花に嵐の喩えもあるさ、さよならだけが人生だ。
子供の頃見たテレビ番組で、キモノを着た女性が唄っていた。
何故か頭に残って、ずっと忘れられない一節。
友恵が亡くなってから2回目の夏が来た。
「もう2年にもなるのねぇ……」
送り火を見つめながら、母ちゃんが感慨深げに呟いていたのが忘れられない。
なあ友恵、楓も小学生になったんだ。
まだまだ中身は甘えん坊の子供だけど、身長はあの頃に比べて随分伸びた。入学した当初はランドセルに振り回されてたのが、今ではすっかり慣れて。
「じゃあパパ、またかえってきてね! やくそくだからね!」
「ああ、多分秋には一度顔を出せると思うから。またな、楓」
お互い笑顔で、小指に小指を絡めて指切りげんまん。でも別れ際、楓は一瞬だけ、今にも泣きそうにくしゃりと顔をゆがめる。
……ごめんな。
ここの所出動頻度が上がってしまって、約束した日時に連絡が出来なかったり、帰れなかったりが続いていた。
後で空き時間を見つけて楓と話すと、決まって「さみしくないよ! おしごと、がんばってね!」と明るく答える。
逆に俺の方が寂しさと申し訳なさで泣きそうになりながら、通話をオフにすることもしょっちゅうで。
「……はあ」
いつものバーのカウンター。今日はロックバイソンはいない。
誘う気にもなれず一人で酒を呷っていた。
でも、酔えない。
頭の芯がいやに冴えていて、アルコールに浸る事も出来ない。くそ。
普段なら、酔えば少しは楽になるのに。
「今日は随分とピッチが早くないですか?」
「んなこたねぇよ」
静かなマスターが珍しく話しかけてくるのを笑顔でかわす。
「今日、すげぇ酒がうまく感じるんだわ。……あー、テキーラとかある?」
「……少しだけなら」
普段ならバイソンが好んで飲む酒をオーダーする。
マスターは苦笑しながら大小二つのグラスと皿を差し出してくれた。
ライムと塩、大きなグラスになみなみと注がれたサングリア、そして小さなテキーラグラスにほんのちょっぴりのテキーラ。
「今日はその方が良いようなので」
サングリアで薄めて飲め、ということらしい。なんだよ。酒くらい好きに飲ませてくれねぇかな。
「……アントニオがいれば飲み比べしてやってもいーんだけどなー」
普段飲み比べをしても大概勝ってしまうので、最近はつまらなくなってやめていたけれど。
ライムに塩をかけてひとかじり。酸っぱさとしょっぱさに顔をしかめながらテキーラを放り込むみたいに口に入れる。
誰がサングリアで薄めたりするか。もったいない。
勢いに任せて飲み込む。食道から胃にかけて焼けるみたいな感触。
味なんて碌にわからない。ただ勢いに任せて酔えればそれでいい。
「……っ、げほっ」
濃密なアルコールの匂いに思わず噎せた。慌ててサングリアを飲んで、腹の中で薄める。
テキーラグラスは一瞬で空だ。
「もう一杯」
「……やめておいた方が」
「これで最後にしとくからさ」
溜息とともに出されたテキーラは、最初の半分だった。底に5ミリ位。
「なーんだ、ケチだなあ」
「もう在庫がないんですよ」
見え透いた嘘をつかれて顔をしかめるけれど、向こうも心配はしてくれているんだろう。
仕方なくもう一度塩かけライムをかじり、テキーラを今度はちびちびと少しずつ飲む。
酒精が身体を巡り、頭が、視界がぐらりとまわった。
あ、これはマズい。
新しいライムをサングリアの中に絞って、かき混ぜもせずにがぶ飲みする。トマトとライムの味を微かに感じたような気もするが、舌が痺れたのか、温さしか感じなくなる。
「やっべ、一気に酔いがまわっちまった。……帰るわ」
立ち上がろうとするが、案の定足に力が入らない。ぺたり、と椅子に座りこんだ。
マスターが黙って水を差し出してくれる。
それを一気に飲み干し、もう一度、テーブルにつかまって立ち上がる。なんとかバランスを取りながら財布をポケットから出し、代金をテーブルに置いた。
「サンキュ、マスター」
「お気をつけて。最近、物騒ですからね」
「ああ、そうだな。久々にタクシーでも使うよ」
けれども、財布は飲み代を払ったら、タクシー代にちょっと足りないくらいの現金しかなかった。
手持ちの現金を引き出すのを忘れてたな、ととりとめもない事を思い出しながら、俺は店のドアを開ける。
古いドアが軋んだ。
……暑い。
昼間、太陽に炙られたアスファルトにまだ熱が残ってるんだろう。
出た途端に汗が吹き出して身体がべたつく。
「あっぢぃ」
一歩踏み出した道路から熱気が伝わってくるようだった。
そういえば、午前中は雨が降ってたな。だからこんなに湿度が高いのか。
視界が回る。ああ、なんだか地面が揺れてるような気がするな。地震か?
