「驚いた。初恋だってさ」
ガスクとナヴィは、空になった荷馬車をダッタンへ返しにいくと言ってアストリィで別れた。ヤソンと二人、馬に乗って王宮へ戻る途中、ヤソンがふいにボソリと呟くとアサガは答えた。
「ナッツ=マーラは子供の頃から生きることに精一杯で、大変だったんだって。エウリルさまがガスクに聞いた話をしてくれたことがあるよ。初めはグステ村に住んでいたけど、両親が死んで、親戚に連れられてダッタンに来たらその親戚も病気で死んでしまって、孤児になったんだって」
「へえ…」
意外そうな表情でヤソンがアサガを見ると、アサガは馬の手綱を握ったままヤソンを見つめ返した。
「それからしばらく一人でいたんだけど、ケンカの腕を見込まれて、武道の道場を開いていたアストラウル人の養父に引き取られて。だから剣技が上手いんだって。でも、スーバルン人を引き取って育てたことが問題になって、養父は別の罪を着せられて役人に連れていかれてそれっきり」
「そうなのか。それじゃ、その養父は」
ヤソンが尋ねると、アサガは俯いて首を横に振った。
「ナッツ=マーラは明るいけど、僕が同じ目に遭ったら耐えられたかどうか分からないと思う。だから、彼のことは少し尊敬してる」
ただ、ルイゼンさまに迷惑をかけないでいてくれたらなあ。
アサガがため息まじりに呟くと、ヤソンは笑いながら答えた。
「まあ、ルイゼンも満更じゃなさそうだったぜ。男同士だから、あのお坊っちゃんにどうにかなる気があるかは分かんないけどな。ナッツ=マーラも前途多難だ」
そんなことはないよ。
心の内で呟いて、アサガは口元に笑みを浮かべた。
だって、ルイゼンさまはエウリルさまをずっと思っていたんだ。あの夜、僕は知ってしまった。プティで捕らえられたエウリルさまを王宮から助け出した夜のルイゼンさまの目は、恐ろしかった。
恋をするということの、狂気。
「アサガ、あの約束だけど…」
冷たい風が吹いて、アサガが外套の襟を片手で押さえると、ヤソンはその横顔を見て口を開いた。アサガがヤソンに視線を向けると、ヤソンはアサガから目をそらして前を見つめた。
しばらく黙ったまま馬を歩かせて、それからアサガは答えた。
「僕は…」
「あのさ、後のことはローレンに任せて俺はプティに戻ろうと思ってたんだけど」
声が重なって、アサガがヤソンを見つめると、ヤソンはチラリとアサガを見て言葉を続けた。
「ローレンがサムゲナンに行ってしまっただろ。イルオマもいつ戻ってくるか分からないし、グウィナンはスーバルンのことで頭が一杯だ。他の奴らもいるにはいるが、今日の会議を見ていても少し不安が残るっていうか…」
ゆっくりと言葉を選びながらそう言うと、ヤソンはアサガを見た。
アサガはいつもと同じように、黒い目でヤソンを見ていた。だから、俺はもうしばらくアストリィにいようと思ってるんだけど。ヤソンが言うと、アサガはヤソンを真っ直ぐに見て答えた。
「いいよ。僕もいるよ、ここに」
アサガの言葉にホッとヤソンが息をつくと、アサガは眉を潜めて言葉を続けた。
「少し引っかかる噂を聞いたんだ」
「え?」
ヤソンが尋ね返すと、アサガは馬を歩かせながらヤソンを見上げて答えた。
「国民議会の議長をしていたシャンドランという男が、男爵の位を返上して新政府に参加したいと書状を出してきたんだって。これまで国外に視察に出ていたから内戦のことは知らなかったけど、これからは新しい国のために力を尽くしたいって」
「シャンドランか…」
「知ってる?」
アサガが言うと、ヤソンは苦々しげな表情でため息をついた。
「役人や議会には顔の利く人間だよ。俺もエカフィの屋敷で一度、昼食を共にしたことがあるが…何だかいいことばかり言って、俺には胡散臭く感じたな。男爵なのに国民議会議長っていうのも、どうかと思ったし」
「国民議会って、内戦で散り散りになってからは、まだ新政府とは接触してないよね。少し恐いな」
心配げにアサガが言った。その顔を見て、ヤソンはまあ悪いことばかりでもないだろうと答えた。
「国民議会は正直、名ばかりの機関だが、数年前まではちゃんと機能して貴族院と平民の間を取り持っていたんだ。健全な運営をしてくれるなら、問題はない」
それを俺たちが見張るんだ。ヤソンが言うと、アサガはわずかに笑みを見せて頷いた。
しばらく考えながら馬を歩かせていると、ふいにアサガがぶるっと震えた。
「寒い?」
ヤソンが尋ねると、アサガは頷いた。急いで帰ろう。そう言ったヤソンにアサガがもう一度頷くと、ヤソンはニヤリと笑って言葉を付け加えた。
「何か俺、やる気出ちゃったな。アサガが俺とアストリィに残ってくれるって言うしさ」
「そんなことでやる気が出るんなら、いつまででもヤソンの所にいるよ」
おかしそうに答えて、それからアサガは言葉の意味に気づいて真っ赤になった。その顔を見て嬉しそうに笑みを浮かべ、ヤソンは馬に鞭を打った。あ、ヤソン! 慌てて同じように鞭を打つと、アサガはヤソンを追いかけて笑いを堪えながら馬を走らせた。
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