スカイハイの発案で1部ヒーローと2部ヒーローの合同パーティが開かれたのは、バーナビーが復帰してすぐの事。虎徹とバーナビーの復帰、そして遅いクリスマスと早いニューイヤーパーティを兼ねて、ちょっとだけ豪華に、という趣向のそれは大盛り上がりで閉会を迎え。
「たのしかったね! ボク、またパーティやりたいなぁ」
「来年は1部に戻って来なさいよ!」
「そうですよ、僕達、待ってますから」
年少組3人が、まず先に。
「では改めて、ステキな新年が迎えられますように☆」
「じゃあな虎徹、今度はあんなマヌケな助けられ方するんじゃねぇぞ!」
「良い年末を、そしてハッピーニューイヤー!」
続いて年上のヒーロー達も。楽しい時間はあっという間に過ぎて、ヒーロー達は一人、また一人と会場を発つ。
タイガー&バーナビーが戻ってきたからには、2部に所属からの1部返り咲きを派手に演出するのよ。と力強く宣言しながら、ワインを大量に飲んでも顔色ひとつ変えない鉄の女アニエス・ジュベールが鼻息荒く、他のヒーローTVスタッフとともにパーティー会場を出て行く。
「1部に戻ってきたら、記念にスーツをカッコいいギミックを付け足してやる!」
「頑張れよ虎徹、オレは期待してんだからな!」
相変わらず良く聴き取れない小声で、斎藤が虎徹とバーナビーに告げる。斎藤の背中を叩きながら、今ではアポロン・メディアの重役となったベン・ジャクソンが、斎藤と二人で2次会へ繰り出していった。
「……この場で不粋な事を申し上げますが、年明けに賠償金についての裁判が行われる予定ですので、承知下さいね」
そして。謹厳な裁判官兼ヒーロー管理官のユーリ・ペトロフが、どこか剣呑な雰囲気を漂わせながら、復帰早々自動車のショールームと高級車1台を派手にぶち壊した二人に言い置いて、去ってゆく。
賑やかなパーティ。ホテルのレストランを借りきって、全員ちょっとだけフォーマルな衣装を着て。沢山のご馳走を並べ、美味しいジュースや酒は、この1年間の話を肴に飲み干して。
「さて、俺たちも出るか、バニー」
「ええ、そうですね」
酒で暑くなったのかスーツのジャケットを脱いで肩に掛けた虎徹が、ほんのり赤く色づいた顔でバーナビーに笑いかけてきた。
まるで子供みたいな無防備な笑顔。バーナビーは思わず顔をほころばせて、先に部屋から出てゆく虎徹を追いかける。
「上着脱いだまま外に出たら、風邪引きますよ」
クロークから引き取ったコートをスーツの上から羽織りながら、バーナビーは虎徹と二人、しんと冷えた空気に包まれたシュテルンビルトの街を歩く。深夜0時近く。煌びやかな眠らない都市の中心部・シュテルンメダイユ地区は、新年を前にした沢山の人々でまだまだ賑わっている。喧騒の隙間を縫うように、白いものがちらちらと舞い落ちる。
「はー、ひっさびさにこんなに酔ったな」
外に出てようやく寒さに気がついたのか、虎徹はジャケットの襟を掻き合わせた。さむっ、と体を縮める虎徹の分の厚手のコートを、バーナビーは慌てて虎徹の背にかけてやる。
「あ、ワリィ。コート、すっかり忘れてた」
「そうだろうと思ってましたよ」
「普段あんまり着ねぇし」
「今年はやたら寒いですからね。ま、マンションが近いから急いで帰ればいい話なんですけど」
バーナビーは結局、以前住んでいたマンションに戻ってきた。元々契約金で購入していたし、通勤には便利だから。
「悪ぃな、泊めてもらって」
「構いませんよ、虎徹さんが来るのは初めてでもないですし……」