真っ直ぐに歩いているつもりなのに、やたらとビルの壁にぶつかって埃が立った。
「酔ってねーぞ、俺は」
意識だけは妙に冴えわたっている。
シュテルンビルトに戻ってきてから、何故だかわからないけれど眠りが浅い。
友恵が死んだ時も、眠る事だけは出来ていたのに。
うとうととしては悪夢にうなされて目覚めるこの1週間、食欲もあからさまに落ちた。
腹が減らない。でも何か食べないと、筋肉が落ちちまう。
とりあえずプロテインを飲んで、ごまかしごまかし出動していたけれど、あからさまに体重が落ちたのがわかるのだろう。
ネイサンがある日、心配そうに抱きついてきた。
夏バテなんだよ、と笑って流しはしたけれども、あいつは妙に勘が鋭いから困る。
今夜こそはぐっすり眠れるだろうか。
悪夢を、友恵がいなくなる夢を見ずに済むだろうか。
突然、足元にある何かに躓いた。
「……うわっ!」
たたらを踏んで耐えようとしたけれど、2,3歩よろよろとした末に、うず高く積まれたごみの上に前のめりに突っ込む。
衝撃はそれ程でもなかったけれど、とにかく酷い臭いだ。
「くっそ」
立ち上がろうとごみ袋の山の上に腕を立てようとするけれど、腕は埋もれるばかりで、ちっとも起き上がれない。
「だっ」
じたばたともがいて力を入れて、でも、うまくいかなかった。
「……ふんがっ」
ああ、何してんだ俺。唐突に惨めさに襲われて、もがく腕から力が抜ける。
……一人だ。
誰かが掬い上げてくれるのでもない。
支えを失って、大切な存在と離れて暮らすしかなくて。一人酒でふらふらになった挙げ句ゴミまみれになって。
「……ははっ」
笑い声しか出ない。自分を憐れむための涙なんてとうに枯れている。
どっと押し寄せる孤独感に潰れそうになっていることに、今、初めて気がついた。
早く家に帰ってシャワー浴びて寝よう。
今日は酔っぱらってるから、きっと夢も見ずに爆睡出来る。
早く。
立たなきゃ。
唐突に、腕を引っ張られた。
「大丈夫ですか?!」
まだ若い男の声。ぐっと身体を支えられ、ゴミの山から何とか抜け出す。けど。
「だぁっ!」
引っ張られた反動で思いっきり男の体にぶつかり、今度は男と一緒にゴミの上に転がってしまった。
「うわっ」
「あったたたー、わ、わりぃ」
街灯の薄明かりの下で、上半身を起こした男が顔をしかめながら手を差し出す。それを握ると、線の細いように見えるシルエットからは想像のつかないような強い力で引き起こされた。
反動で、今度はどん、と男の身体にぶつかる。体温は低く、ひんやりしていた。
足に力が入らなくて、結局ぺたりと地面に尻餅をつく。
「一体どうしたんですか?」
まだ20歳前後に見える青年は、印象的な形の眼鏡をかけていた。
鍛えられた身体のラインが顕になる、黒いTシャツに小綺麗なジーンズ。でも、ゴミのせいで汚れてしまっている。
「……いや、つまづいちまっただけ。サンキューな。わりぃ、汚しちまった」
「怪我はありませんか?」
「ああ、大丈夫だ」
青年はぱんぱん、とホコリを払って、立ち去ろうとした。……でも、その姿はあんまりだ。俺は、慌てて腕を掴んで、引っ張る。
「……よかったら、うちでシャワーでも浴びてってくれ。その間に、服を洗濯するから」
「気にしなくていいですよ」
背を向けた青年を、かなり強引に引き止めた。
「いやいや、それじゃ俺の気がすまねぇ。どっろどろだし、タクシーに乗ってもらうにしてもそのカッコじゃアレだからさ」
青年はしばらく立ち止まって考えていたが、思い直したのだろう。俺の方に向き直って笑顔を見せた。
