Aurea Apiculae

2. α-Vir“Azimech”

 修道院の中では、静謐な日常ばかりが営まれていたわけではない。浮世から隔絶するには修道士たちの多くはまだ若かったし、騎士ともなればなおのこと、盛んな血気や気負いを信仰の生活で満足させるのは難しい。ちょっとした騒ぎだの揉め事だの程度、院の内外で起こっても自然の成り行きだったろう。
 そして、その原因はみな、ククールにあるかのようにいわれた。実際、彼はあちこちでよく問題を起こしてくる。しかし、彼のそうした行状が、恰好な隠れ蓑として利用された場合も少なくはなかった。窮屈な規律をものともせずに自由に振舞う彼は敵視もされる。筋違いな妬み嫉みから着せられた濡れ衣もあった。その上、彼自身は全く頓着せず、面倒な釈明などしないものだから、いつか彼の悪評は、事実に輪をかけたものになっていた。

 そんなある日、祭室から聖杯が盗まれた。大小の典礼に欠かせない法具である上、金銀珠玉を纏った財宝だ。これはちょっとした騒ぎだの揉め事だの程度では片付けられない事態だ。状況から、院内部の者の仕業である確率が高く、いつの間にか、ククールを疑うような空気ができあがった。
「お前が盗んだのかと訊いている」
団長としては当然、ククールを問い質す。
「いいえ」
「証拠があれば言え、あるいは誰がやったのか知っているか?」
「……知ってるよ」
これは意外な答えだった。ククールは少し目を伏せ、口元には微笑があった。夜の団長室、揺らぐ火影に俯くその容貌はどことなく、朝な夕な祈ってきた女神像に似ている気がした――マルチェロはそんなバカバカしい錯覚を追いやるように頭を振って、更に語気を強めた。
「ではなぜそれを早く言わない、深刻な問題なのは解っているだろう!」
「だって、オレの知ったことではないからね」
「……」
「聖杯でしたっけ? 水が入りゃいいじゃねえか、そんなもの」
 なんとか怒りを飲み込むことに成功して、マルチェロは大きく息を吐き出した。これ以上言っても無駄であることは承知している。
「そういう問題ではないのだが、まぁ、自分さえよければそれでいい立場のお前には解るまいな。とにかく、知っていることは洗いざらい言ってもらおう、今はそれだけでいい」
「お断りします」
「なんだと」今度こそマルチェロは気色ばんで、つと立ち上がった。「貴様……真相を知っていながら隠し立てとは……何のつもりだ、何を企んでいる」
「オレは嘘は言ってない。けど、言いたくないことも言うつもりはないね」
 ククールは眉一つ動かさなかった。
「どいう結論になるか、覚悟はした上での言い草だろうな?」
「解ってますよ、だんまりを決めた以上、どうなろうと異議申し立てる権利はないってこともね」
「……教会の宝を盗んだという嫌疑がかけられてもか」
「それこそ知ったことかよ」
実のところ、マルチェロはククールを疑ってはいない。彼ならその気になればいくらでも金目のものを調達できる当てはあるのだし、第一、こんな拙いやり方はしまい。許せないのは、院の事件に対し、非協力的どころか、あからさまに反抗的なその態度、しかも全く意図を見せない頑なさ。マルチェロは思わず、ククールに詰め寄ってその襟首を締め上げていた。
「貴様の言うことが本当なら、真犯人はどこかでほくそ笑んでいるんだぞ、憎くはないのか」
「憎んで……それでどうなるってんだ」ククールは、マルチェロの手の下から息を絞り出しながら、それでもマルチェロを真っ向見据えてキッパリと言ってのけた。「神はご照覧、オレにはそれでじゅうぶんだ」
 この瞬間、マルチェロを衝き動かしたものは何だったろう。気付けば乱暴に弟を組み敷いていた。ククールはただじっと、マルチェロを見上げるだけだった。睨むでもなく、嗤うでもなく、物言わぬ瞬きばかりが、静かに問いかけてくるように。
 知っている、この目を知っている。ずっと正視しないようにしてきたはずだったのに、この澄んだ、何もかもを理解している目をよく、知っている。
 その唇に呼ばれたような思いがして、唇を重ねた。

