流れるバーのカウンターで、アントニオ・ロペスは一人グラスを傾けていた。
肩肘張らずに楽しい時間を過ごせるここで、大概は旧友と待ち合わせをするのだが、今日は用事があるとかでアントニオ一人きりだ。
バーテンダーはアントニオの好みを良く知っていて、グラスが空くと、その時の気分にぴたりとあったものを見つくろって勧めてくれる。
ヒーローとしての任務も今日ばかりは開店休業状態。
呼び出しもなく、穏やかな休日の夜だ。
「隣、いいかしら?」
不意に、聴き慣れた声が背後から聞こえてきた。振り返ると、思った通り。ファイヤーエンブレム……ネイサン・シーモアが立っていた。
「何だ、今日はオーナー業に専念するんじゃねぇのか? ヒーロー稼業よりそっちの方がお前さんには重要だろうに」
アントニオはからかうようにネイサンに問う。
午前中ふらりと立ち寄ったトレーニングセンターで、ネイサンとアニエスが通信をしているのをたまたま聴いたのだ。
「アタシは優秀だから、思ったよりも早く仕事が片付いちゃったのよ。久々の休日だから、このまま寝ちゃうのも勿体ないじゃない?」
冗談めかして答えつつ、ネイサンはいつもなら虎徹が座るアントニオの右側の椅子に、洗練された仕草でふわりと座った。
派手派手しい衣装に見落としがちになるが、彼は上流階級の育ちである事を隠せない。その身のこなしや趣味からして、只者ではないと誰もがわかるのだ。
バーテンダーに注文するワインの選び方一つ取っても、その知識とセンスの深さが垣間見える。
その上でヒーローとしての活動やボランティア・寄付等、社会奉仕も欠かさない。
……こんな風に、息をするように「貴族の責任<ノーブレス・オブリージ>」を果たすことが出来る人間がいるのだ。
アントニオとは縁遠い筈の立場にいるはずなのに、何故かネイサンは非常にアントニオの事を気に入っているようだった。
それを体現するように、ネイサンは供されたワイングラスを片手に乾杯の仕草をしながら、さりげなくアントニオの尻を撫でた。
「ロック・バイソンの素敵なヒップに、乾杯♪]
……このセクハラ癖さえなければイイ奴なのに、全く……!
「……ここでやるなっつってんだろうが!」
小声でネイサンを窘めるが、ネイサンは聴く耳を持とうとしない。
「だってぇ、触り心地が好いんだもの。きゅって引き締ってるし」
撫で回し続ける左手を掴んで持ち上げると、ネイサンはとても残念そうな表情を見せた。
「全く、油断も隙もねぇ」
むくれるアントニオに、ネイサンは悪びれない様子で返す。
「貴方のヒップが魅力的なのがイケナいのよ?」
顔を合わせればこの調子だ。挨拶代わりのようなものだとわかっているが、アントニオはつい邪険にしてしまうのだった。
それはそれで大人気ないと、わかってはいるのだが。
「で、今日はワイルド・タイガーはどこかへ行ってるのかしら?」
ワインを傾けながら問うてきたネイサンに、アントニオは首を傾げてみせた。
「なんだかよくわからねぇが、忙しいみてぇだったな」
「アタシ、誰かから有給を取るって聞いたわよ? 可愛いスウィートハニーにでも会いに行ったのかしら」
人差し指の先を唇に当てながら、ネイサンは首を傾げた。こういう仕草は全く女性と同じものだ。
ネイサンの言うスウィートハニーとは、当然、娘の楓のことだろう。
「ああ、最近、娘の顔は電話でしか見てないって嘆いてたからな。それなら納得だ」
虎徹の目的地に今初めて気がついた、という表情をしたのがわかったのだろう、ネイサンはちょっとだけふくれっ面をしてみせた。
「……バイソン、それ、ちょっとニブいかもよ。親友なんでしょ」
そんな事も気づかないのか、と言いたげな表情だ。アントニオは苦笑するしかない。
「いや、あいつ、あれで案外秘密主義だからな。調子がいいように見えて、一番重要な事は隠してる」
いつでもそうだ。学生時代、最初に会った時も、虎徹はNEXTとしての能力を隠していた。
ハイスクールを卒業してから、虎徹の身に降りかかってきた困難も。
妻が亡くなる時の経緯も。
何もないような振りをして、虎徹は笑いながら酒を飲んでいた。
そして今も、娘には自分がヒーローである事を隠している。
自分は長く友人付き合いをしているからこそわかるのだが。
虎徹はおそらく、自分が心に秘めている脆さや弱さの部分に触れて欲しくないのだ。
アントニオはそれを悟って、虎徹が触れて欲しくなさそうな所は、見て見ぬ振りをしてきた。
ふと、ネイサンの表情が引き締められた。酷く思い詰めたような顔をする。
「……どうした?」
不思議な色合いの瞳が、アントニオをじっと見据えている。
「本当は……誰かがそれを、こじ開けなきゃいけない時もあるんじゃないかしら?」
らしくない強い口調で、ネイサンは断言した。まるで鋭いナイフのように。
そしてそれは、アントニオがずっと心の奥底に隠し持っていたもどかしさを、容赦なく抉り出す言葉だった。
アントニオは手に持ったグラスを揺らしながら黙り込んだ。
氷がグラスに当たって、澄んだ音を立てている。