「……そうですね。じゃあ、お言葉に甘えて」
……今にして思えば、その時、一人でいることがしんどくなったのかもしれない。その後、何が起こったかを考えると、頭を抱えたくなるような申し出だったんだけど。
千鳥足でよろよろと歩き出すと、青年は見かねたのか肩を貸してくれた。
「……飲み過ぎじゃありませんか?」
「身体は酔ってるけど、頭は冴えてるぜ?」
微かにマリン系のフレグランスが薫る。ああ、悪いことしたなぁ。顔の作りも整ってるのオシャレ系男子なのに、こんなにゴミまみれにしちまって。
「このままじゃ、いー男が台無しだもんな。彼女に見られたらフラれちまう」
「……」
何故か無言になった青年に冗談を飛ばしてみた。
「なんだ、彼女とケンカでもしたのか?! 失ってから大切さに気がついても遅いんだぜ?」
「……完全に酔ってるんですね」
溜息混じりに青年は言って、 ポケットから取り出したハンカチで俺の顔を拭ってくれた。……子ども扱いかよ。
「家はどちらの方向ですか?」
「ああ、あっち」
ここからアパートまでは歩いて5分程だ。
指を刺した方向に、青年が足を向ける。
「タクシーとか電車使うのも微妙な距離なもんだから。酔い覚ましに丁度いいくらいの距離なんだよなぁ」
「……僕がその間ずっと肩を貸しておくんですね」
苦笑する気配。
「まっ、これも何かの縁だ。せっかくだからよろしく〜」
軽口を叩きながらも、俺は内心安堵する。
自分の事を知っている人間と一緒にいたくない。
けれども誰かの気配を感じていたい。
矛盾した感情の隙間に、青年の少し低い体温が、するりと滑り込んでくるみたいに伝わってきた。
「わかりました」
青年は仕方ない、という風情で溜息をついて、足を踏み出した。
180センチの自分よりもほんの少し高い肩。
細身だけれども程よく鍛えられた身体。
何となく同じ匂いを感じるんだけど、気のせいだろうか。
「……よく鍛えてるなー青年。なんかスポーツでもやってんの?」
「ええ、まあ」
ちらりと視界に入ったのはとても曖昧な、内心を読ませない表情で。何かを言いたげな、隠したげな瞳が、ちらりと俺を見る。
そして唇が一瞬だけ開いて、閉じた。
「まだ二十歳(ハタチ)そこそこだろ? それくらいのトシって、やたら鍛えたくなったりすんだよな。で、筋肉付き過ぎて、身体重くなって初めて後悔、みたいな」
「僕はまだ持久力が足りないですから」
「長引かせてもヘタるばっかりで、いい事なんてねぇよ。5分間が勝負だからな」
青年の顔を覗き込みながら、冷やかすようにそう言う。
驚いたように目を見開いたのは何でだろう。……ま、いっか。
「肝に銘じておきます」
苦笑しながら、青年は交差点の赤信号で立ち止まる。
「ここから、どう行けばいいですか?」
「ああ、左に曲がってしばらく歩いてたら、アパート見えてくっから」
「はい」
それからアパートの前に到着するまで、俺はとりとめもない事をつらつらと青年に向かって話しかけていた。
半分聞き流されていたような気もするけど、時々口の端に微かに笑みを浮かべたりして。
酔いも手伝って、普段よりも饒舌な自分がなんだかおかしい。
でも、それ以上に、誰かと一緒に家に帰る事が嬉しかった。
「たーだいまっと」
誰もいない空間に声をかけながら、アパートのドアを開け電気をつける。
「わりぃな、散らかってるけど」
