『!!!!!』
なんとも形容しがたい悲鳴をあげ、鬼はどうと倒れた。
そのまま消滅するでもなく、かといって逃げることも出来ず暫く足掻いてはいたが、
やがてその姿は霞が散るようにぼやけ、一枚の札を残して跡形も無く消える。
「やれやれ……」
その札を、面倒な目にあったとばかりにため息をつきながら一人の男が拾った。
やや冷めたような印象を残す、齢二十四・五ほどの端正な顔立ちの彼は、
大きく裂け目の入ったその札を摘み、何事か口早に唱えた。そしてするりと撫でる。
瞬間、仄かな蛍光が指先を染め、札はぴたりと傷を塞いだ。
同時に、その札に刻まれた主のものと思しき名がその男のものに変わる。
つまり男は一瞬の内に他人の式神を修復した上に奪ったわけだが、
それだけ高高度の術をつかったのにも拘らず得意に振舞うこともしない。
むしろ呆れたように頬を掻きながら、その札を懐の深くに仕舞う。
その背に、おずおずと声を掛けた者がいる。
貴族の格好をしており恰幅も良いが、その態度は何処と無くおどおどとした小鹿を思い起こさせる。
その周囲にはやはり同じように、中の上程度の身なりの家人達が遠巻きに男を見詰めていた。
「……あの、陰陽師さま。鬼は全く消えたので?」
「御安心召されよ。
私が鬼を陣に掛け、力を削ぎ、主の名を書き換え申しました。もう暴れることは出来ますまい」
ほう、と大きな安堵のため息と歓声があふれた。よほど鬼に脅かされていたらしい。
かたじけない、本当に貴方は優れている、ありがとうと頭を下げるその貴族には微笑を浮かべて応えつつ。
――陰陽師は今日の収穫の後始末を面倒くさげに考えていた。
「さて」
陰陽師は気を取り直すように呟いた。鬼を呪符から元の姿に戻し、黒い縄で縛ったのを目の前にして。
時刻は夜半。場所は陰陽師の屋敷の中庭。篝火がいくつか、鬼と陰陽師を取り囲むように夜を照らしている。
ゆらゆらと照らされている地面には、大きな五芒星が何かの染料で描いてある。
鬼は伝説にあるような化け物じみた体躯ではなかったが、それでも人よりもかなり逞しい男の姿をしていた。
虎縞の下着ではなくぼろを纏った姿で、縄の隙間からむっちりとした筋肉がはみ出している様は、
なんとも倒錯的でいやらしい。
が、陰陽師はあまり感心なさげな目でもってして見下すだけで、淡々とした口調で問う。
「鬼。お前、あの男に何を命じられてきた」
「…………」
鬼は沈黙を保っている。俯いたまま、膝の方に視線を落として。
その膝が、縛られたすがたを偉そうに見下されている憤りのためか、微かに震えている。
「答えよ」
陰陽師がすいっと危なげなく近付き、手にした棒のようなもので鬼の顎を掬った。
そうして初めて気が付いたように――陰陽師はああ、と声を上げた。
「……すまぬ、轡を施しておいたのを忘れていた」
今にも牙を剥きそうに震える鬼の口には、注連縄の轡がかまされている上から封印の札が貼られていた。
これでは呻き声一つもらすことは出来ない。
「もはやお前の身体の主は私だというのに、だんまりを貫くので可笑しいとは思っていたが……
すまぬな、すぐにそれを外してやろう」
全くわびる様子などなく薄笑う陰陽師は、手にした棒で鬼の唇を札の上からなぞった。
――その瞬間、嘘のようにつるりと札が落ち、縄の轡までもが落ちた。
それと同時に辺りに響き渡ったのは、鬼の雄叫び……罵詈雑言……或るいは突風の呼気……そのどれでもなかった。
「ぁああっ……ぅ、ぐっ…ひ…」
怒りに震えながらも、艶めかしく悶え苦しむ、鬼の喘ぎ声だった。
「ああ、また忘れていた。年の瀬の宴の多さに、ついに私も呆けてしまい始めたか」
陰陽師が声に出して笑いながら、独り言のように言った。口元を隠しながらも、目はあくまでも鬼を見下すように。
「……う…き、貴様ぁ……ッ、何をした……」
それを気丈に睨み返す鬼の唇の端は、先ほどまでかまされていた轡のせいか涎に湿っている。
そして、情けなくわなわなと震えている……怒りではなく、体を蝕む違和感に。
「知りたいか、鬼」
陰陽師は鬼に問いかけた。
そして、その答えを聞く前に――どうでもいい、ということだろう。ごそごそと懐から何かを取り出した。
取り出した、黒い箱のような物体を鬼の鼻先に突きつける。
「これが何だか、分かるか?」
鬼は唇を噛み締めて呻き声を漏らすまいとしながら、鼻先をその箱に近づける。
くん、とひとつ嗅いで、小さく洩らす。
「……硯」
「そうだな、硯だ」
陰陽師はその答えに満足したように微笑むと、身を翻した。
訝しげな鬼の視線を背負いながら、程近くにあらかじめ持ってこさせた台の上から掌ほどの壷を取って硯に注ぐ。
そして、注がれた水――清水で墨をすりながら、鬼のもとへまた歩み寄る。
「……その、ぅん……墨が…ぁ…どうし、た…」
「まぁ、そう急くな。……これは、お前のような式神を自在にするための道具だ」
