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通り雨の向こうには

劇場版HAE内のお話です。映画のネタバレを厳密に回避したい方はご覧にならずに戻ってください。





「一騎君を返して!」
まるで悲鳴のような真矢の声が一騎の脳裏にこだました。
クロッシングを通して彼女の悲痛な叫びを耳にするのは、あの北極での戦闘以来だと、漆黒の空間に飲み込まれながら一騎は思い返す。
ああ、またあの闇に飲まれたのだ。今度はたった一人で。
あの時は総士が傍に居てくれた。自身の大半を失いながらも、仲間を巻き添えにすまいと言う決死の判断を下し、一騎と共に闇の中へと落ちてくれたのだ。
しかし、今は一人だった。いつしか真矢の声は聞こえなくなり、一騎は自身の意識のみを残して、手足から胴体から、全身のありとあらゆるものを失ってしまったのだと知る。
今度こそ、もう戻れないのかもしれない。手を差し伸べてくれる友も、傍に沿うべき友も、今は居ないのだ。こうして、自分が真壁一騎だと言う人間だと意識している事すら、奇跡なのではないかと思えるほどに、ワームスフィアの生み出した闇は一騎を無へ帰す為に無限の膨張を続けていた。
(総士……お前は、こんな場所に居続けていたのか……?自分である事すら、忘れてしまいそうになるこの闇の中に……)
しかし、一騎は不思議な事にこの闇を恐ろしいとは思わなかった。皆城総士と同じ場所に居るのだと思うと、逆に自分は今までになく幸せなのではないかと思うほどだった。
同化現象の進んだ不自由な肉体から解放され、永遠にこの闇の中を漂う事を許され、そうしてやがては総士の居る場所へと流れ着ければいい。そう考えると決して悪い事じゃない、そうとまで思えるようになった自分を、総士はどんな顔をして出迎えてくれるのだろう?
(……怒るかな、やっぱり)
総士なら、莫迦な事を考えるなと自分を叱りつけるだろう。そうやって彼はパイロットたちとクロッシングを通して共に戦って来たのだ。彼自身は前線に立てずにいた事をいつも悔いていたが、ジークフリード・システム搭乗者がパイロット全員から受ける情報量の凄まじさを考えれば、システム搭乗者である総士が「戦っていない」訳ではない事を、アルヴィスの誰もが理解していた。
(総士、俺もお前と同じくらいに……戦えたのかな……?)
だが、虚無が支配するその空間に一騎の問いに対して返答する者は居る筈もなく。
やがて、一騎は意識そのものがどこかへと引きずられていくのを感じた。
ああ、とうとう総てを飲み込まれるその時が来たのだろうと諦観して待つが、次の瞬間に一騎が感じたのは、目前に広がる青空と、青臭い雑草の臭いだった。
「なっ……こ、れ……」
一騎自身の放った声が自身の耳に届く。途端に、むき出しの両腕を風にそよぐ草が撫でる感覚を味わって更に驚いた。
「ここは……いつも皆で遊んでいた場所だ……」
ゆっくりと上体を起こして周囲を見渡した一騎は、自分が竜宮島にある神社に隣接している雑木林の中に居ることに気がつく。意識を失って林の中の原っぱの上に手足を投げ出して寝転がっていたようだった。
「……けど、俺、ファフナーに乗って操と……」
あの常軌を逸した破壊力を持つ、マークザインと対を成す機体であるマークニヒトが生み出したワームスフィアに飲み込まれた筈だった。なのに、今、自分の居る場所は、どう考えても懐かしい子供時代の遊び場である神社脇の原っぱの上だったのだ。
起き上がり、草の上に座り込む格好になった一騎は自分の手で身体のあちこちに触れて怪我や異常がない事を確認し終えてから、今、自分が置かれている状況を理解しようと頭を働かせ始める。
「……そういや、シナジェティック・スーツを着ていた筈だけど……」
ファフナーに搭乗する際に着用するスーツではなく、洗いざらして色あせたTシャツにズボンといった、ごく普通の格好である事に一騎は気がつく。その服もよく見れば、自分の持ち物そのものだった。
「……夢、なのか……」
それまでの命を削るかのような戦闘が夢なのか、この穏やかな風景が夢なのか、一騎はしばらく考え込んだあげく、今自分のいるその場所は夢そのものなのだと判断した。
だって、こうして美しい風景が見える。身体も自由に動く。そして、この場所には苦痛がない。驚くほど穏やかで、懐かしい空気に満ちている。こんな所が現実である筈がないのだ。