ゆうべ晩酌をしようと準備をした時に呼び出しがかかったから、チャーハンだけ冷蔵庫に突っ込んで慌てて出てきた。幸い、乾いた洗濯物をクローゼットに仕舞った後だったから、それ程見た目は酷くない……と思う、多分。
「そこ、座ってくれ。ちょっと着替え貸しとくから、シャワー浴びてこいよ」
青年は何故か立ったままだ。
「どした?」
「いえ、汚してしまうな、と思って」
「ああ、気にすんなって。ちょっと待っててくれ、準備するから」
クローゼットから自分の着替えと、青年の部屋着になるようなTシャツとハーフパンツ、ストックしてあった未開封の下着とタオルを引っ張り出し、カゴに突っ込んで渡す。
「今着てる服をカゴに入れてくれ。シャワー浴びてる間に洗濯すっから」
結局立ったままだった青年の背中を押してバスルームへと連れて行く。脱衣所の洗濯機の蓋を開けてから、ふと気がついた。
「ああ、このまま服入れればいいんじゃね? 酔っぱらってんなー俺」
自分の服を脱いで洗濯機へ突っ込み、下着だけになって腰にタオルを巻く。それから、下着も脱いで放り込んだ。
「俺はあとでシャワー浴びるから、とりあえずこの中に脱いだ服を入れてくれよ」
「……はい」
戸惑った顔をしながら、青年はそろりとTシャツを脱いだ。黒いシャツから出てきた腹筋が、見事に割れている。
「やっぱり、鍛えてんなぁ。もしかして格闘技とかやってる?」
苦笑しながら、彼は頷いた。
「ええ、ちょっとだけ」
一旦カゴの中身を出して避け、背を向けて服を脱ぎ始めた青年は、結局脱いだ服を全部カゴに入れた。
「じゃあ、お借りします」
バスルームのドアが閉まった音を聞いてから、カゴをつかんで洗濯機に服を突っ込む。それから、青年の分の着替えをまたカゴに入れて。
乾燥まで入れたら2時間弱ってとこか。
強めに入れたエアコンが効いてきたみたいで、肌寒さに少しだけ震えた。
「カゴの中に着替え移したからなー」
ドア越しに声をかけると、はい、というよく通る声が返ってきた。
テーブルに二人分のグラスとミネラルウォーター、ビールの缶を並べ、つまみを適当に皿に盛ってから、シャワーを浴びて出てきた青年と交代する。
青年は物珍しそうに、壁際のレコードプレイヤーを眺めていた。
俺が渡したTシャツとハーフパンツは微妙に裾足らずだ。まあ、間に合わせだから仕方ねぇか。
「適当に飲んでていいから」
頷いた青年は汗をかいたグラスにミネラルウォーターを注いだ。
「おー、真面目だな青年」
「そういう訳ではないんですが」
「ま、洗濯終わるまでしばらくかかるから、くつろいでてくれ」
時計は午前2時を指している。
首にタオルを引っかけ、ハーフパンツだけ履いてバスルームから出ると、青年はチーズを片手にミネラルウォーターを飲んでいた。
「せっかくだからビール飲んでもいいんだぞ〜」
「……出来れば、ビールよりワインの方が」
「なんだそういう事か。舌肥えてんなぁ」
冷蔵庫に入れっぱなしにしてあった、もらいもののワインを引っ張り出す。
「なんかそれ、すっげーいい奴らしいから」
ファイヤーエンブレムからもらったロゼワインは超高級品らしかったが、さすがに一気に飲むには勢いがいるし、一度空けると風味が落ちてしまうと思うと何となく手が出ずにいた。
「せっかく客が来てるんだったら、まあ1本空けるくらいは簡単だろ。頑張れよ青年」
「貴方、まだ飲むんですか?」
「グラス1杯だけだって」
不意に、飲みすぎだとよくたしなめられていたことを思い出す。
リビングに背を向けた写真立て。
画像を、映像を見る事が辛くて、数日前に視界に入らないようにしたばかりだった。
