アストラウル戦記

 ナヴィとガスクがオルスナへ旅立つ日は、朝から雪がチラチラと舞っていた。
 ここを出た時は暖かくて、まだ春が始まったばかりだったのにな。
 旅姿で分厚いマントを羽織ったナヴィが、王宮の荘厳な建物を見上げながらぼんやりと考えていた。大きな荷物を背負って、使い込まれたブーツを履いたナヴィの姿はオルスナの商人のようで、そばに立っていたガスクがナヴィを見て似合うなと言った。
「エウリルさま、どうかお気をつけて。やっぱり何人か連れていった方が…」
 白い息を吐いてアサガが言うと、ナヴィは笑った。
「武器も持ってるし、ガスクがついてるから平気だよ。ここはアストラウルの中でもオルスナに近いから、心配する間もなくあっという間にオルスナに着いちゃうよ」
「でも」
「おい、国境の通過許可証と、新政府からの密書は持ったのか」
 寒そうに手を摺り合わせていたヤソンの隣で、平然とした表情でグウィナンが声をかけると、ガスクがちゃんと持ってるよと無愛想に答えた。頼むな。ヤソンが言うと、ナヴィとガスクは頷いて笑顔を見せた。
「じゃあ、行ってくる」
 アサガの手をギュッと握って、それからグウィナンとヤソンを見上げてナヴィは笑った。ガスクと二人で手を振って歩き出すと、うっすらと積もった雪がブーツにまとわりついた。オルスナまでどれぐらいかかるかな。歩き出してしばらくしてからナヴィが言うと、ガスクは答えた。
「王宮の建物を回り込むだけでも、時間がかかるぜ。お前のご先祖さまは、何でこんなバカでかいもの建てたんだろうな。迷惑だ」
 ぶつくさ文句を言うガスクを見て、ナヴィが声を上げて笑った。そう言えば。歩きながら厚い雲に覆われた空を見上げて、それからガスクがナヴィを見た。
「お前、オルスナ三世に渡したいものがあるって言ってたけど、何だったんだ? 初めて王宮を出た時は、金以外、何も持ってなかっただろ」
 ガスクが歩きながら尋ねると、ナヴィはうんと頷いて口元に笑みを浮かべ、視線を伏せた。
「アントニアが取っておいてくれたんだって、アントニアの側近をしていた捕虜が僕に伝言を」
「…国王が?」
 ガスクが怪訝そうにナヴィを見ると、ナヴィはガスクを見上げて答えた。
「お母さまの遺髪だよ。僕が捕らえられた夜、僕の部屋に落ちていたんだって。お母さまの髪の色はハティとも僕とも少し違うし、お母さまのご遺体には髪が切り取られた跡があった」
 サクサクと雪を踏んで、ナヴィは真っ直ぐに前を見つめた。ふいに木枯らしが吹いて目を細めると、目元を手袋をした手の甲で擦ってからナヴィはガスクを見上げて笑ってみせた。
「フリレーテが切り取ったものだ。それを、アントニアが取っておいてくれたんだよ。どういうつもりだったのかは分からないけど…それを、おじいさまにお渡ししようと思って」
「そうか」
 低い声で呟くと、ガスクは一瞬黙ってからナヴィの手をつかんだ。
 アントニアが何を考えていたのかは、分からない。
 本当に国を思って動いていたのか。
 フリレーテのために、国を思うままにしたかったのか。
 それとも。
「僕はアントニアが好きだ。みんな、好きだよ。それが分かってよかった」
「お前はホントにお人好しだな。バカだし。しょうがねえな」
 そう言ったガスクの手をぎゅうっと力を込めて握ると、ナヴィはバカだってことは自分でもよく分かってるよと答えた。振り向いて王宮の方を見ると、アサガたちがまだこちらを見守るように立っていた。随分小さくなってしまった彼らを見て、ナヴィとガスクは大きく手を振った。
 雪は次々と、大きな空から降り続いて、アストラウルの土を覆い隠していく。
 血も、涙も、苦しみも。
 そして、春になると芽吹くだろう。空気が、風が、運んでくる。
 悲しみの隙間から、湧きあがるような希望と喜びの讃歌を。
 アサガたちが手を振り返しているのをしばらく眺めると、ガスクとナヴィは再び前を向いて歩き出した。寒いね。ナヴィが冷たい風に頬と鼻を赤くして呟くと、ガスクは寒いなと答え、歩きながら手袋をした手でちょいとナヴィの頬に触れた。
 道は続く。

 


 吹き抜ける熱風は、限りなく膨らみながらやがてすべてを飲み込んでゆく。
 そして、新しい明日を呼び起こすのだ。

(2008.11)

(c)渡辺キリ