Aurea Apiculae

4. γ-Aqr“Sadachbia”

巣が貧しかったり、不幸や悪天候や掠奪などに苦しめられているとき、蜜蜂は決して巣を捨てはしない。幸福が頂点に達し、夢中で働いた春の仕事が終わり、巨大な宮殿が新しい蜜や虹の粉であふれたとき、初めて巣を離れるのである /Maurice Maeterlinck “La Vie des Abeilles”
▼Piscis Austrinus
「持ち物はそれだけか」
初めて出逢ったときと同じように、ククールは小さな袋一つきり、何も持ってはいなかった。
「これだけありゃ生きていけるって知ってるからね」
空高い風が時折少し冷たくて、野原も木々の葉も静かに色づきそめた頃、弟との二人暮らしが始まった。
 何せ修道院育ちだ、ある程度の自給自足には慣れている。それでも時には近くの村で用を足す必要もあり、マルチェロにとっては気が重い作業だったのだが、ククールと連れ立っていくと事情は変わった。
「オレ、この人の弟なんだ、ヨロシク」
ラプソーンを倒した英雄の朋輩と、世界を支配しようと企てた男とが兄弟であることは、あまり知られていない事実だったから、初めのうちは村人も狼狽えた。しかしククールが、そんな驚きなどに全く何の斟酌もせずにそう吹聴して憚らないので、今まではマルチェロと目さえ合わせようとしなかった彼らも次第に警戒を解いていった。ククールは軽妙に愛想よく振る舞い、すぐに村の人気者になったし、それにつれてマルチェロも受け入れられた恰好だ。
 そんな調子で外界との繋がりもできていったが、大抵は、二人だけの巣篭もりの日々だった。
「どこぞで美女を口説いてこなくていいのか?」
「この状態でそれ言うの」
体と体を縺れさせていく合間にからかってやると、ククールは笑いながら
「でも確かに、あんまりサボってると女の抱き方忘れちまいそう」
そう言って最後の服をはらりと落とした。
 忘れてしまえ、などと思いながら抱き寄せる。こんな他愛もない、甘い、嫉妬未満の嫉妬など、自分が持つことがあろうとは。
「ククール」
ただ、ベッドの中では、ククールはあまりマルチェロを呼ばない、呼ばれても返さないことが多かった。それを指摘すると、
「オレお客さん多かったからね。他の名前でも口走ったら商売あがったりだろ、だから黙ってる癖がついちまったっていうか」ストレートな説明がきて、なかなかにこたえた。「でも呼ばれたほうが気分が上がるって言われることもちょいちょいあったね、そういえば」
 相変わらず彼の所作は如才ない。滑らかな肌を愛撫したならしたで、手の進む先を正確に予測して身を捩る。所々キスを挟むタイミングも完璧だ。そんな慣れた手管のあれこれは、嫉妬程度では済まなかった。思い出させるものが多すぎる。祈祷に行けと命じられて、ククールはイヤな顔一つしたことがない。けれど、
「あんたまたロクでもないこと考えてんじゃねえ?」
けれど、指先のためらいや、遠い目や……そんな儚さもまた、変わってはいない。
 弟との暮らしは、マルチェロにとって、自分の本心を紐解く過程でもあった。素直になるのに不慣れな男の無器用を、ククールは決して嗤わなかったし、その作業が時に苦しさを伴うと、こうして控えめにいたわった。梳いてやる指に流れる髪の感触、終わりそうで終わらない淡いキス一つ、そんなささやかなものが、かつては暗黒神の力をも望んだはずの心を満たす。
 空には南を目指す鳥の隊列がのぞまれた。部屋の隅に黄昏の薄紫の闇がじっと滲み始める。
「もうじき寒くなるね」
ククールは少しシーツを引き上げて、続きをねだるようにマルチェロの胸板に身を預けた。
 弟の体を撫で上げ、その吐息を聞きながら、美しくなったなと思った。修道院にいた頃はまだどこか、やんちゃで無邪気なところもあったが、今はすっかり大人になって、愁いを帯びてしみじみ、美しくなった。
▼Eridanus
 オークニスほどでなくても、ここもそろそろ雪に降り込められる。冬の備えを蓄えてしまうと、二人はいよいよ二人になって、たとえば傷に口づけ合うように、嵐を避けて寄り添うように、他の誰も知らない時を、ひっそりと過ごした。