「……これ以上飲んだら、明日地獄を見るな」
言い淀んでしまったのに気がついたのか、青年は背を向けた写真立てに視線を移す。
「ははっ、覚えときたいのに、直視したくない思い出ってのもあるもんなんだぜ、青年」
冗談めかしておどけながら、新しく出したグラスにワインを注ぐ。
青年はふっ、と溜息をついて、ワイングラスを受け取った。
「じゃ、かんぱ〜い」
出来るだけ陽気な笑顔を作ってグラスを掲げると、青年は苦笑しながら、同じように掲げた。
「……美味しいですね。こんなの、初めて飲んだ」
青年のグラスにはもうワインは残っていない。
「ペースはえぇよ」
からかいながら口にするロゼワインは深みのある味で、確かに高級だとわかるような代物だ。
「あいつやっぱりブルジョワだな。うめぇ」
空になった青年のグラスに注ぐついでに、自分のにも入れる。
「1杯にしておくんじゃなかったんですか?」
「いいのいいの。こんだけ美味いのに、1杯じゃもったいない」
チーズやナッツ、ビーフジャーキーを片手に。
青年はほんのり顔を赤くしながらも、ぐいぐいと飲んでいる。
「結構イケる口だな」
「普段はこんなに飲んだりしないんですが」
「ふーん、じゃ、はじめての飲み過ぎ体験するかもぉ?」
「……少なくとも、これまで二日酔いの経験はありませんね」
「いいねー、じゃ、俺が潰してやろっかな」
「僕は貴方みたいに最初から酔っぱらってはいませんから」
青年はあからさまに顔をしかめたけれど、軽口を叩ける誰かがいるのは、単純に嬉しいから、つい言い過ぎてしまう。
「どうしたんですか、ニヤニヤして」
「いや、ここに誰かが遊びに来るってのが、不思議でさ。まずないから、面白ぇなあと思って」
「……遊びに来た訳では」
「まーそこは置いといて。……仕事の都合で子供置いて単身赴任だから、時々寂しくなるワケだ」
飲んだばかりのワインが身体をまわりはじめる。ガツンと来るテキーラとは違って、ふわふわと浮き上がるような感覚。
――知らない人間が相手だから、言える事がある。
「奥さんは、お子さんの所に?」
「いや、……2年前に、一足先に逝っちまった」
「……そうですか」
「本当は娘と一緒に暮らしたいけど、仕事の時間が不規則だからそうもいかねぇし。……色々、うまく行かねーもんだな」
エアコンの風が裸の上半身に当たって、すっと冷えていく。
まるで一人でいる時の虚無感が、心に広がるみたいに。
ヒーロー連中に弱みは見せたくない。だからといって他に言える人間がいる訳でもない。抱え込んだ喪失感は一生消えないものだ。
ぽっかり空いた穴と一緒に、生きていく。
楓の選ぶ恋人にイヤミを言う日が来るまで、絶対に死ねない。
時々それが、とてつもなく重くのしかかる。
最愛の人を亡くしてもまだ、自分はのうのうと生きている。その事実の重さと一緒に。
「なあ青年」
「……はい」
「好きな人が出来たら、全力で大切にしろよ。いなくなってから後悔したって、遅いから。まあ、そんなにハンサムだったら彼女の一人や二人いるか」
「僕は」
青年と目が合った。どこか暗いものを孕んだ瞳の色に、初めて気がつく。
「僕には、しなければならないことがあるから。そんな事よりも先に」
思い詰めた口調で、声で。
そもそも深夜に、明らかにゴールドステージに住んでいる匂いのする人間が、どうしてあんな治安の悪い繁華街にいるのか。
最初に気づくべきだった。
これだから、ウカツだってベンさんに突っ込まれるんだ全く。