虎徹もブロンズステージの元のアパートを借りていた。以前と同じ部屋。そして、同じコンビとしての活動。ただ違うのは、虎徹が「ワイルドタイガー・1ミニット」である事を公表し、二人で2部ヒーローとして復帰した事。そして。
「話し足りないことが、たくさんあるんです」
バーナビーの誕生日に、電話で。
互いに告げた言葉は、胡麻化しようのない恋愛感情を抱いている、という事。
一人で旅に出て自分を見つめ直す。バーナビーにはその為に1年近くの時間が必要だった。記憶を操作されていない、本当の自分を探す旅。
色々な国、様々な人々。敢えて、沢山の人と交流を持って、出会いと別れを繰り返した。その国の中に紛れ込んで、同じ文化を体験して、短期間でも生活する事を経験してみた。
どんな風に受け止めるか、感じるか。そこから自分の本質を掴んでみたかったから。
トラブルも沢山経験した。時には力が正義だった事もあるし、特殊な能力を持つネクストと接触したりもした。
けれども。
ユースの簡素なベッドの上で。シュラフの中で。満天の星空の下で。ふと思い出すのは虎徹の顔だった。
会社命令でコンビを組まされてから、1年余り。虎徹は自分の能力減退を隠しながら、マーベリックに記憶操作を施され敵対した事を責めもせずに、最後までバーナビーの背中を支えてくれた。
記憶に刻まれた沢山の笑顔。怒った時の表情。そして、ぼろぼろに傷ついて涙を流す姿。
その一つ一つがとても綺麗な、大切なものに思えて、何度も何度も目を閉じて反芻した。
会いたい。そして、声が聞きたい。
耐えられなくなって何度も携帯を手に取り、けれども、何も整理がついていない自分を見せるのが嫌で諦めて。
しかし膨らんでいく気持ちを抑えられなくなって、いっそ一度シュテルンビルトに戻ろうかと考えていた時に、虎徹から電話が入った。
出逢ってから3度目の、バーナビーの誕生日を祝うために。
久しぶりに聞くその声は優しく、穏やかだった。
……ああ、僕は。
言葉より先に、零れ落ちる涙が何よりも雄弁にバーナビーの想いをはっきりと曝け出す。
自分の心の裡にある感情に名前をつけるならば。
それはもう、恋情以外の何物でもないのだと。
「俺も、お前の土産話、聞きたかったしな」
バーナビーの一歩先を行く虎徹の唇の端には、どこか嬉しげな笑みが浮かんでいた。
*
途中のドラッグストアで酒とつまみを買い込んで、バーナビーは虎徹を部屋へ案内した。がらんとした部屋は暖房が良く効いていて、外の寒さが嘘のようだ。
バーナビーがコートとスーツの上着を寝室のクロゼットにしまって戻ってくると、虎徹はコートもジャケットも、ベストまで脱いでしまって椅子の背にかけ、すっかり寛いだ格好で椅子にふんぞり返っていた。
「変わらねぇな、ここも。相変わらず、なんにもねぇし」
「この1年、殆ど留守にしていましたからね。……あ、でも、一応、来客用の椅子は買ったんですよ」
「お、すげーなー! それって俺のため? 嬉しいねー!」
「って、貴方が座っているのって、僕の椅子ですよ、虎徹さん」
「だってよぉ、俺、こっちの椅子の方が座り心地良くて好きだし」
バーナビーは苦笑しながら、来客用に買った座り心地の良い椅子に腰掛けた。
買ってきたビールをグラスに注いで、改めて二人で乾杯をする。重なったグラスが心地の良い音を立てて、広い室内に響いた。
「まさか、こんなに穏やかな年末が過ごせるなんて、思っていませんでした」
先に口を開いたのはバーナビーの方だ。
「去年は事件の後処理でバタバタしてたしな。俺もお前も怪我で満足に動けなかったし」
