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通り雨の向こうには

劇場版HAE内のお話です。映画のネタバレを厳密に回避したい方はご覧にならずに戻ってください。





 灰色の雲が空を覆い始め、地上へ向かってぱらぱらと水滴をまき散らし始めた。
 いつもの通り雨だ。三〇分もすればそれは弱まり、そして上がってしまう事を一騎は心得ていたので、腰を下ろしたままで、ぼんやりと灰色の空が降らせる水滴を見ていたが、不意に前方から子供が自分に向かって駆けてくるのを見つけてぎょっとした。
 柔らかな色の髪を揺らしながら走って来た子供は、顔の左側を白い包帯で包んでいた。どうやら社で雨宿りをするためにやって来たらしいが、一騎の座っている階段の手前の段差で躓き、その小さな身体が一騎めがけてぶつかるように飛び込んで来たのだ。
「わ、っと……」
 顔に触れないように腕を伸ばして子供の肩を支えた一騎は小さく声を上げ、それからその子供を驚かせないようにと平静を装った。
「だ、大丈夫?」
「あ……はい。ありがとうございます」
 子供は転びかけて、そして助けられた事に驚きながらも、一騎へと礼儀正しく礼を述べた。
「君も雨宿りを……?」
 一騎は自分が真壁一騎だと名乗ろうかどうか考えながら、とりあえず様子を見るために子供にむかって声を掛けた。
「はい。いつもならこのまま家に帰るんですが、怪我をした部分を雨に濡らしたくなくて……」
 子供は――細身の、一見するとまるで少女のような、色の白い、整ったかんばせの少年は――一騎に向かって笑顔でそう答えた。
「そ、そっか……」
 少年の返答を聴き、一騎は表情を強張らせた。
 少年は、一騎が会いたいと願った皆城総士そのものだった。
 その姿も、声も、受け答えも、一騎の記憶にある総士の子供時代そのままだった。
(まさか……本当に……)
 願っていれば会えるような気はしていたが、まさか本当に姿を現すなどとは露程も思っていなかった。しかも、あの時の、自分が最も会いたいと願い、そして最も恐れていた総士に。
 驚いて黙ってしまった一騎を、総士は一騎の隣に腰を下ろして、見る事の出来る右目で見上げた。
「おにいさん……竜宮島の人じゃないですよね……?」
 不意にそう尋ねられて、一騎は喉から心臓が飛び出そうなほどに驚いてしまう。
(俺の事、誰だか気がついていないのか……)
 内心で自分の素性を明かさないでよかったと安堵しつつ、どうやって最後まで誤摩化そうかという思いがぐるぐると巡り出した。
「あ、ああ。ちょっと、この島の人に、あ、会いに……」
「ふうん……」
 じっ、と総士の灰色の瞳で見つめられて、一騎は背中にじわっと嫌な汗が噴き出すのを感じる。
 何か言わなくては、と思い、咄嗟に「遠見先生に会いに来たんだよ」と口にした。
 遠見千鶴の夫は総士との一件の数年前に竜宮島を離れていたので、いざとなったらその事で千鶴に会いに来たと誤摩化せるだろうと考えたのだが、総士は殊の外単純に一騎の言葉を信じたようで、それまでの不信そうな表情を緩めて笑顔を見せた。
「僕、遠見先生の所から帰ってくる途中だったんです」
「遠見先生に治療してもらっているのかい……?」
「はい。しばらく前に転んで怪我をしてしまって。遠見医院しかこの島には病院がないけれど、遠見先生ならどんな病気でも診察してくれるから……」
 目の前に居る一騎が一騎である事を知らないにも関わらず、総士は自分の左目の怪我を自分の過失だと話す。その姿に一騎は胸を締め付けられるような思いだった。
「そうか……それで、そ、その……傷は……」
「傷はもう殆ど治りました。最初は眼球が白く濁ってしまうかもって言われていたけれど、遠見先生がきれいに治してくれたんです。視力は残念ながら、元通りにはならないけれど、右目はちゃんと見えるから普段の生活に大して支障は出ないだろうって」
 生活には困らなくても、ゆくゆく最も大切な局面で歯がゆい思いをするのだと教えてみたくもなったが、一騎はなんとかその言葉を飲み込んだ。
 それから二人でしとしとと降り続く雨を眺めて、もう少しで雨が上がるとかなんとか話をしていたのだが、一騎はまた総士が自分の顔を見ている事に気がついた。
「な、何か、俺の顔についてる……のかな……?」
 一騎がおそるおそる尋ねると、総士は申し訳なさそうにかしこまって答えた。
「……あなたは僕の友達に似ているんです。だから、あなたと話をしていると、なんだかその友達と話をしているみたいな気分になっちゃって……」
 似ている友達というのは、やはり子供の頃の自分の事なのだろう、と一騎は想像した。
「……その子とは僕が学校を休んじゃったからずっと会ってなくて……会ったら、どんな事を話せばいいのかな……って……」
 膝を抱えて座っている総士は、何かを無理矢理こらえるように静かな声で話している。その静かさが、却って小さな彼がその身体の中に抱え込んでいるものの大きさを知らしめているようで、一騎には辛かった。
(総士も……俺と同じように……話したくても、話せなかったのか……?)