「なんだ、この酒、酔えねぇな」
大切な半身を喪ってから、虎徹は娘の世話とヒーローとしての仕事に追われながら、時々逃げるようにバーに来ては、浴びるように酒を飲んでいた。
明らかに酒量は以前の倍程になっているのに、顔色一つ変わらない。
やつれた顔には隈が浮かんでいる。きっと睡眠時間もまともに取れていないのだろう。
ただトップクラスのヒーローとしての矜持と、妻のためにも残された娘を育てたい、という義務感だけが、虎徹を生かしている。
アントニオにはそうとしか思えなかった。
「その辺でやめとけよ」
しかしアントニオの制止に耳を傾ける気はないのだろう。虎徹は無視して、バーテンダーに次の焼酎を求める。
バーテンダーは困惑した顔をして、もうそろそろ閉店時間ですから、と遠回しに断ろうとした。
「じゃあ、最後に……もう一杯」
……これじゃダメになる。もう見ていられない。
しつこく粘ろうとする虎徹を、アントニオは左肩に担ぎ上げた。
「……何すんだ!」
じたばたと暴れる虎徹を担いだまま会計を済ませ、アントニオは無理矢理バーを出た。
「離せ、おい!」
「途中まで送っていってやるから、今日はもう帰れ」
もっと言い方があるのだろう、とは思う。もっと口が巧ければ、滔々と言い聞かせて説得をしているかもしれない。
だが生憎、そんな器用さは、自分が生まれた時から持ち合わせていないものなのだ。
これから虎徹に投げかける言葉は、もしかしたらこいつをさらに追いつめるかもしれない。
けれども、どうしても言っておかなければ。
なるべく感情的にならないように。虎徹に、伝わるように。
落ち着いた口調で、アントニオは話し始める。
「いいか虎徹……逃げるなよ」
「あぁ?!」
案の定、虎徹は反発したようだった。
バーの近くの路地裏で虎徹を下ろし、一度地面に座らせる。
「いいから最後まで聞け。頼むから。……彼女はもう、いない。死んだんだ」
アントニオはその向かい側に片膝をついて、酒に濁った虎徹の目をじっと見ながら、ゆっくりと告げた。
「そんなのわかって……」
言わせまいと口を挿む虎徹の言葉を遮って、アントニオは続けた。
「もうどこにもいないんだ。お前と、お前の家族と、彼女を知ってる人の心の中にしか」
虎徹の視線がふと、下に落ちる。土に汚れた地面を、じっと見ているのだろうか。
「けどな。……きっと、夢でまた逢えるだろう。お前が生きて、彼女のことを覚えている限り、彼女は……永遠に、お前の中で綺麗なまま、生きてるんだから」

昔聞いた歌にあった歌詞。
『See me in the dream<夢で逢いましょう>』。
遠く離れた恋人を想う女性を描いた歌のワンフレーズだった。
……あなたに寄り添って眠ることは出来ないけれど、せめて夢で逢いましょう、と。