ビールに軽く口をつけた虎徹が、ナッツをつまみながら遠い目をする。もう、あれから1年経ったのだ。最後に、マーベリック護送中にルナティックが現われ、自分で自分の記憶を封じたマーベリックを殺害した、という事件は、二人を、そしてヒーロー達を驚愕させもしたのだが。
「まさかまた、二人でコンビ組んでヒーローやるなんてな。……俺、二度とシュテルンビルトに住む事はねぇだろ、なんて思ってたんだが」
感慨深げな表情で虎徹が語るのを、バーナビーは見つめる。
「僕は……実は貴方は、もしかしたら戻ってくるかも、って思ってました。正直、ヒーロー以外の事をしている貴方が想像出来なかったから」
「だっ! んだよそれ。実家に帰ってから、一応仕事してたんだぞ、俺。兄貴の酒屋手伝ってたんだけどさ。配達とか。あとちょっとしたバーがあったから、バーテン見習いみたいな事したりとか」
「それ、ちょっと見てみたかったような気もします。……でも、今、虎徹さんはこうして、ヒーローをやっているでしょう? 僕の予想はやっぱり当たった」
「馬ぁ鹿、予想ってのは最初に口に出して言っとかねぇと、ただの後出しジャンケンなんだって」
他愛のない会話に、笑顔が零れる。トレーニングの合間に、移動時間に交わしていた何気ない雑談。そして事件発生時の、一触即発の議論。どちらも、コンビでやっていくために必要なものだった。
一度は手放した、コンビとして過ごす密度の濃い時間。再会してコンビを再結成して、最初の内はぎこちないかもしれない、と思っていた。しかし、時間は壁にはならなかったのだ。
「お前はずっと旅してたんだろ? もっと、どっか回りたいとか、思わなかったのか?」
「殆どの大陸に行きましたし、今の所悔いはないです。他の国に住んでいるネクストと接触する事も出来たし、色々な経験が出来たんじゃないかと思ってます。でも何より、こちらに戻って、貴方に会いたかったんです。……虎徹さん」
酒の勢いを少しだけ借りて。バーナビーは本音をぶつけてみる。どうか、躱さずに受け止めて欲しい。そう願いながら。
「僕はずっと貴方にもたれかかってばかりだった。貴方の減退の事も、楓ちゃんの事も、気がつくどころか想像すら出来なかった。だから、……少しでも成長したくて、貴方の横に並びたくて。ずっと、そんな事ばかり考えてました。僕は貴方に沢山支えてもらったから、今度ば僕が、貴方を少しでも支えられるようになりたい。……一人で旅をして、何かあった時に貴方に頼れない状況になって初めて、気がついた事がありました」
虎徹がちびちびとビールを飲みながら、バーナビーを見つめている。その琥珀色の瞳に、冗談で終わらせようとする色はない。
「僕は貴方に抱きとめてもらった分、貴方を抱きとめたい。貴方を受け止めたい、って思うようになってました。貴方は僕に温もりをくれた。……一人で寝ている時、ふっと、その温かさが蘇って。ああ、僕は、この体温を求めているんだなって、思ったんです」
「バーナビー」
名前を呼ぶ声は低く甘く。そして、優しくバーナビーを受け止める。
「僕は貴方のように、家族がいる訳じゃない。でも、大切な家族を喪った痛みはきっと、他の誰よりもわかると思ってます。……貴方の事が好きです。僕の中の想いをどう表現すればいいのか、他に言葉が思いつきませんでした」
空になったグラスに、虎徹がビールを注ぐ。窓の外では雪が舞っていた。冬空の静寂に、注ぐ音が吸い込まれてゆく。
虎徹が顔を上げる。これまでバーナビーが見た事のないような、不思議な表情を浮かべていた。泣きそうな、笑顔のような。複雑な色合いの。
「……どうしたんですか、虎徹さん?」
虎徹が口角を上げて、切なげに笑う。