俺は苦笑して、青年の頭にぽん、と手を置く。
「なんだ、訳ありか? ……でもな。それを棚上げしてでも、目の前にいる誰かを大切にしたい、と思う瞬間って、必ずあるから、な。……って、今カッコいい事言ったな、俺」
「……っ、貴方は、人の事を心配している場合なんですか?」
強い口調の反論だった。青年の憤りが伝わってくる。ああ、怒らせちまった。
「……だなぁ」
苦笑するしかない。
道に迷っているのは俺も同じだ。
偉そうに講釈を垂れてるけど、内心はいつも揺れている。
見知らぬ、訳ありげな青年を家に引っ張り込んで、酒盛りをしてしまうくらいには、孤独だ。――でも。
「何となく、お前、昔の俺に似てる気がするんだな」
「……え?」
「無茶してるだろ、今」
「してませんよ」
「そんなハリネズミみたいに武装しててもな、案外、周りの人は知ってて、助けてくれてるもんだぜ」
「……」
急にワインが身体に来たらしい。視界がぐるぐる回って、そのままソファにあおむけに倒れた。
「おっと」
「大丈夫ですか?!」
青年が俺の顔を覗き込んだ。ほんのり赤い顔。碧色の瞳が不安そうに揺れている。
「だいじょぶだいじょぶ、ちょっといい気分なだけ」
へらっと笑ってみせたけれど、青年の顔から心配気な表情は消えない。
「それでも、昔に比べたらいい酔い方してるんだぜ、これでも」
彼女が死んだ直後は飲んでも全く酔わなかった。強い酒は何の慰めにもならず、しまいには飲む気さえ失せてぼんやりする日々が続いた。
再び飲めるようになったのは1周忌を過ぎてからだ。
現実なのか夢なのかわからない日々。
ただ、がむしゃらに仕事に打ち込んだ。
前のめりになって働いて、働いて、それでも「正義の壊し屋」と揶揄される毎日。
「ときぐすり、っていうけど、そんなに簡単に治しちゃくれねぇな。この、空っぽな感じは」
じんわりと涙が浮かんできて、慌てて目をこすった。
ああ、みっともねぇ。
青年が戸惑いを隠せない顔でじっと見つめている。
そりゃあ、リアクションに困るよな。
酔っぱらって昔を思い出して涙ぐんでる30代を目の前にしてるんだから。
「わりぃけど、水もらっていいか? 喉渇いてさ……さすがに飲み過ぎた」
「……はい」
空のコップにミネラルウォーターを注いで、手渡してくれる。
横を向いて飲もうとしたけれど、うまく飲み下しきれなくて、ぼたぼたと水がこぼれた。
「あー」
唇から頬へ。そしてソファへ。コップの中身が3分の1程減ってしまっている。
「はは、酔っぱらってんなー、俺」
「少し、身体を起こせますか?」
少し反動をつけて身体を起こそうとしたけれど、身体は言うことを聞かず。また、ぽす、と倒れこんでしまった。
「あれ。ダメだな。目が回る」
軽く脱水症状でも起こしてるんだろうか。
今日は暑かったし。しまったな。
濡れた頬を拭って、手の甲についた水をぺろりと舐める。うまい。
起きて、水が飲みてぇ……。
喉が鳴る。
その時、青年が何故か溜息をついた。
なんだ?
俺から不意にグラスを取り上げ、水を口にする。
顔が近づく。俺の視界に影が差した。どうする気だ。
そして、唇を押しつけてきた。
「……んッ」
……口移しかよ!
驚きの余り僅かに開いた口の間から、ひやりとしたミネラルウォーターが流れ込んでくる。
反射的に飲み下したら、喉の鳴る音がいやに大きく聞こえた。でも。
「……うまい」
自分の声が掠れているのがわかる。
喉を落ちてゆく水がとても甘くて美味しい。
何の変哲もないミネラルウォーターなのに、どういう事だ?
