Aurea Apiculae

3. ε-Boö“Pulcherrima”

人は異郷に生まれてくる。生きることは故郷を求めることだ /Karl Ludwig Börne
 オディロ院長を亡くし、ククールとも別れて、その後どんな人生を自分で築こうとしたのかを、全てを失ってからマルチェロは折々考えた。
 暗黒神の支配さえ退けたその野心が望んでいたものは何だったか。この世界を手中に収めたとして、そして何をしたかったのか。
 ミツバチたちの姿を見かける昼下がり、あるいは星澄む夜など、ククールはどうしているだろうかとよく思う。騎士団は正式にやめたとは聞いた。まあ、いつでも自由で身軽で、そしてしたたかだった彼のことだ、いかようにでも生きていくだろう。心配はしていないが、ただ、もう一度、逢いたいと思った。

 もう一度逢いたい――そんな日が来ようとは。だが本当は、彼を憎んで心を閉ざしていたあの日々のほうが虚構だったのだろうと、今はそう思う。
 ククールが修道院にやってきた、そのときから、自分の心は落ち着いたことがないとマルチェロは思っていた。しかし今、冷え冷えとただ過ぎていくだけのこの虚しい毎日はむしろ、まだククールを知らなかったあの頃に似ている。院長の慈愛の下で聖課に勤しむ生活を教えられはしたが、この世に裏切られた痛手は癒えず、何の生き甲斐も見出せない虚無は、もう長いこと、マルチェロには馴染み深いものになっていたのに。何のために生きるのかなど考えなくなったのは、今にして思えば、ククールと出逢ってからのことだった。

 家へと帰る丘の道を一人辿りながら、帰るとは何なのかと自嘲ぎみに考える。居るべき場所も持たない自分にとって、帰るとは。大罪人である自分が追われずに生きていられるのは、トロデ王のはからいだとはマルチェロも知っている。ジャハガロスを倒すのに功があったという触れだ。けれど所詮、追われないというだけのこと。誰もマルチェロを顧みないし、喜びだろうが悲しみだろうが、分かつ相手がいるわけでもない。今さら為したい何かもない。この孤独、この虚しさ、何のために生きるのか。世界は救われただろうが、自分は一度はそれを破壊しようとした身だ。かつて裏切られ、今度は自分が裏切って、希望を信じられなくなったこの日々。一体、死んでいないだけのこの自分を、生きていると言えるのか。何のために、どうして私はここにいるのか、教えてくれるものならば――
「ククール……」
丘の上に、空から降り立ったような、見紛うことなきその姿があった。

「久しいな、息災だったか」
もっとさりげない、軽い口調もありそうなものを、別れた男女の再会でもあるまいに。
「まあね」
「この辺りに暮らしているのか」
「いや、あちこち放浪中さ。ここらには今日着いたばっかりだ。兄貴は?」
「この先に家がある」
「そっ…か」
 あまり言葉も出てこなかった。驚きよりも、名状し難い気持ちが胸に溢れるので。色彩もなかったこの世界に、懐かしい蜜の色が満ちていく。
 マルチェロが何も言わずにいると、ククールは小首をかしげてから、そっと立ち去ろうとした。
「行くのか」
「うん……そろそろ泊まるところ探さねえと」
「ククール、」
ククールは足を止め、黙って続きを待っている。
「私の家に来るか」初めて口にする、弟を引き止める言葉はあまりにぎこちなかった、それでも心からな言葉だった。「何もないが……いや、余計な差し出口、か…」
「行ってもいいの」曖昧に濁るマルチェロの語尾を、ククールはやんわりと遮った。「泊めてくれるの、あんたの家に」
「ククール…」
「なら連れて行ってくれよ……オレ、行きたい」
その声は星から届いたものにも思えた。
「あんたの家に行きたい」

 抱きしめてみるとその高めの体温にも、匂いにも憶えがあった。間近で結び合った視線を、ククールは、少しはにかんですぐに外してしまった。
「なんか……照れるね」
 マルチェロはささやかに逃げるその顎をそっと捉まえて唇をおしあてた。
 初めてのような、懐かしいような。ひとつひとつ、服をはだけていく間さえ、約束事を確かめるようで初々しい……けれどやっぱり、懐かしい。白い内股を割り開けば、奥に覗くほくろも知っている。そこに口付けると、ククールは、くすぐってえよ、と笑って身じろぎした。
 懐かしさ。あの夜の窓枠が、どれほど美しく見えたかを憶えている。まるで願い事がかなう星空を切り取る魔法のように。ククールがいれば今もまた、同じ魔法が闇を彩る。煤けたランプのほやも、くたびれて壁に吊るされた上着も、書き損じの紙屑までもが、隠し持っている小さな物語をささやき始め、殺風景で色あせた部屋を心楽しい小箱に変えた。
 その小箱の中こそ、今は世界だった。全てを失って、残った小箱ひとつ――じゅうぶんだ、これ以上、何を望み得よう。帰るとはどういうことなのか、何のために生きるのか、その答えを与えてくれる存在は、昔も今も、この弟だけだ。かつて、それを憎悪と名づけることは容易かった。しかし苦しかった。
 憎んで……それでどうなるってんだ――
あの日、マルチェロを衝き動かしたものは、ククールのその言葉だった。自分でも本当は解っていた、それでも欺瞞で塗り固めていたものを、真正面から見せつける言葉だった。だからマルチェロは、いわば逃げるように彼を放逐した、そして一人になった――違う、いつもククールがいた、手を差し伸べてくれていた。それをただ、掴みさえすればよかったものを。
「ククール」
その名は今、驚くほど自然に、想いのままに口からこぼれ出た。たったこれだけのことができなかったがために、どれほどのものを破壊して、嶮しい回り道をしてきたのか。こうも胸が熱くなるくらいなら、弟のことを片時も忘れさせなかったものは何だったのか、憎んで、それでどうなるものかを、なぜもっと考えなかったのか。けれど、
「よそうぜ?そんなつらそうな顔」
額に落ちかかるマルチェロの髪を丁寧に梳き上げながら、ククールは慈しむように微笑した。
 懐かしさよ。指に指を絡めてその手を握ると、ククールもしかと握り返した。その結びつきを全身の願いにして、本能のままな生の交歓の中に没していく。
「あ……」
奥まるに従って、ククールの背はしなやかに反っていく。あらわになるその首筋の芳しさ、歯を立てるとククールは、苦悶と歓喜とを一つにして全身に波打たせた。
 弟の喘ぎに溺れて、深く貫くたびに震える腰を抱く。溶けては混ざる熱い息の間ではもう、言葉も言葉にならない。見つめあう瞳と瞳、感じあう肌と肌があるだけだ。だから見つめあう、感じあう、それだけでいい。外の星が巡っていく、さざめき瞬く。深閑と更ける夜を濡らして、共に白く弾ける瞬間に、腕の中にも胸の中にも、一切の虚飾を持たない互いのほか何もありはしない。
 遠く、遠く憧れて辿り着いた場所、それは弟の隣だった。本当はいつでも傍にあったその場所に、背を向けさまよい、今やっと、帰ってきたのだった。
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26.Nov.'16
BGM:Ich Liebe Dich/ by Orlando di Lasso
https://youtu.be/UToZjFdKm08
小曲だけどラッソの中では一番すき。前々からまるくくソングだな〜と思っている
や、歌詞は愛しています、私の心はあなたのもの・・・的なベタなことを繰り返してるだけなんだけど、それもまた、兄上ぽいかなって。
ウチは古楽好きなので、古楽が似合うジャンルはつくづく有難い・・・