「いや、今になって、誰かに『好き』って言われたり、言ったりするなんて、なあって思って、さ」
その言葉はバーナビーの心を酷く揺さぶった。不安が、胸の奥に灯る。
バーナビーの表情が曇った事に気がついたのだろう。虎徹は苦笑しながら、そうじゃねぇんだ、悪かった、と言って頭を下げ、続けた。
「このトシになってな、大切なものが増えるって、結構、怖ぇんだよ。失った時のダメージが、な。若い時はキラキラしてても、……友恵が死んで、職場がなくなって、何とか新しい所で仕事が出来るようになったと思ったら能力が減退して。……お前見てて、正直、昔の事を思い出しちまってしんどい時があった。そこは、告白しとく」
虎徹は一旦黙って、ビールを半分程一気に煽った。ふう、と息をついて、続ける。
「でもな。でも……楽しい思い出が積み重なって、いっぱい笑ってケンカして。失いたくないものが、また、出来るなんて思わなかった。友恵を思う気持ちとも、楓を可愛いと思う部分とも違う。こういう気持ちを、他に俺は知らねぇから。友情ともちょっと違うし、こういう好きって何だろな、って考えた時に、一番しっくり来る言葉が『愛してる』だった」
もしかしたら。
バーナビーは思う。誕生日に電話で交わした「愛してる」は、自分と虎徹ではちょっと色彩の違うものなのかもしれない。
それを確かめたくて、バーナビーは立ち上がる。虎徹へ近寄って、不意に虎徹を椅子から立たせた。
「……ん? なんだ、バニー」
首を傾げる虎徹を、バーナビーは無言で抱き締めた。
バーナビーの瞳のほんの少し下に、虎徹の琥珀色の瞳が見えた。すぐ傍で見るその眼の色はまるで虎の目のように複雑な色合いで、バーナビーは思わず見入ってしまう。
お互いのシャツ越しに伝わる体温が、酒が入ったせいかとても熱く感じられた。ヒーロースーツ越しでなく身体を触れ合わせるのは、これが初めてかもしれないという事を、バーナビーは唐突に思い出し。
「お前、ひんやりしてるなあ」
虎徹はバーナビーのなすがままに、抱き寄せられていた。その腕がバーナビーの背中に回され、まるで子供をあやすみたいにぽん、ぽんと叩かれる。
バーナビーは苦笑しながら、告げた。
「……僕の言う『愛してる』は、虎徹さん程アガペー全開のものじゃないですよ。わかってないでしょう」
「へ? んだよ、それ」
「もっと、欲深いし露骨なものだと思います。僕は抱き締める以上の事を、貴方としたいと思ってますから」
「……」
黙り込んだ虎徹の反応は予想通りだった。多分そこまでの事は考えてなかったんじゃないだろうか。結婚した事もあって子供がいて、でも多分、奥さん以外と恋愛なんてした事がなくて、だからこそ考えつかなかったのかもしれないけど。
「……あのなバニーちゃん。死別しているっつっても、仮にも子持ちの既婚者に、そういう事言う? セックスする事だって、コミュニケーションの一つだって、わかってるからな?」
しかし、虎徹の口から飛び出した言葉は、バーナビーの予想を超えていた。戸惑いが、隠せない。
虎徹はその困惑を受け容れるように、バーナビーの背中を優しく撫でた。
「でもな、悪ぃけど俺は、付き合い始めて3日でセックスとかは無理。お前とは仕事での付き合いは長ぇけど、だからっていきなり色んなもんを飛び越して身体の関係、ってのはナシな? ……ってのは俺の恋愛観なんだけど、お前は違うのか? もしかして、すっげぇ遊び慣れてるとか?」
バーナビーは何も言えなくなってしまった。何も考えていないようで実は結構色々と考えている虎徹という存在を、自分はまだまだ理解しきれていない、と自覚する瞬間だ。
