アシンメトリー〜バーナビーサイド

事件解決に向かったバーナビーの前に、虎徹はその日ずっと、姿を現さなかった。
 ルナティックが現れ、レディキラーを殺害したというニュースを聞いたのは、早朝、ゴールドステージにある自分のマンションに戻ってテレビを見てからだ。
雪に変わりそうな冷たい雨が時折強く降ってくる、寒い朝だった。
 虎徹は再三の出動要請にも関わらず、現場に現れなかった。
……出動要請に応じないのは何かがおかしい。バーナビーも何度かコールしたし、スマートフォンにも電話をかけてみたけれど、虎徹は全く応答しなかったのだ。
 何かあったのだろうか。
 もしかして、事件にでも巻き込まれてはいないだろうか。
 バーナビーとコンビを組むようになって大分落ち着いたけれども、元々無茶な行動を取る人だから。
 それぞれが付けているPDAにはGPS機能もあるが、司法局側でデータを管理しているから、バーナビーから直接探知することは出来ない。アニエスに確認すべきだろうか、と思案に沈んでいる内に、インターホンが来客を告げた。
『バニー、いるか?』
 部屋に流れてきたその声は、紛れもなく虎徹のものだった。
 バーナビーが慌ててモニターのスイッチをオンにする。映った虎徹の姿に、バーナビーは声を失った。
 びしょ濡れになった髪。擦り傷を負って薄汚れた顔。ところどころ破れたジャケットとズボン。いつも目深にかぶっているハンチング帽を握り締めていた。
 帽子は水を含んで、雫がぼたぼたと足元に落ちている。
 そして、どこか虚ろな表情で、力ない声で、
『悪ぃけど、入れてもらっていいか?』と問うた。
「……虎徹さん!」
 我に返り、バーナビーは慌ててエントランスのロックを外した。
「早く、こっちへ!」
 やはり、何か事件に巻き込まれたのだ。
 どうしてこんな事になっているんだろう。
 募る不安を抑えきれず、苛々しながら虎徹の到着を待つ。再びインターホンが鳴るまでの時間が、永遠のように感じられた。
 待ちきれずに、バーナビーはタオルを引っ掴んでドアの前に移動する。チャイムが鳴った瞬間に、バーナビーはドアを勢い良く開けた。
「……わりぃ」
 ドアの向こうの虎徹は、モニター越しに見るよりももっと酷い有様だった。いつも綺麗にセットした髪は乱れ、ぽたり、と水が滴り落ちた。
ドアの向こうで、雨が徐々に雪に変わってゆく。
「……どうしたんですか!」
 虎徹は何も言わず、ただ頭(かぶり)を振った。
「何があったんですか、一体」
 バーナビーはタオルをそっと虎徹の頭に乗せ、びっしょりと濡れた頭を拭き始める。虎徹は黙ってバーナビーのなすがままにされていた。酷く汚れて泥まみれになっている虎徹から生ゴミのような匂いがするのは気のせいだろうか。
「……シャワーを浴びた方が早いかもしれませんね。これじゃ、風邪を引きます。……怪我に染みるかもしれませんけど」
 虎徹はのろのろとした動きで、バーナビーの後を付いてきた。歩く姿がぎこちない。……もしかして打撲傷を負っているのだろうか。
 バーナビーはふう、とひとつ大きな溜息をついて、虎徹を横抱きにした。バーナビーの服はすぐに水を含んでしまう。虎徹の身体はおそらく冷え切っているだろう。これだけ雨に濡れてしまっていれば。
 「……馬鹿、汚れる、ぞ」
 いつもならかなり抵抗するのに、今日の虎徹は身じろぎすら出来無いようだった。抱いた身体は酷く冷たかった。ぐったりとしたまま、バーナビーに身を任せる。
 目を伏せた虎徹の顎を一滴、冷たい水が流れてゆく。疲れきって虚ろな目をした虎徹に、その水滴は壮絶な色香を添えたような気がした。
 ……何を考えているんだ、こんな状況で。
「丁度、シャワーを浴びようと思ってましたから……僕が、身体を洗いますよ」
 虎徹はただ無言だった。唇を噛んで眼を閉じてしまう。
 普段は自分が快楽に流されてしまう最後の瞬間まで、往生際悪く色々と文句を言い続けるのに。
 重苦しい沈黙がバーナビーには耐えられない。
「一体、どうしたんですか? 昨日も出動しなかったでしょう? ……心配したんです」
 虎徹はやはり無言だった。
 どうして何も言わないのだろう。余程の事があったんだろうか。
 脱衣所で虎徹をそっと床に降ろした。
 濡れて身体に張り付いた虎徹の服を一枚ずつ引き剥がしてゆく。少し身体を動かす度に、虎徹は痛みが走るのか顔を顰めた。
 一糸纏わぬ姿になった身体のあちこちに青痣が浮かんでいる。まるで交通事故にでも遭遇したようだ。バーナビーは自分も服を脱いで、もう一度虎徹を抱き上げる。 男二人同時に入っても十分すぎる程の広さのシャワールームには必要最小限のものしかない。バーナビーはとりあえず、バスタブに虎徹を運び入れ、熱めの湯を張り始めた。
 バーナビーはひとまず自分の身体を洗ってしまい、虎徹をバスタブの縁に座らせた。
 湯の出る音と、シャワーの湯気で満ちたバスルームに落ちる沈黙。重く苦しい空気が、バーナビーには耐えきれそうにない。
「頭から洗いますからね」
 バーナビーは努めて優しい声音で虎徹にそう告げ、勢いを落としたぬるめのシャワーを頭にかけた。
「……楓がちっちゃい頃、頭を洗ってやってたら、よく『パパいたい』って言われたな」
 ぽつり、と呟いたのは、どこか郷愁を含んだ言葉だった。
「今度、一緒に風呂に入ってくれるかな、楓」
 虎徹の口の端に、ようやく微かな笑みが浮かぶ。
「……虎徹さん」
 シャンプーを手に取り、泡立てる。
「だっ」
 顔を顰(しか)めたきり、虎徹はまた口を噤む。そしてバーナビーにされるままになっていた。