するすると墨を磨る静かな音に一瞬、鬼の息を呑む音が混じる。
「ど、どういう……こと…」
陰陽師はそれには答えずに、墨を磨り続けた。清らかな水に、邪な思いのように真っ黒い汁が混じる。
暫しの後、陰陽師は持っていた棒を――まっさらな筆を、磨りたての墨にたっぷりと浸した。
筆先が液体を含んで、仄かに輝きを帯びる。
それを手に、陰陽師は一歩鬼に近寄った。
「……な、にをする……!」
流石に不気味に思ったのか、悶えながらも鬼が叫ぶ。
が、家人の誰一人として起きてくることはないし、陰陽師も全く怖気づくはずがない。
「安心しろ。お前の苦痛や断末魔の叫びなど、聞き苦しくて聞き苦しくて、頼まれても聞きたくはない」
それを聞いてますますぞっとしたようにもがく鬼を尻目に、陰陽師は一枚の紙を手に取った。
「これはお前の元の姿、つまり札と全く同じものだ。お前の力を回復させる時に私が複製した。
つまり、この紙を破り捨てた時……お前は、その身を引き裂かれるのと同じ目に逢うだろう」
「……ッ、に…を、でたらめ……」
「これを見よ」
焦って否定する鬼の目の前で、陰陽師はその紙をぱたぱたと広げた。
その紙面一杯を縦横無尽に、黒い線が駆け巡っている。
「お前を縛ったその黒い縄……一体、何であろうな?」
はっとして、鬼は自分の身体を眺めおろした。縦横無尽に、身体を拘束するその黒い縄。
「…ぁ……ぐぅ、まさか……」
静かな驚愕の声を上げる鬼に、陰陽師は答える代わりに筆を取った。
紙面の白い部分にこれ見よがしに筆を下ろし、するすると筆を滑らせる。と、
「ぁ、あ……ひ、いぃッ…」
鬼が殆ど同時に喘ぎ始めた。身を捩り、情けないほど苦しげな喘ぎを洩らす。
「…ッ、ぐ、何、……ぁあ…!」
「私がこの墨で描く物は実在のものと化す。その縄のようにな。
それと同時に、式神であるお前のような生物さえ作り出すことが可能だ。見てみよ、鬼」
膝立ちの身体を仰け反らせる鬼に近寄り、襤褸のような腰巻をめくり上げる陰陽師。
「…ッ、………!?」
その余りに無造作で遠慮のない手つきに羞恥の抗議をしようとして、鬼の動きが止まった。
先ほどから身悶えていた原因……下腹部から太腿、そして尻の割れ目に至るまでの違和感を与えていた存在が見えたからだ。
ずるり、と下半身を這いずる相手は。
「黒蛇……!?あ、ああっ!」
半勃ちのそれに絡みつかれて悲鳴を上げる鬼を実に楽しそうに見下ろしながら、陰陽師は言った。
その手は休みなくさらさらと流れるように動く。
「お前の札の複製に蛇の式神を描いた。それにはあらかじめ命令が下してある。
……お前の主人の名と企みを吐くまで、けして責め立てるのをとめるな、と」
「ぃ…ッ!な、き、様っ……、あっ!」
「お前の身体にも私の慈悲を書き込んでやろう。その体躯は色艶を帯び、狂うことなく、
風が吹けば悶え、夜露に吐精し、その主人と同じように尻に蛇を咥え込む事永遠に飽き足らず、と」
「ひ、ぃッ…す、…好き勝手、………ぁあッ!!」
涙ながらに猛烈な抗議の色を浮かべていた瞳が、その瞬間に揺らいだ。何が起こったのだろうか。
陰陽師が怪訝に思う間も無く、その膝立ちの体が耐え切れないというようにどさりと倒れた。
その拍子に、腰を覆っていた襤褸がぺろりとめくれてその下の惨状を露にする。
「ああッ…ゃ、やめ、へ、…蛇…ッ、そ、こ……はッ……!あ、あああ!」
「ほほう……やるな、蛇ども」
陰陽師は可笑しさをこらえきれずに口元を覆った。
丁度、『尻に咥え込む事飽き足らず』という項を書き終えるか終えないかの時に、黒蛇が鬼の後ろを這い回り始めたらしい。
硬く閉じた菊座を蛇のぬめぬめとした舌で抉られ、鼻先で小突かれる鬼。
引き締まった筋肉に覆われた小ぶりな尻を振るわせ、蛇を追い払おうとしているらしいが、
同じ札に存在している以上離れることなどできはしない。
陰陽師は数歩下がってその肉体の蠢きを眺めていたが、暫くするとまた歩み寄った。
仰向けに砂地に寝そべり、縛られたままの不自然な姿勢で身悶える鬼を見下ろしながら、呼びかける。
「鬼。お前の主人の命令を教えよ」
「ぁ!……ッ、う、おぉっ…くぅっ!」
「鬼」
聞こえていないのか、と陰陽師が問いかけなおす。と、
「ッ…!」
答えの代わりに突風のような呼気を吹きかけられ、一瞬足元を掬われてたたらを踏む。
「こっ、…答える、…ッものか……」
苦しいながらもにやり、と笑う鬼。その顔が数瞬ののち……はっと強張った。
陰陽師が筆を手にしていた。鬼にも良く見えるように、さらさらと描くのは……
「蛟。その鬼の後ろの孔を存分に毒で汚せ」
鬼はその体に降って沸いた違和感――ぞろり、と蛇とは比べ物にならない重量感の感触に、思わず小さな悲鳴を上げた。
数瞬の後には、鬼は夜を裂く絶叫を上げていたが。
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