 余韻に気だるい二つの体を一つの毛布にくるんで、暖炉に燃える火の前に追憶を思い描く。一度は驚き、憎んだのは確かだ。それがいつか別のものに変わっていたのを、認めたくない思いと、惹かれる心と、その二つの葛藤とに、疲弊しているようで実は、救われていた。これと出逢わなかったなら――そう思わない日はなかったが、今ならその本当の答えが解る。これと出逢わなかったなら、私はずっと、死んでいないだけの一生を送っただろう、と。
 差し出した手を振り払われ、幼かったククールは戸惑い、マルチェロの気に添うようにと、子供心が思いつく限りの誠意を尽くした。自分の何がマルチェロを怒らせたか、自分に落ち度はなかったか、懸命に考えたことだろう、だが罪のない良心にいくら問うても、答えは見つからなかっただろう。やがて、ククールはふっつりと、そういう努力の一切をやめた。恐らく自分とマルチェロの出生の秘密を知ったのだ。
 ククールは何も言わなかった。何を問おうとも、詰ろうともしなかった。だからそのときはまだ、自分に向けられる理不尽な態度や罵倒を、ただ諦めただけだろうとマルチェロは思っていた。
 忘れたことはなかったよ――その一言がマルチェロに与えた衝撃は、骨の髄まで断ち割られた気がするほどのものだった。ククールの沈黙は、何もかもを受け入れようと決めた彼の覚悟であり、許しだったのだ。それを知らず、怨嗟の吐きどころを弟に選んで、一人もがき足掻いていた姿は、弟の目にどれほど哀れに映っていただろう。振り返ることもできず、指輪一つ投げるのが精一杯だった。
 俗世の無法者と変わらない振る舞いをしようが、弟の心は祈りを忘れなかったろう、自分以外のもののために祈る心を、彼は離さなかったろう。時にはその祈りが憎しみに迷う兄のためでもあったとは。
 耳元に規則正しい息が聞こえて見てみれば、ククールはとろとろと微睡んでいた。きれいに揃った長い睫の先に誘われて瞼に口付けるとククールは、ん…と短く呻いて目をゆるりと開いた。
「起こしたか」
「ううん…別に」ククールはまだ少し鼻にかかった寝起きの声で、マルチェロの首に腕を回した。「オレはね、ヤらせた相手に寝顔なんか見せたことはないんだよ」
 まだ先ほどの汗を残している肌が、炎の朧に揺れる光を映してうねった。しっくりと唇を合わせてから、また、深深と溺れていく。
 祈るということの意味を知りたい。弟がいつでも離さなかったそれを知りたい。
▼Crux
 土は澄み、若い緑も萌え出でて、小鳥たちが囀り交わす。一雨ごとに綻んでいく花を数えるように毎日を過ごしていく。
 ククールは井戸で、花壇にやる水を汲んでいた。溢れてゆく春の水はさらさら、さらさらさらと流れる、その末よ。いつかの記憶が水の反射に重なって、マルチェロは後ろから抱きしめた。
「兄貴?どうした?」
 修道院から盗まれた聖杯は、ククールが院を離れ旅に出てから数日後、ある団員の郷里に近い市場で見つかった。特に目立つところもない、大人しい団員だったが、両親が借金に追われ、困窮する姿を見るに堪えなかったものらしい。マルチェロは糾弾しなかった。簡単に足のつくやり方をする辺りなど哀れですらあったし、何より、ククールが口を閉ざしていた理由が解けたからだ。何か、敗北感のようなものをも覚えて、マルチェロは以降、その件については一切触れようとしなかった。
 水が入りゃいいじゃねえか――そんなククールの言葉を思い出す。今、ククールの手の中にある、古い、縁の欠けた質素な釣瓶は、豪華なあの聖杯よりもずっと神聖だった。
「お前は誰が聖杯を盗んだか知っていて庇ったのだろう?」
「別に……庇うだのなんだの、そんな大ゲサなつもりでもなかったんだよ」
ククールはマルチェロの腕の中に収まったまま、穏やかに答えた。
「あれはオレのご贔屓筋の寄贈品だったからね、いざとなりゃ、オレはどうとでも保身できるだろ。その辺の考えもなしに無謀な同情をくれてやりゃしねえさ、オレだって」
「汚名を着せられても構わないと……?」
「言わなかったっけ? 神はご照覧、それでじゅうぶんだって。あんなでも一応、オレも坊主の端くれだったワケだから」
端くれなものか。あの修道院で、み心にかなう僧など、オディロ院長とククールを措いて他に誰あったろう。自由という生き方の厳しさをよく知るククールなればこそ、我が胸に照らして神が見そなわすと言い切れるのに違いない。院の規範ごとき、嗤おうが蹂躙しようが、神が彼を罪すると思えなかったのも道理だ。