陳腐な台詞だとはわかっている。
生前の彼女は深く、虎徹と娘を愛しているように思えた。
だからきっと、彼女は虎徹の夢に出てくるだろう。
二人を見守る存在として。
虎徹は突然、肩を震わせ始めた。
「おい、虎徹……」
「……ぶはっ」
唐突に、虎徹は吹き出し、それから笑い声を洩らし始めた。
「お前、どっか病気なんじゃねぇのか。なんだよ、らしくねぇ」
くっくっと、忍び笑いが長く続く。
「……やかましい!」
揶揄に苦笑しなが反論するが、虎徹の笑いは止まらなかった。
しばらくの間俯いたまま、虎徹は笑い声を噛み殺そうとしていた。
そして、その足元に、ぽつり、と雫のようなものがひとつ落ちて、地面に吸い込まれるように消えていった。



「……誰にだって、触れて欲しくねぇ過去だって、あるだろ」
長い沈黙の後、アントニオはネイサンにそれだけを告げる。
ネイサンは目を丸くした。
「ワイルドタイガーと同じ事を言うのね」
虎徹との間に何らかのやりとりがあったらしい。あいつは実際に過去の事には積極的には触れたがらない。
だが、今は、穏やかに笑いながら思い出話を語れるようになったのだ。時薬、とは言うけれども。
「それに、オレはこじ開けるにはあいつと長く付き合い過ぎてる。……もしかしたら、虎徹の事を良く知らない無遠慮な奴に、その役がまわってくるかも、な」 虎徹はあの辛い時期を乗り越え、今もなんだかんだで、ヒーローを続けている。
彼女と夢で逢っているのかはわからないが、少なくとも、娘の事を話す時はとても幸せそうだ。
不意にからかうような笑みを浮かべて、ネイサンがグラスのワインをアントニオに向けた。
「……じゃあ、ロック・バイソン、アタシの心を、貴方がこじ開けてくれないかしら?」
さりげなく誘う視線は嫌味がなく、蠱惑的ですらある。
ネイサンと同じ嗜好を持っていれば応じるのかもしれない。
「残念だが、俺はストレートなんだ。お前は人間として、仲間としてはとても魅力的なんだが、悪ぃな」
このバーでネイサンと逢うたびに繰り返される誘い。
しかしアントニオはずっと断り続けている。
ネイサンの冗談めかした態度の裏に、隠しきれない本気が隠れているように感じられるから。
……だからこそ、好奇心や遊び半分の無責任な態度で、応じる訳にはいかない。
「今日もダメなのね。もう、つれないんだから。……じゃあ、せめて、夢で逢えることに期待しましょ」
いつの間にか、BGMは昔聞いたその曲に変わっていた。
ネイサンも歌詞を知っていたらしい。
軽い口調でアントニオを責める中に混じるネイサンの本音に、あえて目を瞑る。
心は痛むけれども、適当に遊べる程器用じゃないのは、自分でもわかっているから。
「……夢の中じゃ、オレはどんな……いや、聞かない方がいいか」
「知りたければいくらでも教えてあげるわよ。何なら実地で経験してみる?」
ネイサンの嬉しそうな笑顔が少しだけ切なく思えた。
「……いや、いい」
「んもう、何よ、人がせっかく。じゃあアタシの過去のコイバナを……」
「いや、本当にいいから」
冗談の応酬をしながら、穏やかな夜が過ぎてゆく。
……明日から、とてつもない嵐が吹き荒れることも知らずに。
けれども、今はただ、旨い酒を飲みながら、ほろ苦く甘酸っぱい思い出に浸るのだった。 虎徹とその娘・楓に、穏やかな家族団欒の時間が訪れる事を祈りながら。

2011.6.15アップ。10話Aパートくらいの時間軸で、ネイサンとアントニオの話。本当はもうちょっと軽くするつもりだったんですけど…(最近こればっかりだな)
大人な会話を目指してみたんですが難しい上に私のおじさん好きが暴走しました。ごめんなさい。目指せおしゃれな会話。