それに、実は余り大っぴらに言えない事情もあって。
「……それは」
口ごもるバーナビーに、虎徹がからかうような表情で続けた。
「ってもしかして、これまでの『他人なんて寄せ付けません』って態度を考えると、誰とも付き合った事ない、とか……」
何と答えていいか咄嗟に浮かばなくて黙り込むバーナビーの表情に、虎徹が「しまった」という顔をした。バーナビーは眉間に皺を寄せて、虎徹から目を逸らす。
「……あー、悪かった。俺が鈍感だったわ。早く気がついてりゃ良かったんだけど。まさか童……」
言いかけて途中で押し黙ってしまう。虎徹は気まずそうな声で謝ると、ぽりぽりと頭を掻いた。
「そうだよなぁ、あの態度でまともな恋愛してきてるとは思っちゃいけねぇよな……。お前、見た目ハンサムだから騙されるけど、最初いい性格してたもんな……。いや、俺も友恵としか付き合った事ないから、偉そうな事は言えねぇけど」
「……反論は、しません。人付き合いが煩わしかったのもあるので」
バーナビーが溜息混じりに告白すると、虎徹はバーナビーの頭を撫で回した。
「髪が、乱れます」
その言葉がツボだったのか、虎徹はいきなり吹き出してしまった。
「おま、セックスなんてしてたら、髪ぐしゃぐしゃだから! ったく、ホント、お前、見た目と中身が正反対だよなぁ」
部屋の真ん中で立って抱き合いながらする会話の余りの色気のなさにがっくり来ながら、バーナビーは虎徹の背中に腕を回す。虎徹の鼓動が伝わってくるが、虎徹はまだ笑いを止められなかった。
「……いい加減に笑うのやめませんか? いくらなんでも失礼ですよ」
今のバーナビーが何を言っても負け惜しみにしか聞こえないかもしれないけれど、とりあえず虎徹に対して反論をする。このまま笑いものにされるのが悔しかったので、バーナビーは強引に、虎徹の両頬を掌で挟んで、押し付けるようにキスをした。
勢い余って虎徹の歯がぶつかる。かちん、と音がして痛みが走った。
「って!」
虎徹が叫んだので慌てて唇を離すと、自分の唇から血の味がした。どうやら、バーナビーの唇に虎徹の歯が当たって、それで押し切られてしまったらしい。
「あーあ。いきなり慣れない事するから……」
虎徹の指がバーナビーの唇に触れる。撫でる感覚は思ったよりも随分優しく、柔らかだ。
「……すみません」
「だーから、言ったろ。いきなりは無理だって。大体お前、どうやってするかとか、それ以前の問題だろ? 恋愛するんだったら綺麗事じゃ済まねぇから、言ってんだ。見たくないものが見えてくるかもしれねぇ。それを受け容れる覚悟をちゃんと決めろ。苦しい事の方が、もしかしたら多いかもしれねぇぞ? 一時の感情に流されて、大事なものを見失うなよ。……だから、時間かけたいんだよ、俺もな」
偉そうに説教して、と反抗したくもある。そして、このまま勢いで行く所まで行ってしまいたい気もする。でも、虎徹の言う事には、有無を言わせない説得力があった。
「俺だって長いこと恋愛なんてしてないから、やり方なんて忘れちまった。そもそも、男同士でどうやってするのか、とか、わかんねぇって。だから、俺にも時間くれよ」
言いながら、虎徹はバーナビーの唇の傷を、その舌で優しく舐めた。
「……!」
「まあ、キスとハグくらいなら、別に今しても構わねぇ、けどな」
虎徹の吐息がバーナビーの唇を温めて。それから、ふわりと唇が重ねられた。挨拶のキスは小さい頃から、色々な人物と沢山している。それだけではないキスを、これからするのだ。虎徹と。
