アストラウル戦記

 アストリィは本格的な冬を迎えていた。
 傷は残ったものの、ナヴィの肩は腕を上げられる程度に回復していた。スーバルン人たちと一緒に住んでいた王宮の部屋を出ると、ナヴィはガスクと共にアストリィの避難所へ移っていた。
 雪が降りそうなほど寒い日、避難所で怪我人や病人の世話をしていたナヴィとガスクの元に、グウィナンとカイドが訪ねてきた。二人の表情は険しく、湯を沸かして器に注ぐとそれを出してナヴィは尋ねた。
「どうしたの、二人とも」
 グウィナンの眉の間に深い溝ができていた。スーバルン人のことかな。王宮で何かあったんだろうか。考えながらナヴィが黙って言葉を待っていると、そこに医者たちに混ざって怪我人を診ていたガスクが戻ってきた。
「それが…」
 言いかけたカイドに視線を向けると、ガスクはグウィナンの前に椅子を置いて座った。それを見て小さく息をつくと、グウィナンは新政府に知らせが来たんだがと言ってガスクとナヴィを見た。
「オルスナが、アストラウルとの国境への警備兵を増員した。王宮の北に配備した警備兵が伝令を寄越したんだ」
「オルスナが?」
 ガスクの後ろに立ったナヴィが驚いて尋ね返すと、カイドが頷いた。逞しい腕を組んで黙って話を聞いていたガスクが、グウィナンを見て尋ねた。
「それで、オルスナは何か言ってきてるのか」
「いや、今の所は何も。だが、アントニアがオルスナへ派兵したこともあって、新政府はオルスナの動きにかなり敏感になっている。ひょっとしたら、オルスナと戦争になるかもしれん。内戦で弱り切ったアストラウルは今、周辺の諸外国から格好の餌食として狙われているんだ」
「そんな…」
 呟いて、ナヴィがガスクと顔を見合わせた。
 おじいさまが、アストラウルを?
 考えたくない…けれど、あり得ない話じゃない。
 お母さまも亡くなられ、自分は恐らく行方不明か死亡と伝えられているだろう。今のアストラウルとオルスナを繋ぐものは、何もない。
「まあ、俺がオルスナ王でも、勝てる喧嘩ならふっかけるだろうな」
 ガスクがナヴィを見上げて言った。黙って目を伏せたナヴィを見上げると、グウィナンはため息まじりに椅子に座り直して口を開いた。
「オルスナから先のオルスナ派兵について問いただされれば、こちらとしても答えられない状態にある。アントニアはまだ見つかっていないし、ハイヴェル卿や他の王立軍に話を聞いても、詳しくは分からないと言ってる。オルスナ派兵したと言われるヴァンクエル伯爵は、アストリィで戦死したと見られているし。あのバカが切ったそうじゃないか。生かしとけば、詳しい状況が分かったものを」
 話の途中から怒りが込み上げてきたのか、グウィナンは吐き捨てるように言ってガスクをにらんだ。俺をにらんでもしょうがねえだろ。ガスクが答えると、椅子に座って話を聞いていたカイドがナヴィを見上げた。
「今日はな、ナヴィ。新政府のメンバーとしてお前に頼みがあって来たんだ。オルスナ国王に手紙を書いてくれないか。そんなものでアストラウルへの派兵が止まるとは思えんが、ビビッちまった奴らがお前をオルスナへ行かせるって聞かねえのよ。だから、せめて手紙を」
 申し訳なさそうに言ったカイドを見て、それからガスクと顔を見合わせると、ナヴィはガスクの椅子の背に手をかけて答えた。
「何だ、そんなことぐらい。いいよ」
「ていうか、オルスナに行くか」
 ガスクがナヴィを見上げて言った。驚いてグウィナンとカイドが二人を見ると、ガスクは笑いながら言葉を続けた。
「ここが少し落ち着いて、春になったらオルスナに旅に出るかって二人で言ってたんだ。それが少し早くなっただけだしな」
「そうだね。グステに行くのはその後になってしまうけど」
「俺も、マクネルにマントを返しにいかなきゃな。忙しいな」
 まるで近所に出かけるように軽い口調で言ったガスクを見て、カイドが目を丸くした。その表情を見てそんなにすごいことかなと呟くと、ナヴィはガスクに視線を向けた。
「まあでも、オルスナが一番でいいんじゃない? 僕も久しぶりにおじいさまとお会いしたいし。お渡ししたいものがあるんだ」
 ナヴィの言葉にガスクが何?と尋ねると、ナヴィは今度言うよと答えた。ホッと安堵の息を吐くと、カイドは立ち上がってナヴィの手を握りしめた。
「ありがとうな。手紙ぐらいじゃダメだろうと思ってたけど、お前が直接、オルスナ国王に会ってくれるなら、少しは希望も出てくるよ」
「それじゃ、できるだけ早く出立してくれ。準備はこちらでしよう」
 グウィナンも椅子から立ち上がって、言葉を付け加えた。別に何もいらないさ。そう言って立つと、ガスクはグウィナンの肩をポンと叩いた。
「お前に全部任せることになって、申し訳ないと思ってた所だ。勝手に行って、せいぜい役に立って帰ってくるよ」
「何言ってるんだ。お前を戦いに引き込んだのは俺だぞ…これまで、よくやってくれたとみんな思ってるよ」
 だから、お前がここにいてもみんな何も言わないのさ。グウィナンが言うと、ガスクは答えずに黙ったまま苦笑した。それじゃ、頼むよ。そう言ってグウィナンとカイドが出ていくと、ナヴィはガスクを見上げた。
「オルスナか…急な話だね。ユリアネがいれば一緒に行ってもらうんだけど、間に合いそうにないね」
「そうだな。ここを置いていくのも気になるけど、まあ俺たちがいなくてもどうにかなりそうだしな。それよりオルスナの方が問題だ」
 ガスクがナヴィに話していると、ふいにグウィナンが戻ってきて、カーテンの隙間からひょいと顔を覗かせた。忘れ物? ナヴィが尋ねると、グウィナンは一瞬だけ間を置いてから答えた。
「お前を殺さなかったこと、今、初めてよかったと思ってるよ」
 ボソリと言って、それからグウィナンはまた首を引っ込めた。遠ざかる足音が響いて、やがて消えた。ガスクと顔を見合わせると、泣き笑いのような妙な表情になってナヴィは口元を押さえた。
「グウィナンにそんなことを言われるなんて、思ってもみなかった」
「驚いた。あいつ、何かおかしなものでも食ったんじゃねえか」
 ガスクがカーテンの影から廊下に顔を覗かせて言うと、ナヴィはガスクの背を軽くげんこつで叩いた。
 廊下は冷え込んで、グウィナンと入れ違いに足早に歩いてきたアストラウル人が、今日は寒いなとガスクに声をかけた。そうだな。そう答えたガスクの広い背中に抱きついて、ナヴィはしばらくの間、声を潜めて静かに涙を流した。

(c)渡辺キリ