 最初はなりゆきで持ったような、身体の関係だった。
 バーナビーの誕生日の夜。酒の勢いに任せて初めて虎徹を抱いた。
 それきりのつもりだった。
 冗談で終わらせようと思えば、酒のせいだと逃げてしまえばそれで終わる関係だったのだ。
 しかし、市長の息子を預かった夜、パオリンが寝ているその隣のリビングルームで、バーナビーは再び虎徹を抱いた。
 今度はもう言い逃れ出来ない。
自分は抱きたいから、虎徹を抱くのだ。
 ジェイク・マルティネスを巡る事件の中、虎徹との関係が揺らぐ事もあったけれども、大怪我を押してセブンマッチの会場に現れた虎徹の姿に、バーナビーは初めて自覚したのだった。
 虎徹への恋情を。

「あなたが、好きです」
 虎徹の怪我が治り、退院したその夜の事だった。
 バーナビーは礼を兼ねてもてなしたい、という口実で虎徹を自分のマンションに誘い、想いを告げた。
「……本気か?」
 お気に入りのチェアに座って、虎徹はバーナビーをじっと見つめる。バーナビーはその向かい側に座って、虎徹の答えを待った。
 一瞬の沈黙のあと、虎徹はバーナビーに問いを投げかける。
 これまでに見たことのないような、鋭い視線を投げかけながら。
「今ならまだ、引き返せるぞ、バニー」
 ああ、やはり、とバーナビーは思う。
 この人は確かに僕の事を考えてくれてはいるけれど、それを口実にしながら、逃げようとするのだ、と。
 誰かと深く関わる事から。
「本気です。僕が自分で選んだ事です」
「俺が子持ちで、妻と死別している事も知ってるだろう?」
「……それが何か?」
 バーナビーは苛立ちを抑えきれずに、思わず虎徹を睨みつけた。
 なんて聞き分けのない人なんだろう。まるで子供みたいだ。
「あなたが好きです、虎徹さん。あなたが欲しい。……最初は自分から誘うような事をしておいて、こんな逃げ方をするなんて、狡いです」
 言い募ると、虎徹は苦笑して溜息をついた。
「わかった。わかったから……だったら、一つ約束してくれ」
「……なんですか?」
「いつかお前に他に好きなヤツが出来たら、この関係は終わりだ。その事を忘れないでおいてくれ」
 バーナビーは息を呑む。
 どうして。
 炎のような憤りが胸を衝いた。
「どうしてあなたは、いつか終わる事前提でしか話をしないんですか?! 僕の気持ちが、そんなにいい加減なものだと?!」
 虎徹は不意を突かれたような表情で、バーナビーの名を呼んだ。その掠れた声が、微かにバーナビーの劣情を刺激する。
「……突然終わることだってある。お前が心変わりするかもしれないように、俺だってどうなるかわからない。こんな仕事してれば、死とも隣り合わせだ。だから、……お前に転機が来た時は、情に捕らわれて、迷うなよ」
 虎徹が浮かべたのは、柔らかな笑みだった。
 ジェイクとの闘いの時に、バーナビーを気遣って囁きかけてきた時のように、甘く優しい声で告げる言葉は、バーナビーにとっては余りにも残酷に聞こえて。
「虎徹さん」
 知らず、涙が滲みそうになる。
「……僕はあなたみたいに長く生きてる訳じゃない。でも、家族も4歳の時に失って、それからずっと一人だ。僕にあなたが奥さんを亡くした時の痛みがわからないように、あなただって……僕が両親を殺された苦しみなんてわからないでしょう。でも」
 虎徹はその言葉を聞いて、苦しげに顔を歪めた。
 もしかしたら傷ついたかもしれない。
 しかし、それに構わずにバーナビーは続ける。
 どうしても虎徹に伝えたかったから。
「僕だって、大切な人を失った苦しみは知ってる。……どうか前を見て下さい、虎徹さん。僕はあなたに、確かな未来があることを教えてもらったんです。……だから」
 真っ直ぐに虎徹を見据えて、バーナビーは力強く告げる。
「だからあなたにも、明るい未来を見つめて欲しいんです」
「バーナビー……」
「……あなたが好きです。虎徹さん。その過去も、あなたのダメな部分も良い部分も含め、全部」
 何度でも言い続けよう。この柔軟に見えて実は頑固な人の、心の殻を全部割ってしまいたいから。
 虎徹の表情が、不意に和らいだ。慈しむような、愛おしむような視線が、バーナビーに向かってくる。
「……ありがとうな、バニー」
「え?」
「……これからも、宜しく、な」
 穏やかな笑みが虎徹の顔に浮かんでいる。でもそこに、ほんの少しの哀しみが隠れているように感じるのは、きっと気のせいだ。……きっと。
 その時から、虎徹はしばしばバーナビーの部屋を訪れるようになった。
 ただ飲んだくれて終わる時もあったし、じゃれあうようなスキンシップだけで終わる事もあったけれど、バーナビーにとって、虎徹といる事が、虎徹を抱く事が生活の一部になってゆくのに、それ程時間はかからなかった。
 普段は道化めいた表情の奥に隠している虎徹が、他に誰も知らない姿を、バーナビーの前でだけ晒してくれる。
 快楽に赤らむ頬、堪え切れずに喘ぐ声。
 バーナビーを受け容れる時の、苦痛と愉悦が綯い交ぜになった表情。
 達する瞬間の、凄絶な色香に塗れた顔。
バーナビーをきつく絞めつけて離さない身体。
 それはバーナビーにとってもこの上ない歓びだった。
「あなたが好きです」
 そう耳元で囁く度に、虎徹の身体が震えるのがわかる。
「……恥ずかしいだろ、馬鹿」
 虎徹はいつも冗談めかして、バーナビーの睦言をはぐらかしてしまう。けれども、頬に赤みが差して、嬉しげな笑みを浮かべるのを見るのがバーナビーは好きだった。
 僕だけの、虎徹さん。
 バーナビーは幸せだった。想う人が側にいて、自分を受け入れてくれる事が、こんなに自分を幸せにしてくれるなんて知らなかった。
 どうか虎徹さんも、そうであって欲しい。
 これまで知らなかった心満たされる感覚は、確かに虎徹がバーナビーにくれたものだったのだけれど。