一騎にとって、現実はもっとこう、色のない、うすぼんやりとした暗がりの中にあって、友を失った痛みが四六時中、衰えた身体を苛むばかりの場所に成り下がってしまったのだから。
自分の居る場所が現実でないと判断した一騎はもう戦わなくてもいいのだと安堵し、勢い良く伸びた雑草の中にしゃがみ込んだまま、大きく息を吸い込んだ。
風に乗ってやってきた、かすかに鼻腔をくすぐる磯の香りに、この場所が確かに自分の故郷だという確信を得て、それから僅かに湿って熱を帯びた空気の肌触りや植生から、季節はどうやら夏の終わりだと知る。
人の寿命の数十年間のうちの、まだ17年ほどしか自分は過ごしたに過ぎなかったが、自分は竜宮島の事を島民の中でも割合に良く知っている方だと思っている。いつも買い物をする商店街の人たちとは小さな頃から顔なじみだったし、子供の足で行く事の出来る場所は遊び仲間だった甲洋や剣司たちとほぼくまなく制覇したと言っても過言ではなかった。島の地下に存在するアルヴィスですら、メモリージングによる学習の効果で迷う事なく歩き回れた。視力が衰えてからは指先の感覚が鋭くなったが、それに加えて嗅覚も鋭敏になったらしく、季節ごとの草花の香りで自分が島のどの辺りにいるかという事まで分かるようになっていた。
「懐かしいな……このくらいの時間は、海に泳ぎに行っている時間だ。甲洋達とさんざん遊び回って、昼過ぎに腹が空いて家に帰っていくんだよな……」
原っぱの上に座り込んでいる一騎を照らす太陽は未だ南の空には達してはいない。しかし、もう1時間も経てば頭の真上から強烈な日差しを浴びる事になるだろう。そして、それからまた少しすると通り雨がやって来て、熱せられた竜宮島を優しく冷やすのだ。
今にして思えば、そういった気象も総て島のコアであった乙姫が司っていたのだ。
夢の中でも彼女は通り雨を降らすのだろうか?そんな事を考えながら、一騎はようやく立ち上がり、周囲の散策を始めた。
雑木林の隣に見えた社に行き、賽銭箱の手前の階段に腰を下ろした。
そう言えば、かつてここで狩谷由紀恵と話をした事があったっけ、と思い出した。
狩谷の甘言に乗せられて竜宮島を出奔し、そしてその彼女が裏切り者であった事を知った当時、一騎はひどく腹を立てていたが、今となっては彼女の行動は必然で、自分が辿らなくてはならなかった道だったと理解していた。
父や真矢には随分と心配を掛けてしまったが、自分が皆城総士を理解するために必要な事だったのだ。
そして、この場所はその総士を、傷つけた場所でもあった。
社から十数歩離れた場所に生えている木の下は、涼しい風が通り、夏の日の午後を過ごすのに心地の良い場所だった。衛の持って来たラジオに皆で触れたのもこの場所だ。そしてそれから2年後に、あの事件が起きたのも、同じ場所だった。
今も、あの日と同じように、夏の日差しが木漏れ日となって地面に差している。このまま眺めていれば、子供の頃の自分と総士が姿を現すのではないかという期待なのか、恐れなのか、よくわからない感情が一騎の胸中を満たし始めていた。
「そういや、俺、総士にまだちゃんと謝ってなかったんだよな……」
一騎は皆城乙姫の導きによって記憶の封印を解かれ、事件の全容を思い出してはいたが、総士に対してはっきりとその事を詫びてはいない。
ファフナー搭乗時のクロッシングによって総士に対して謝罪したいと思う気持ちは彼へと伝わっていたのかもしれないが、実際に顔を合わせて謝罪したいと思う気持ちが今更ながら一騎の中で頭をもたげて来て、ここで待ち続ければ、もしかしたらそれが叶うのではないか、そう感じていた。
「莫迦だな。夢だろう、ここは……」
仮に夢の中で総士と出会う事が出来ても、それは本当の総士ではないのだ。自分の脳が造り上げた、自分にとって都合の良い総士に違いない。
しかし、そう考えながらも、一騎は自分の口から謝罪の言葉を告げたいと願い始めていた。
夢でもいい、もう一度、話をしたい。操の身体を通じてでも良かった。けれど、お前は操とともにすぐに消えてしまって、それっきりになってしまった。
総士、お前の顔が見たい。俺の前に姿を現して、その左目に刻まれた傷を俺に突きつけてくれ。そして、俺に謝罪させてくれ。もう尽きる命なのだから、詫びる俺に赦しを与えてくれ。
一騎は同じ場所に座ったまま、ただ、目の前の木を見つめ続ける。
やがて、太陽が頭上から西の方角へと僅かずつ移動し始めた。
つづく