 しかし、今、自分は夢の世界にいて、そして目の前の総士はおそらくは自分の都合の良い存在となっている筈で。
 一騎はそれでも、いいと思った。目の前のいとおしい存在へ、言いたくても言えなかった事を告げるのが今この時なのだと確信していた。
 だが、いきなり自分が一騎だと告げて総士を驚かせる事も憚られるので、
「あの、さ……だったら、俺を相手に練習してみればいいんじゃないかな……? その友達に、次に会う時の為の」
 総士に対してそのように提案すると、総士は目を丸くして、そして次に顔を赤くして慌てた。
「えっ、で、でも、そんな……いいの……?」
「いいよ。俺、君の手助けをしたいって思ってるんだ……気にせずに、言いたい事を言って構わないよ」
 自分の声がやけに甘ったるく優しく聞こえて、一騎は気恥ずかしさを感じたが、総士を安心させるにはちょうど良かったらしく、総士はやおら立ち上がると、一騎の方へ向き直り、赤らんだ顔で言ったのだった。
「あっ、あの……ご、ご……ごめん……恐い思い、させちゃって……目の事は、気にしないで……僕が変な事をお前にしようとしたからだって、分かっているから……。お前と一緒にいると、僕は、その……おかしな気持ちに、なるんだ……でも、これからはお前を怖がらせないように、する……だから……いつか……すぐじゃなくても、僕を……僕の事を……分かってくれたら、うれしい……」
 総士の細い腕に力がこもっていた。固く握られて白く色を失った両の拳とは正反対に、そのかんばせは赤く染まり、唇が小さく震えている。それを目にした一騎は、総士がその言葉を吐き出すのにどれほどの決意を込めていたかを伺い知った。
 とうの昔に、自分は赦されていたのだと知る。乙姫からその思いは伝わってはいたが、こうして総士から直に告げられて、それは実感を伴って一騎の内部に新たに形を成したのだ。
 戻ろう――総士の帰還を待つ為に、あの戦いの中へ――。
 色のない世界であっても、この命を削るばかりの苦痛に溢れた世界であっても、それでもいい。総士が帰ると誓った、あの世界へ。自分も誓いを果たす為に。
 ふるふると震えて立つ総士の肩を抱き寄せた一騎は、
「あの、さ……俺も、ずっと会えない友達に言いたい事があるんだ……君を相手にしても、いいかな……?」
 そう耳元で囁いて、そして総士はこくこくとそれに対して頷いた。
「ありがとう……じゃあ……」
 総士の顔を見ながら、一騎は笑おうとした。しかし、なぜか総士の姿が奇妙に歪んで見える。ああ、俺、泣いてるのか。そう気がついた途端、どっと涙があふれた。
「傷つけた事、ずっと……謝れなくて……ごめん……な……それに、お前こそ、俺の事をずっと、ずっと……待って……くれて……ありがとう……だから、俺も……待ってる……あの場所で……待ってる……だから……総士!」
「……お……にい……さ……ん……?」
 子供のうすっぺらい胸に顔を埋めて声を上げて泣いている一騎の頭に、総士の手が触れた。突然泣き出した自分の事を不審に思って、頭を払いのけられるのだろうと想像した一騎だったが、小さな手はそっと一騎の黒髪を梳くように撫で、頬を伝っていた涙を拭っていた。
「泣かなくていい……もうすぐだ……一騎……」
「そう……し……?」
 刹那、一騎の意識が強引に引き戻された。木々の緑や、雨上がりの青空と共に目に飛び込んで来た小さな総士の姿がみるみるうちに更に小さくなっていく。
「総士! 総士!」
 名前を呼ぶ声が聞こえたのだろうか、総士は遠ざかる一騎の意識に向かって微笑みを返してくれた。けれど、その表情は僅かに歪んで見える。総士もまた泣いているようだった。
「総士……ありがとう……」
 それまで自分の描いた夢だと思い込んでいたものが、総士によって与えられたものだと、一騎はその時知った。
 虚無に包まれ存在を手放す寸前の一騎へ、総士は現実で成すべき事を思い出させてくれたのだ。
(夢でも幻でも、お前に謝ったら自分でも納得して逝けるだろうって思ってたけど……そうじゃなかったな……総士……やっぱり、お前に会いたい……お前の声を聞いて、それから、俺もお前にきちんと伝えたいよ……その為にも、操に……分からせるさ!)
「……っうあああああああっ!」
 そして、一騎の意識は急速に幾度となく激しい同化を繰り返す肉体へと帰還を果たした。マークザインは真矢の搭乗する機体からの一撃が穿った傷から吐き出されるように実体化して空中に放り出されていたのだ。
 一騎は叫び声を上げながらも体中に満ちる痛みに安堵する。痛みを感じていられるうちはまだ「戦える」肉体があるという証拠だ。総士との約束を果たせる筈だった。
 一騎は周辺の状況を把握する為に視覚野へ接続されたファフナーの外部カメラを動作させた。すぐにほぼ全方向からの映像がコクピットブロックのモニターへと反映される。時間がマークニヒトへと取り込まれた時から思いの外経過していた事に驚いたが、フェストゥムの大群を相手に苦戦しながらも懸命に竜宮島の防衛に心血を注ぐ仲間の姿を認めて、自分の肉体と同じようにまだしばらくはやれそうだと安心した。
 音速に近い速さで移動し、フェストゥムの根に絡めとられている仲間を救出すると、天空から竜宮島の息の根を止めようとしていたフェストゥムを逆に同化した。助けた後輩に声を掛けてから、更に空へと高く飛び上がり、操の搭乗するマークニヒトへと詰め寄る。
 雲を突き抜ける直前、一騎はあの通り雨の後の、湿った空気の匂いを感じた。
 直感的に、その匂いの向こう側に彼がいるのだと確信する。
(総士……総士……! 俺は……お前の戻るべきこの場所で、お前を……待つ!)
 一騎は渾身の力を振り絞り、白銀の輝きを放つマークザインの右の拳を相手めがけて放ったのだった。
おわり