 至る所に無残な痣の残る虎徹の身体を優しく洗い流して、バーナビーは虎徹に、バスタブに浸かるように促した。
 虎徹は終始、無言だった。
 時折痛みに顔を歪めながらも、バーナビーに身体を預けたままだった。
 バスルームの温度はヒーターで調節されているけれど、バーナビーの身体は少しずつ冷えてしまう。
 不意に虎徹がバーナビーの腕を掴んだ。
「お前も、あったまれよ、バニー。それじゃ風邪引く」
 こんな状態なのに人の事を心配する虎徹の態度が辛い。
「風邪を引くのは、あなたでしょう?  僕は大丈夫ですから」
「いいから、早く」
 バスタブはそれなりに大きくはあるけれど、男二人で入るには流石に窮屈だ。虎徹は先にバスタブに入り、足を畳んでバーナビーの入る場所を空けたので、そこに座る。
 ちゃぷん、と湯が弾け、音を立てた。
「……一体何があったんですか」
改めてバーナビーは虎徹に問うた。
「何でもねぇんだ。ちょっとしくじっただけで。……心配かけて悪ぃ」
 しかし虎徹の顔に浮かぶのは何処か焦燥感めいた表情だった。
「コンビである僕に言えないことなんですか?」
 虎徹が俯いて視線を逸らす。彼が嘘がつけない事を知っているから、バーナビーの中で余計苛立ちが募る。
「ルナティックが現れて、レディキラーを殺してしまった、こんな日に……どうして。……もしかして」
 その名を口に出した瞬間。バーナビーはまた、虎徹に腕を掴まれた。その手はまだ少しひんやりとしていた。指が喰い込むほどの力で、バーナビーの腕に鋭い痛みが走る。
「抱いてくれ」
 それは全く予想もしていなかった言葉、だった。
「……何を言ってるかわかってるんですか?!」
 そんなボロボロの身体で。
 一体どうして。
「わかってる。わかってるから。……お前が欲しいんだ、バーナビー。今すぐ」
 今にも泣き出しそうな弱々しい表情が虎徹に存在することを、バーナビーはこの時初めて知った。
「どうして、何も言ってくれないんですか。そんなに……僕に言えないことなんですか」
 何かが起きている。
 この間のロトワングの事件の時から、バーナビーの周囲でうまくかみ合っていた筈の歯車が、少しずつずれ始めている。
 悪い予感ばかりが胸に積み上げられてゆくのに、真実はどこにも見えなくて。
 虎徹は無言のまま、バニーの身体を強引に引き寄せて、自分から口づけてきた。
 微かに血の匂いがする。……気のせいだろうか。
 冷えた唇の感触が、バーナビーを受け容れるようでいて、拒絶しているようにも思えるのは気のせいだろうか。 「……虎徹さん」
 バーナビーは虎徹を押し退けて、名を呼んだ。
 きっと今、自分は泣きそうな顔をしているだろう、と思う。バーナビーは責める口調で、虎徹を問い詰めた。
「ルナティックが何か関係しているんですか?!」
「違う。もしそうなら……俺はお前に連絡、してる」
 もし何か苦悩している事があれば一緒に受け止めたいのに、この人はそれすらさせてもくれないんだろうか。
「どうして、ですか」
 心臓が激しく脈打つ。怒りとも哀しみともつかない感情が身体中を駆け巡って息が苦しい。