青年はもう一度、同じ仕草を繰り返して。口移しで水を飲まされた。
冷たい。……熱い。
ひやりとした水の感触と、体温。深く触れた粘膜はしかし、微かに熱を持っていて。
口腔に含まれる液体が、俺の舌から体温を奪う。まるで青年の肌の冷たさが移るみたいに。
潤ったはずの喉が渇く。
――もっと欲しい。これじゃ足りない。なあ。
「もう一口、くれよ」
「……」
青年は無言で目を見開く。ああ、驚いたんだろう。そりゃそうだ。俺だって驚いてる。
酔って頭沸いてんだな。きっとそうだ。
見ず知らずの青年に口移しで水飲まされて、さらにねだったりなんかして。
正気じゃ無理だって。
それに、俺は身持ちだけは固い自信があるんだ。
だからきっと、今ここで起きている事は、何かの夢か、冗談だ。
勢いよく青年がグラスをあおって、もう一度唇を寄せた。
さっきよりも少しだけ温くなった水が流れ込んでくる。俺は一瞬でそれを飲み干した。
なのに、さらに喉が渇く気がする。
なあ、もっと欲しいんですけど。
青年の首に腕を回して顔を引き寄せる。そして、開いた唇の間から舌を滑り込ませて、残った水分をすすりあげるみたいに、舐め取った。
ちゅくり、と生々しい音がする。そして絡み合った舌が一瞬で熱くなった。
「ん、ふ」
なすがままだった青年が、不意に俺の顔の横に肘をついて、体重を支えるようにする。
勢いよく、覆いかぶさるようにして。強く、唇を押しつけてきた。
一瞬、俺の肌に眼鏡のレンズが当たる。
ああ、汚しちまうかも。後で拭いた方がいいんだよな。
……なんて、とりとめもない考えが浮かんでは消え。
与えられるのは若い、どこか慣れない、ぎこちないキスだ。
もっと深く絡めればいいのに。交わるみたいにしたら、多分。
――俺の中の、この渇きを癒せるのに。
「……はっ」
息を継ぐために少しだけ唇を離す。そして、もう一度。
今度は青年の方から舌を絡めてきた。吸いつくような、余裕のない動き。
微かに笑ってしまったのがわかったんだろう。
まるで俺を食べつくすような動きで舌を甘噛みしてきて、刺激が身体にぴりり、とはしる。
……なんか、兎みたいだ。
小学生の頃に学校で飼っていた兎。手を伸ばすと近寄ってきて、かぷり、と痛くない程度に指を噛んだ。その感触。
「ん……う……っ」
誰かと深く交わる感触。粘膜を通して伝わる熱は猛々しいくらいで。
唾液が絡む。ぬめった音がする。
――まるでセックスしてるみたいだ。
出入りする。どろどろになる。
とろりと融けて、自分と相手の境目がわからなくなる。
アルコールよりも余程――毒だ。
混じり合った唾液を飲み下そうとするけれど、それは口の端から溢れて零れ落ちる。
舌が、唇が離れた。
青年の手が頬に触れた。拭うように指が動いて、その指が1本だけ、口の中にそっと差し入れられる。
甘い。
体液のとろけた感触と味。指の付け根から爪の先まで、舌を辿らせるようにして唾液を舐め取る。
青年の顔に、何かを堪える時のような表情が浮かんだ。眉間に皺が寄る。
何してんだよ俺、やめとけよ。
頭の隅にほんの少しだけ残った理性が警告を入れまくってるけど。
ああ、無理だ。止まらねぇ。
なんでこんなに美味しいんだ。
ちゅうっと音を立てて指を吸う。赤ん坊みたいだ、と思うけれど、もっと味わいたいから。
棒つきキャンディを舐める時みたいに甘くて、そして少しだけ息苦しい。
指が少し奥に差し込まれて、頬の粘膜をこする。
ぞくり、と背筋を駆け抜けるのは。
「ん、ん」
唾液がどっと溢れる。溢れるから喉が渇く。もっと水分が欲しい。もっと。
飲み下すたび、強くすするたび、青年は目を眇める。
俺は安いAVに出てくる女優みたいに大袈裟な音を立てて、愛撫する。――そう、これは愛撫だ。性器にする代わりに、指を性器にみたててするフェラチオ。
しばらくの間音を立てて指を口の中から抜き差しする。不意に急くように指が抜かれた。唾液が名残みたいに糸を引いて光る。
ぼんやりする視界に、ペットボトルから直接水を口に流し込む青年が映る。
