A Happy New Year!(RECORDS Prologue)

「虎徹さん虎徹さん」

とろりとした心地よい眠気に身を任せようとしたその時、虎徹は不意に揺さぶり起こされた。
――んー、なんだ、気持ち良く寝てたのに。
「風邪、引きますよ?」
うっすらと目を開ける。
バーナビーのマンション。ニューイヤーパーティのあと転がり込んで、ソファに寝そべったまま寝込んでしまうところを、バーナビーに止められたらしい。
バーナビーの整った顔が虎徹の近くにある。
「んあー……やっぱ、睫毛長ぇな、お前」
思わず手を伸ばして、ばさばさの睫毛に触れる。
「……っ」
バーナビーは驚いたように目を閉じ、少しだけ身を引いた。
「1センチくらいあるんじゃねぇか? なんか、人形みてぇ」
バーナビーは無言だった。
「……? なんだよ、バニー。静かになっちまって」
そのバーナビーの瞳が歪んで、潤む。
「え?」
ぽたり、と一滴、虎徹の頬に涙が落ちた。
静かに。
唇を噛んだまま、バーナビーは涙を流していた。
次から次に流れ落ちる涙は陳腐な言い方だけれども、まるで宝石のようだ。バーナビーはただ黙り込んだまま、痛みをじっとこらえる子供のように温かな滴をこぼし続ける。
「……なんだよ。どうした、バニー?」
虎徹は苦笑しながら、屈んだまま泣き続けるバーナビーの頭をそっと撫でてみた。
ふわふわとした猫っ毛の感触が心地いい。
「……虎徹さん」
バーナビーはまるで子供みたいだ、といつも思う。
4歳で両親を殺された。そして記憶を良い様に改竄され続けていた。そのせいなのかはわからないけれど、バーナビーの心の奥底には、小さな子供がずっと住み続けているように思えて。
ぽろぽろと、バーナビーの涙が虎徹の頬に落ちて、流れてゆく。
体温が伝わるみたいだ、と思った瞬間、虎徹はバーナビーを引き寄せて、そっと抱き締めていた。
頭を撫で続けながら、もう片方の手のひらで、前かがみになったその背中をぽんぽんと叩く。
リズミカルに。子供を寝かしつける時みたいに。
「……子供扱い、しないで下さい」
洟をすすりながら。バーナビーがくぐもった声で不平を言った。虎徹はその不満そうな声に、思わず吹き出してしまう。
――ああ、やっぱりバニーはバニーだ。
「子供だろ。子供はそんな風に、言葉にする前に泣いて表現するからな。……どした?」
なるべく優しい声音でそっと囁いてみた。
バーナビーは何も言わない。けれど、虎徹の胸に顔を埋めたまま抵抗することもしなかった。
「どうした、バニーちゃん?」 からかうようにしてもう一度問うと、バーナビーは顔を上げて眼鏡を取り、濡れていた目の周りを拭った。いつもは勁い光を放つ瞳が、今はどこか不安定だ。
「どうもしません。……僕も酔ってるんです、多分」
虎徹から離れ、バーナビーはふい、と横を向くバーナビーの顎を軽くつまんで、虎徹の方に向ける。
「どうもしなくはねぇだろ? ……あー、俺が気絶した時の事でも思いだしたか」
図星だったのだろう。バーナビーの頬に、さあっと朱がさす。
「……本当に死んだかと思ったんですよ、あの時!」
急に声を荒げ、バーナビーは虎徹をきつく睨みつけた。
「いやぁ、俺だってヤベぇと思ったんだって。でも、あの時言った事は全部ホントだからな」
「あなた、そんな素振りは全然、見せなかった」
つっけんどんな口調の中にほんの少しだけ照れがあるように感じるのは、きっと気のせいじゃない。虎徹は何か言いたい事を隠しているらしいバーナビーのために、ほんの少しだけ本音をちらつかせてみせた。
「馬鹿、見せるかよ、いーオジサンなんだから。新人の態度に一喜一憂とかカッコわりーだろ」
アルバート・マーベリックが起こした一連の事件から1年。虎徹のハンドレットパワーはもう、1分しかもたないけれど。
田舎に帰ってヒーローとは無縁の穏やかな生活を送りながら、それでもずっと考えて考えて、……もう一度足掻いてみようと決めた。
バーナビーには連絡もせずに勝手にヒーロー復帰したけれど、クリスマスに、バーナビーは再びヒーローとして戻ってきた。
虎徹の、相棒として。
引退間際。こまごまとした準備の最中に、バーナビーは黙って何かを考え込んでいる事が多かった。
ぽつりぽつりと虎徹に話しかけてはくるが、サマンサを喪い、マーベリックが真の敵とわかり、自分の依りどころを失ったバーナビーはいつも不安定で、見ているのが辛くなる程だった。
その時の虎徹は、ただ黙って隣りにいることしか出来なかった。肩を叩いて。頭を撫でて。
そして、時には抱き寄せるようにして、温もりを伝えることでしか。
けれども、バーナビーは再びヒーローとして戻ってくることを決めたのだ。