 虎徹の濡れた髪から湯が滴って、瞳の端に流れて落ちた。
 ……まるで涙のように。
「お前じゃないと、ダメなんだ、バーナビー」
 消え入りそうな声で、今にも涙を零しそうな顔で、虎徹が乞うた。
 噛み合わない会話が辛い。聞きたいのはそんな言葉ではないのに。
「……愛してる、バーナビー。……お前が欲しいんだ」
 虎徹の目の縁から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
 それはバーナビーが初めて目にする姿だった。
これまで何度問うても冗談に紛らせてしまって、一度も言われたことのない言葉を、何故今、この時に、泣きながら。 バーナビーは呆然として虎徹の顔を見つめた。
愛してるなんて、これまで一度も。
 子供が大泣きする時のように、虎徹は次から次へと涙を落とした。微かに、嗚咽のような声が耳に入る。
 その雫はバスタブに張った湯の中に落ちて、ひっきりなしにぽたぽたと音を立てた。 
「愛してる。愛してる……だから」
 涙声がバーナビーの心に突き刺さる。
「どんなことでもするから。……お前とセックスしたい。今、すぐ」
 虎徹はバーナビーの肩に頭を乗せて、ぎゅっと腕を掴んだ。バーナビーの身体に、虎徹の震えが伝わってきた。
背中に大きく残った青い痣が痛々しい。
 ……きっと何処かから転落して、背中から落ちたんだ。
 こんな状態でセックスなんて出来る訳がないのに。
「あなたは……狡い人だ、虎徹さん」
 バーナビーから虎徹の表情を伺うことは出来ない。ただ、一瞬ぴくりと身体が動いた。
「そんな風に泣かれて懇願されたら、僕が断れないってわかってて、やってるんでしょう?」
 虎徹に向かう言葉は苛立ちを孕む。バーナビーは知らず、強く唇を噛んだ。ほんの少しだけ錆びたような味がした。
 バーナビーは虎徹の両頬に手をやって、自らの顔の近くに引き寄せた。
「……あなたがしたいようにしてみて下さい。僕は……正直そんな気分じゃないけど、あなたの望みどおりにしますから」

 きっと、僕ばかりがこの人を好きで。
 どうしようもなく心を絡め取られていて。
 虎徹さんはきっと、その事をわかっているようでわかっていないんだ。

 どんな現実よりも、バーナビーにとってはその事が重かった。

「愛してます、虎徹さん」
 壊れ物に触れるように、そっと虎徹の唇に自分のそれを重ねる。
 切った唇の端を傷つけないように。
 何度も何度も優しく重ねていると、虎徹はその焦れったさに耐えかねたのか、自分から舌を絡めてきた。

 欲しいのはこの人の心なのに。
 どうして。







虎徹サイドへ続く

2011.7.28アップ。 8月14日夏コミ初売の兎虎SS集書きおろし「アシンメトリー」のバーナビーサイドです。
当然虎徹サイドもあるんですが、続きは本で、ということで…。(ひでえ)
なお、タイトルはスガシカオの歌より。
書いている間エンドレススガシカオだったのですが、おかげで物凄く重い仕上がりになりました。
なお、虎徹サイドではちゃんとラブシーンもあります。