 抵抗しない体を抱きながら、マルチェロは、祈るとはどんなことだったろうかと、ふと思った。惜しげもなく声を上げ痴態を曝し、ねだってみせるくせに、肩に縋る前にほんの一瞬ためらう指先だとか、薄く開く睫の間から遠くを見つめる目だとか、時折垣間見せる儚さが男心を掴んで離さない。いい体だ、正直、こたえられない。何人がこの体の上を過ぎていったか知らないが、どいつもこいつもこれには嵌ったことだろう。だが、気付いていた者はあったろうか……本当にこれに捉われるのはなぜなのか。
「あんた、意外と丁寧に抱くんだね」
ククールは少し笑って、脚でマルチェロの腰をぐっと引き寄せ、更に奥へと誘い込んだ。
「…っ、でも…さ、別に、壊れ物じゃねえんだから」
いいぜ、もっと手荒でも……いつも邪険に当たっている弟からそう言われる。その通りだ、雑に扱ってやればいい、捌け口にしてやればいい。
 けれどなぜか、できなかった。憎んでいる、蔑んでもいる。自分と母の人生を狂わせた存在、それが今は、外では金で買われる下衆な売り物、内では都合のいい慰み者に堕ち、少しは溜飲も下がったはずだった。だが、ならば、見慣れたはずの冷たい壁が、今、こうも哀しく見えるわけを知りたい。無機質な窓枠に、こんなに星がちりばめられていたことも知らなかった。ククールの少し高めの体温が沁みとおる。何のために――マルチェロは思う、これは何のために、誰のために、自分が汚名を着ることも辞さずに私の詰責を受けて立ったのか。祈るとはどんなことだったろう、一体私は、心から祈ったことがあったろうか。最後に心から何かに感謝したのは、いつだっただろう――
 それっきりククールは何も言わなかった。だから、マルチェロも何も言わずにただ、惑溺した。答えの出ない問いも、この切なさの名前も、今はいい……全てこの熱の中に溶かしてしまって、ひたすら、汗ばみを分け合って、繋がりを何度も確かめるだけだ、激しくなる蠢きと息とを同化させて、刹那、大きく震えたククールの腰をしっかりと抱きとめて、何もかもを彼の中に注ぎ込むだけ……名前さえ呼び合わずに果てた二人の素肌の間に、ククールの迸りばかりが熱かった。

 一晩中抱き明かして、いつ自分が眠りに落ちたのかも定かではない。最後にぼんやりと憶えているのは、ククールの内股深くに隠れているほくろの上を、どちらのものともつかない白濁が一筋、伝っていくのを見るともなしに見たことだ。
 マルチェロが目を覚ましたときには、ククールは団長室からいなくなっていた。髪一つ残さない、見事な去り方だった。そして彼はまた、全くいつも通りに自由奔放に振舞う。兄との一夜など、何もなかったかのように。
 盗難事件の始末についても、自身がどう処されるかなどまるで慮外の様子だったが、それについては心配する必要はすぐになくなった――数日後に現れた旅の一行に、ククールは同行することになったからだ。

 院長のいないこの場所に、ククールはもう戻るまいと、根拠はないがマルチェロはそう思った。そして自分もまた、父のような人を亡くした喪失感は埋めがたく、目障りな弟も去って、残ったのは殺伐とした野心だけになった。
 ミツバチたちの巣箱は、誰も世話をする者もなく忘れおかれたが、彼女たちはわき目もふらず働き続け、やがて、新しい春がくると、まだ見ぬ天地を求めて古巣を去っていった。
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25.Nov.'16
BGM:Recercar con obligato di cantare / by Frescobaldi
https://youtu.be/ke7WNrSMZ6o
メーテルリンクの「蜜蜂の生活」(工作舎/原題“La Vie des Abeilles”)大好きです。さすが「青い鳥」の作者、養蜂という営みが、夢見るみたいに美しく描かれています。