そして、ぽかりと空いた隙間を埋めるように、また、口移しの名を借りたキスをした。
今度はお互いに、何のためらいもなく舌を絡ませて。
溢れ出す水が顔を濡らして、改めて、体温が一気に上がっていた事を知った。
けれども熱が下がらない。
喉は渇くばかり。
なあ、どうすればいいんだ、これ。
どうやったら、この熱が下がるんだ。
コントロール出来ない衝動が突き上げてきて、たまらずに青年にしがみつく。おかえしとばかりに、強く舌を吸われた、瞬間。
間抜けな電子音のメロディが聞こえてきた。洗濯が終わった合図だ。
「……!」
夢から覚めたように目を見開いて。
青年の唇が唐突に離れた。
「僕、は……」
青年は呆然とした表情で、俺を見ている。
――ああ。
残酷な現実が戻ってくるんだ。こんな風に。だったら。
「……もう、乾燥も終わったからな。服、持ってきてやるよ」
敢えて自分から言って、よろけながら立ち上がる。沢山飲んだ水のせいか、少しは動けるようになっていた。
ほんの一瞬の。――我を忘れる時間。
青年はまだ自分の行動が信じられない風だった。
けれど、ポケットから布を取り出して、汚れた眼鏡を拭き始める。
それと一緒に、俺にこびりついていた何かが落ちていくような気がして。
俺は目を閉じ、溜息をついた。
身体に残る昂りを逃すために。
*
すっかり乾いて柔軟剤の香りのする服を着、青年は玄関のドアの前で立ち止まった。
「……お世話になりました」
「いや、世話になったのは俺の方だ。ありがとな。……暇だったら、また遊びに来いよ」
口元に微かな笑みを浮かべ、青年は頷く。
「機会が……あれば」
ドアはそっと閉められた。
一人きりの、しんとした部屋。俺一人でいるには、この部屋は広い。
ずしりと、静寂がのしかかってきた。でも。
もしかしたらまた訪ねてくるかもしれない。
そんなささやかな希望の灯が点るだけで、気分が浮上するもんなんだな。……我ながら現金だ。
「……また、な。ん?」
玄関に何かが落ちている。グレーの布だった。
「なんだ、これ」
拾い上げたそれはハンカチじゃなくて、10センチ四方の肌触りの良い布地。
角にアルファベットの縫い取りが入っている。「B」。
「ああ、眼鏡拭きか」
眼鏡をぬぐっていた小さな布。俺は何となくそれをひらひらと振って、苦笑する。
「……今度来た時に、渡せばいいか」
いつか、青年はまた、ここにやってくるかもしれない。
だから今日は眠ろう。
来たらまた、酒盛りをすっか。ファイヤーエンブレムから、美味そうなロゼワインをもらっといて。
――そして。
その夜から、深い眠りに入れるようになった。
時折思い出したように夢に出てくる友恵は、黙ったまま、穏やかに微笑む。
違う世界の住人になってしまった。けれども、見守っているから、という顔をして、笑う――。
*
それきり、俺が青年の姿を見かける事も、青年がうちを訪ねてくる事もなかった。
俺はヒーローとしての仕事をこなしながら、一人でいる時間を積み上げてゆく。
少しずつ。
俺は伴侶を喪ってしまったのだという事実をようやく受け容れて。
時間は容赦なく過ぎてゆく。
そして忘れ形見の娘は健やかに成長して。
たった一晩、すれ違っただけの青年の顔は、徐々に記憶の底に埋もれていった。
『あなたはもう時代遅れなんですよ、おじさん』
――その日まで。
2012.8.1up。夏コミ新刊兎虎連作長編「ミッシングリンク」の冒頭部分です。
真夏だっていうのに風邪を引いて、そのせいで物凄い時間が足りないという非常に大変な事になってしまいましたが、内容はシンプルで、テーマは「童貞と処女」です。
ちなみにこちらは同人誌版とはちょっと表現等が違うので、もし両方読まれる方は、比べてみられると面白いかも。
こちらは虎徹一人称ですが、続く「ミッシングリンク」はバニー一人称、ラストの「最後の恋、最初の恋」は虎徹視点に戻ります。
8月10日発行、A5、60P、600円です。自家通販も行いますので、よろしくお願い致します!