血の味がして、バーナビーは無理矢理したさっきのキスを後悔した。虎徹が不快な気分になっているんじゃないだろうか。
ちらり、と虎徹の表情を覗く。虎徹は目尻を下げ、一旦唇を離すと、バーナビーの眼鏡をその手で外してしまった。
「眼鏡、結構邪魔なんだよな」
虎徹は後ろ手で眼鏡を椅子に放り投げて、もう一度口づけてきた。ちゅっ、と吸い付く音がして、何度も何度も軽く触れられる。
「……やっぱりお前、睫毛なげぇよな」
間近に迫る虎徹の瞳が、僅かに潤んでいる気がする。貴方こそ、とても綺麗な瞳の色です、と言いたかったけれど、それを伝える合間に、もっと唇の感触を味わいたかった。バーナビーは自分から深く口づけて、お返しをするように虎徹の唇を舌で舐める。腕の中の虎徹が震えた。
不意に、虎徹の舌がバーナビーの舌と絡む。唾液の交じる、とろりとした感覚が心地良い。溢れる唾液を分かち合って、虎徹がそれを飲み込む。喉が動くのが見えて、バーナビーの身体にぞくりと戦慄のようなものが駆け抜けた。
キスだけで。ただ、唇と唇が触れるだけの行為なのに。
酒よりももっと、深い酩酊感。
「……ん」
バーナビーは夢中で唇を貪る。虎徹も同じように、キスの感触を味わっているようだった。艷めいた喉声がバーナビーを煽る。身体がどんどん熱を帯びてゆく。誰かに触れて、快楽を分かち合う深さをバーナビーは初めて体感していた。何もかも忘れて、夢中になってしまう。自分の意識が、唇に、その向こうの虎徹だけを求める深い感覚は初めてで、バーナビーはキスの事しか考えられなくなった。虎徹を腕で強く縛めて、さらに口づけを求める。唾液が筋を描いて、虎徹の唇の端から零れ落ちた。その姿は何故だか、バーナビーの征服欲のようなものを煽る。
虎徹はどう思っているんだろう。感じているんだろうか。もっと欲しい気持ちがあるんだろうか。
気になってちらりと虎徹の表情を伺う。紅潮した頬が、快楽を追うように軽く閉じられた瞳が、そこから僅かに覗く濃い琥珀が、壮絶な程の色香を発していた。バーナビーの背を走る、ぞく、とした戦慄。
これまでに見たことのない顔だった。普段のストイックといっても良いような態度とは正反対の、センシュアルな佇まいが、意外な程だった。
もっと欲しい。もっと深い表情を、反応を見てみたい。
突き上げるような欲望がバーナビーを灼く。
「……ふ……っ」
息苦しくなる程激しく。強く。何度も離れて、そして重ねる行為が繰り返される。バーナビーからも、虎徹からも。触れ合う音は少しずつ大きさを増して、バーナビーの欲望をさらに煽った。
唇から、バーナビーの想いが虎徹に伝わればいい。
そして、バーナビーに溺れて欲しい。
この人が心の中に抱えている重い何かを、忘れてしまうくらいに。
「ん、ん……」
虎徹が一瞬だけ苦しげな表情を見せたので、バーナビーはそろり、と唇を離した。
虎徹の唇が唾液で濡れて光っている。もっと触れて、全部舐めとってしまいたい。そんな風に思う自分が不思議だった。
誰とも交わりたくない、深く関わりたくないと思っていたのに。
無理矢理コンビを組まされて、嫌々顔を合わせていたあの頃から、なんて遠くへ来たんだろう。
不満を口にしながら、虎徹はバーナビーの傍にいてくれた。そして、バーナビーにとってかけがえのない存在になった。
……虎徹にとっての自分が、そんな存在になればいい。
誰かを切実に欲しいと願う、こんな感情が自分の中にある事を、バーナビーは虎徹に会って初めて知ったのだ。
「……息、出来ねぇって」
虎徹は深呼吸をしてから、バーナビーの頭をあやすように撫でた。