 疑われる、汚名を着せられる、弄ばれる……およそ何かを「される」という言い方をしなかったククールではないか。古井戸の水で体を流すようなことをさせた先輩共のことも、盗みを見逃されて院籍に留まった団員のことも、神はきっと、ククールのために許すだろう。神が許すものを、罪もない弟を逆恨みしなければいられなかった自分が、糾弾できようはずもなかったのだ。
 ククールは持っていた釣瓶を井戸の縁に置き、マルチェロの方に向き直った。あの日、星を映していたささ流れに、今は花びらが風に運ばれて落ちる。その波紋を小さな祈りに見立てよう。かすかな睫の触れ合い、したたり潤う春の日々。
▼Cygnus
 夏がきて、ククールの花壇には、毎日ミツバチたちが訪れる。こまごまと花の世話をしながらククールは、彼女たちの無心な労働を、飽かず眺めている。
 そっと、誘うようにククールが手を花にかざすと、1匹のミツバチがその指に止まった。見覚えのあるその光景は、何か、声をかけてはいけない瞬間のように思えて、マルチェロは黙って、ククールの睫の瞬きを見ていた。
 その夜は不思議にきらめいていた。暗いほど星が輝くのと同じように、悲しみが深いほど真実はよく見えるのではないかと思うほど。マルチェロはまるで縋るようにククールを掻き抱いた。
 あの杖を手にして、マルチェロが闇に堕ちるのを阻んだものは、野心の強さなどではなかった。遠くに、懐かしいような、静かな光があった、なぜかそれに背を向けられず、暗黒神の示す方角に踏み出せずにいた。まだククールが修道院にいた頃に見たあの記憶、それと同じものを再び目にして、今こそハッキリと理解した。黄昏に彩られていたミツバチと弟、二人のその金色の姿こそ、あの光だったのだ、いかな闇にも消されずに、マルチェロの心深くに届いたものだった。
 けれど結局、私は全てを――
「忘れようとなんてしなくていいんだ」
そのとき、マルチェロの心を見通したかのように、ククールが囁いた。
「過去は後ろに捨てられるためにあるんじゃない……オレはそう信じてる。未来を祈るなら、捧げられるものは、自分の足で歩いた過去の中にしかないんだ」
 未来を祈りたい、許されたい――それを叶えるために、これを使わしたのがきっと、神なのだろう。そう思えば、ずっとどこかで懐疑していた信仰というものも、何のつかえもなく納得できた。
 抱きしめていた体を少し離したのは、下にあるその目を見たいからだ。ククールは濡れた睫を持ち上げて、ひたとマルチェロを見つめ返した。
「呼ばれたほうが気分が上がるって、オレ、ここに来て、初めてそれが解ったよ」
お前というヤツは。
「ククール」
 肌の交わりの熱さと、芯深くの官能に、全身が溶け落ちそうだ。二人の秘密の小箱をのせて、この惑星が回っていくその深淵から、うるむ唇と瞳が応えた。
「……兄貴」
 ああ私は、この声をずっと忘れないだろう、忘れようとて忘れられるものか、忘れない、生涯、忘れはしない。


 あくる朝、ククールはいなくなっていた。
 夏も終わり、ミツバチたちの愛すべき姿も見られなくなった。1年が経ち、また、秋がやってきたのだった。
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27.Nov.'16
BGM:
O, Jeux d'Eau/Cirque Du Soleil,by Benoit Jutras
https://youtu.be/S6tE6laWTEc

A Spotless Rose/ by Herbert Howells
https://youtu.be/_JJP43Qj4AQ

La Belle Aronde/ by Claude le Jeune

Il Bianco e Dolce Cigno/ by Jacques Arcadelt
https://youtu.be/eiJrAhb_rws
ウチは何か駄文を書くと「あぁ・・・ハマったな」ってなるんですが、DQは絵の方が先行して、字に至るまでに実に1年を要しました。こんなことは初めてです。
理由はいろいろです。まだ前のジャンルで活動していて、DQはサブのつもりでいましたし。それになんか・・・DQは文の形にするのが妙に難しいと感じました;
だから、ものすごく難儀したけど、これが最初で最後のつもりで、忘我の愛情だけは注いで書きました。

・・・リハビリになったんでしょうかね。あと2つ3つくらい書ける気がしていますwwww