今はそれを支えていきたい、と思う。
ヒーローとしてのバーナビーはおそらく、誰の助けも必要としないだろう。確かな素質を備えた新人は、あっという間に実績を積み上げ、それに釣り合うだけの名声を得た。
けれども。ほんの少しうぬぼれていいのなら。
この強気だけれど、内面に深く傷ついた子供を抱えているバーナビー・ブルックス・Jr.という存在の近くにいられるのは、おそらく自分だけだろうから。
バーナビーがソファの傍らに膝をついた。
「虎徹さん」
もう一度、バーナビーの顔が近づいてくる。
「お願いだから、あんな無茶はもうしないで下さいね。僕はもう……誰が死ぬのも見たくない」
くるりと上を向いた睫毛。整った顔。涙は止まったけれども、目の淵がほんの少し赤い。
――ああ、生きてるんだな。
俺も、バニーも。
唐突に、湧き上がる実感がある。
泣いて、笑って。沢山の辛い思い出を背負って……俺は、バニーは、それでも生きてる。
思いがけない能力の減退。どうすればいいかわからず、苦しくて苦しくて、喚き散らす事すら出来なくて、ただ歯を食いしばって一人悩み続けた日々。
けれどもバニーが虎徹の背中を見ていたから。背筋を伸ばして、ヒーローという仕事に向きあう姿だけを見せておきたかったから。
あの時期を乗り越えられたのは。そして今、ヒーローとして戻ってくるという選択をしたのは。
――バニーがいたからだ。
溢れる感情を、感謝を行動にしてあらわしたくて。不意に、虎徹はバーナビーを引き寄せて頬に口づけた。
すべすべした感触は子供のそれのようで、ふわりと柔らかい。
「……え?」
唇を離して、バーナビーに向かい合う。バーナビーは呆然として虎徹を見ていた。
「絶対に、死なねぇよ。俺が死んだら、お前、今度こそ立ち直れねぇだろ?」
バーナビーは頬に手を当てて黙りこくっている。
――あれ、なんか、やっちまった? ……いや、ほっぺちゅーくらいは普通だよな普通。
「睫毛っていうだけで、そんなに動揺してんのに」
しかし、バーナビーは虎徹が思いもしなかったような問いを投げかけてきた。
「今の、なんですか」
「……へ?」
バーナビーの質問の意味がわからない。虎徹は首を傾げつつ答える。
「何って、頬にキスくらいするだろ。……って、あ」
4歳で親が死んで、マーべリックのところで育てられ、さらにヒーローアカデミーでの寮生活が長かったらしいバーナビーに、そういう身体的接触が頻繁にあったとは思えない。
親愛の情を伝える、とてもシンプルで原始的な手段。
撫でたり。手をつないだり。抱き締めたり、口づけをしたり。
そんなささやかな、けれども大切なコミュニケーションの方法を多分、バーナビーはあまり知らないんだろう。
「そっかそっか。……ごめんな」
そうして虎徹は、バーナビーの頭をくしゃくしゃとかき回した。
「やめて下さいよ、髪が乱れてしまう」
乱れを直そうと伸ばされた手に軽く触れる。そして、今度は髪の毛に口づけた。
虎徹のいとおしむ気持ちが伝わるように。
唇からバーナビーに、想いが届くように。
何度も何度も口付けていると、バーナビーは動きを止めて、困ったような顔をして上目づかいに虎徹を見つめた。
「……虎徹さん」
「ん? なんだ、バニー」
一瞬のためらいの後。バーナビーは溜息混じりに答えた。
「……やめて下さい。僕は……誤解してしまう」
「え?」
虎徹の肩が突然掴まれる。
「え、なんだよ……って、わっ」
ぐい、と思いっきり引っ張られて、そして。
少しだけひんやりとしたバーナビーの唇が、虎徹のそれに押し付けられた。
ほんの一瞬だけ。その温もりを感じ取った瞬間に唇はは離れて、バーナビーは虎徹から離れ、背を向ける。
「……あなたの事を好きだと言ったら、あなたはどうしますか?」
かすかに聞こえた言葉の意味を理解する合間にバーナビーは背を向ける。そして姿が遠ざかり、ドアの閉まる音が続いた。
「……え?」
虎徹は呆然としたまま、椅子に座ってそのドアを見つめた。
――もしかして。
気づいていなかったのは、自分ばかりだったんだろうか。
「……だっ!」
虎徹は顔をしかめて、今度は自分の髪をかき回した。
外からは新年を祝う花火の音が聞こえてくる。
新しい年に。……見えてくるのは、新しい関係なんだろうか。それとも。
いつか他の誰かにも叱られた自分の鈍さに自分を殴りつけたくなりながら、虎徹は溜息をついた。

2012.9.16up。2月に発行したコピー本の販売を終了致しましたので、その分の内容をアップしました。
テーマ的には鈍いおじと涙を零すバニーなんですが、ここから発展して夏コミの新刊の内容になったらしいと今更気が付きました。
「RECORDS」に続きます。