Aurea Apiculae

5. β-Cyg“Albireo”

真の幸せは孤独なくしてはあり得ない。堕天使が神を裏切ったのは、天使たちの知らない孤独を望んだために違いない /Anton Pavlovich Chekhov
 そしてマルチェロの家はまた、元の通りになった。あの日々は夢だったのかと思うほど、ククールは何一つ、自分のいた痕跡を残してはいかなかったから。
 けれどククールのかけた魔法は今でも消えていない。夜にもなればそれは目を覚ます。ランプのほやも上着も紙屑も、思い出をさざめくように語りだす。

「珍しいな、今日は1人かい?」
村に来るなり尋ねられた。弟は出て行ったのだと答えると、みな残念がり、会いたがった。
「まったく薄情な子だね!一言くらい挨拶していったっていいだろうに」
気のいいおばさんがそう言って、店の奥から果物だの何だの、いろいろ取り出してきてマルチェロに押し付けた。
「いや、私は」
「こうでもしなけりゃあたしの気が済まないんだよ、餞別も渡せなかったなんてさ。だから持っていっておくれよ」
マルチェロは頭を下げて受け取った。
「あんたも寂しくなるね……まぁちょくちょくココにもお寄りよ」
その言葉でマルチェロは、ククールが去った意味に、得心がいった気がした。

 次の春、マルチェロは裏庭にミツバチの巣箱を置いてみた。しつけない仕事だが、親切な村人があれこれと教えてくれた。さて、ククールのように彼女たちに受け入れられるかは甚だ疑問だが、あのたゆみない、無私の姿を見せてくれるだけでも満足だった。
 もう孤独がマルチェロに明日を諦めさせることはない。生き方を見失わせることもない。村人も胸襟を開き、家にはミツバチがいる。何が大事か、何を守りたいか、確かに解っている。だからククールはまた、一人の天地へと戻っていったのだ。来たときと――出逢ったときと同じように、粗末な袋一つで、いとも身軽に旅立っただろう。余計なものを一切持たないその自由な足取りに、誰も追いつけはしない。
 そう、自由でなければ生きられない彼だ。誰のものにもならない、誰を自分のものにもしない、自分の信念以外の何物にも自分を縛らせない、そういう弟だ。

 ミツバチたちの愛した指先を思い出す。差し出された小さな手を拒み払い除けたときから、月日は経ち、大人になった手、小さな金色の乙女も羽を休める、弟の指先を。
 その手はずっと差し伸べられたまま、マルチェロを待っているだけだったが、掴んでくるときにはマルチェロをしかと奈落から救い上げてみせた。三度目に出逢ったときにやっと、自分から握ることのできた、確かに握り返してくれた手……ククールは季節がひと巡りするまで一緒にいて、そして握った手をするりと解いて、いずこへともなくいなくなった。
 ククールがいて初めて生きる意味を見出したことを自覚している。これからもきっと、ククールの影を追う自分なんだと思う。
 じゅうぶんだ。それでじゅうぶん、人生は生きるに足りる。

 ある昼下がりのことだった。緑の樹を透かす光が、そよぐ草の上に斑をいくつも落とし、午後の蝶がゆらゆらと過ぎていく、ときたまは小鳥が囀る。
 ひとつぶのミツバチが、太陽の小さな使者のように恭しく、マルチェロに近寄ってきた。マルチェロが手を差し出すと、指先に止まり、離れ、また止まり、柔らかな色の小花を咲かせている潅木へといざなった。そして彼女が示した枝に、懐かしいククールのピアスがひとつ、そっと括りつけられているのを見た。
 忘れたことはなかったよ――ククールが自分の心を言葉にしてマルチェロに明かしたのは、後にも先にもそれ一つだったが、ミツバチたちにはきっと語っていたのだろう。彼女たちは、明日も死なずに働くに最低限必要な蜜だけ口にして、あとは全て、未来のために蓄える。傷つき衰えても、最後の一滴の蜜を運ぶまで休みもやらず働いて、やがて使い物にならなくなった体を巣の外へ捨てられ悼むものもなくても、何の恨みももたずに黙って干からびていく。そういうミツバチたちなればこそ、ククールは愛し、打ち明けることもできただろう。
 けれど不足は思わない。言葉のない語らいのあることを、マルチェロも今はよく、知っている。何も言わなかった彼の許し、互いの名さえあれば幸せだった一年、そしてこのピアス……何物にも換えられない弟の心を受け取った。
 あの夢の日々。この心を乱し、慰め、許し、救った弟。お前のゆくてに、お前の望む幸せがあるように。ただそう心から願った。心から願って、これが祈るということなのだと知った。
 お前の望む幸せがあるように。誇れるような人生を送ってきたわけではない、それでも、迷いも悟りもしない生き方よりはずっといい。自分の足で歩いた過去の中にしかない、罪も蹉跌もみな、み前に隠さず差し出して、偽らず飾らない心で額ずき、願うこと。それを教えてくれた弟の、もう二度と逢うことはないのだろう面影が、内から照らす。

 朝が来て、花が咲き、そこ、ここに、ミツバチたちがいそしみの羽音を今日も聞かせる。暮れればやがて、星がめぐっていく。
 目立たない、平穏無事な暮らしの中でマルチェロは、ククールの影を見つけることがある。それはたとえば、澄んで流れる水の静かさであったり、暮れつ方の昔懐かしい蜜の色であったりする。そしてミツバチの教えてくれたピアスを見れば、かすかな、けれどいかな闇にも消されない声が、そっと、彼の胸の裡へ、
「……兄貴」
と囁きかけるのだ。
 いとおしさよ。
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27.Nov.'16
Fire and Rain/ by James Taylor
https://youtu.be/C3uaXCJcRrE
お付き合い頂きましてありがとうございます!!
今回削ったor入れられなかった部分などもあるので、やっぱりまた書きたいなと思います( ´艸`)
字はすっっごく疲弊するんですけども・・・でも楽しいものですねv