「また、子供扱いする」
「まだ、コドモだろ」
不平を述べるバーナビーをからかうような口調で虎徹は言う。少し紅潮した頬に、優しげな笑みが浮かんで。
「……溺れちまう」
聞こえるか聞こえないか位の掠れた小さな声で、虎徹がぼそり、と呟いた。
「え?」
「いや、人肌の感触って、心地いいよな、って思って」
互いの腰に腕をまわして緩く抱き合っている。密着するのではなくて、仄かに体温を感じる程度の接触。
「お前、ひんやりしてるから、気持ちいーわ」
「貴方は、温かいです。……何だか、不思議な感じがします。人の温もりを感じるのが、嫌じゃない」
虎徹は何故か苦笑して、もう一度バーナビーの頭を撫でた。
「ホント、お前、人間と触れ合って来なかったのな。……だったら余計、いきなりセックスはやめとけよ。な? そんなに焦んなって。お前が言ったんだろ? 『二人の思い出はこれからいくらでも作れる』 ってさ」
「……そうでしたね」
マーベリックに改竄されていた過去の記憶。旅をしている間、あれもこれも嘘かもしれない、と不安に駆られた時に、思い出すのはいつも虎徹の顔だった。どれだけ嘘で塗り固められていたとしても、虎徹とコンビを組んでから、積み重ねられた思い出だけは絶対に揺らがないものなのだと自分に言い聞かせることが、どれだけバーナビーの救いになっただろう。
バーナビーは強く、虎徹を抱き締める。体温が、微かなフレグランスの香りが伝わって来る。バーナビーの身体で感じ取る、虎徹の存在感。
「抱き合ってるだけで、伝わってくるもんだってある、だろ?」
虎徹の腕がバーナビーの背中にゆるりとまわされた。
どうしてか、泣きたくなる。
それは、両親に愛されていた頃の幸せな記憶を呼び起こすような優しい仕草だった。
「虎徹さん……っ」
ぼろぼろと、涙が零れ落ちる。この人と出会うまで、こんなに泣いた事なんてなかったのに。しかし、恥ずかしくはなかった。自分を曝け出す事が出来るのは、この人の前でだけだから。
「お前、よく泣くなあ。……いいよ、沢山泣けよ。これまでまともに泣いたり笑ったり出来なかった分も、な」
低く甘い声で囁かれる。
切ない。愛しい。けれども、どうしようもなく、幸せで。
様々な感情が色を変えて、瞳の縁から溢れ出す。けれども、不思議と悲しくはなかった。受け止めてくれる人がいる、ただそれだけで、涙を流すのは辛い事じゃなくなる。
「……っ」
止まらない涙を、虎徹はその温かい唇で拭ってくれた。
「なあバニー。……まだ、言ってなかったな。お前が帰って来て、また会えて、良かった。おかえり、バニー」
虎徹も少しだけ涙声で、バーナビーは余計に泣きたくなる。
「た、だいま……虎徹、さん」
あやすように、リズミカルに背中をぽんぽんと叩かれて。
まるで子供扱いだ、とも思うけれど、虎徹の優しさが胸に沁みた。
「バニー。今日は、こんな風に引っついて、一緒のベッドで眠るんだ。誰かと一緒に寝るって、すっげー安心すんだぞ」
目まぐるしく変化し続け、様々な事件に振り回された2年間を越えて。
少しずつ。
一歩ずつゆっくりと、進めていく二人の関係が、これから始まる。
優しいキスと、抱擁から。
「……はい」
「よっし、いい返事だ。思う存分、泣いとけよ」
「ええ……」
窓の外に降る雪が、どこか温かい色をして、静かに二人が一つに重なる様を見守っていた。
2011.11.5アップ。6日合わせの兎虎合同コピー本の一部です。まーにーあーうーのーかー。
この後に虎徹視点のR-18ものが入るのです…おわらねー! なんでこんなに長くなってるんだ。