ビターチョコレート
(中)
「・・・なんで碁なんだよ」
マンションに着いて、家政婦に挨拶をする。元就の部屋に入るのは久しぶりだった。相変わらず殺風景な白い壁だったが、部屋の雰囲気は何故か以前より少し柔らかくなっているように思えた。
(多分、お袋さんが来るようになったからだな)
元親はまた少し元就の母親に嫉妬を覚えた。けれど今日という日に元就が自分を自宅へ誘ってくれたことを思い出して、気を取り直す。
ノックが響いて、家政婦が紅茶を持ってきた。生憎本日は菓子を切らしておりまして、と申し訳なさそうに恐る恐る言うのを、元親が、大丈夫今日は俺たち二人ともチョコレートあるんで、と笑って応えた。家政婦はそれを聞いて、あらまぁと言って元親がこの家に来て以来初めて笑顔を見せた。
とりあえず二人で紅茶を喉に流し込んだところで、元就が立ち上がってクローゼットからなにやら運んで来た。
「・・・なんだこれ」
「碁盤だ」
「んなこたぁ、見りゃ分かるぜ。なんで今碁盤出すんだよ」
「何故とは?貴様と碁を打つために決まっておろう」
「ちょっ・・・、おい毛利。本気でそれ言ってんのか!?」
「無論」
「おいおい、嘘だろ・・・?」
元親は頭を抱えた。元就はきょとんとした表情で、この前の続きだ、と言う。それで元親は思いだした。先日、学校の職員準備室で古い碁盤を掃除中に見つけて、伊達や真田と五目並べをしていたのである。そこへ元就が通りかかり、元親が誘ったのだった。
五目並べなぞ知らぬ、と元就は言った。三人は呆気にとられた。普通の碁なら打てるが、と言う。ルール覚えりゃ毛利さんなら五目並べくらい簡単だぜと政宗が言うのを、元親はまァ待てと押し留めたのだった。
「じゃ、俺と打ってみるか?」
「・・・貴様と?打てるのか?」
「打てるぜ」
「ほぅ。これは意外な」
そうして、幸村と政宗を完全に蚊帳の外に置いて、二人で対局を始めてしまったのである。元親は基本的にオセロや将棋や囲碁は好きで、結構自信もあったのだが、いざ元就と打ち始めてみるとこれが強い。同年代であまり強い相手と打ったことがなかったので、元親は内心驚いた。
元就もどうやら驚いたのは同じらしい。貴様けっこう打てるではないかと、途中小声で呟いた。その言葉は認めてもらえたようで嬉しかったが、元親も生来負けん気の強いほうだから勝負ごとは本気である。あんたもな、と返しつつ、互いに真剣に盤面を見つめて一歩も引かない。
やがて幸村が疲れたように、拙者には意味が分からぬ、休み時間ももう終わるようだが、と。政宗も肩を竦めて、てめぇらにゃ付き合ってらんねぇよと二人で準備室を出て行った。おい待てもうちょっとこのいい勝負見ていけよと元親が言った途端、チャイムが鳴った――――
「・・・あぁ、そんなこと、あったっけ。そういや」
「なんだ。あのときはあれほど熱くなっておったに、忘れたか」
「・・・悪かったな。三歩歩けば忘れるんだよ俺ぁ」
別の機会だったらきっとすぐ思い出したし、勝負の続きに乗り気にもなっただろう。けれど何故今日、この場所で?という思いを抱くのは自分としては当然だと元親は不貞腐れた。
けれど元就は全く元親の気持ちには頓着せず嬉しそうに。
「貴様が結構打てることが分かったからな。我は楽しみにしておった。勝負をつけねば」
「あのよ・・・続きって。俺、あんときの盤面全部覚えてねぇぜ?」
「我が覚えている」
「・・・はぁ・・・」
もう澱みない手つきで碁石を盤上に並べていく元就を見て、元親はこっそり溜息をついた。
曲りなりにも「恋人」と確認した相手を部屋に呼んでおいて、することは囲碁だという。いかにも元就らしいと思ったし、自分と対戦するのを楽しみにしてくれるのは嬉しいが、せっかくの二人きりの時間なのにと元親は少々不満である。
けれど同時に、元親の中の子供っぽい部分は、こうまで言われるなら強引にでも勝ちたいと訴えていて勝負する気満々である。元親はそんな自分に苦笑しつつ肩を竦めた。
元就も自分も、恋人という言葉を一度は確認しながら、少し今は目を逸らして生暖かい平和な関係を楽しんでいるのかもしれない。
中盤までは元就の優勢だったのが、意外にも元親の飛び込みが功を奏して途中から互角になった。その一手を打ったとき元就が一瞬目を見開き「計算してないぞ」と呟いたのは、元親は気づかないふりをしておいた。元就は何気に負けん気が強い。ついでに何気に気が短い。癇癪を起こして「もうよい帰れ!」とへそを曲げられてはたまらない。
唐突にベルが鳴った。家政婦が帰る時刻らしく部屋のインターホン越しに挨拶が聞こえた。帰る前に何かお持ちしますかと問われて、飲み物の追加を元就が頼んでいるのを顔を上げずに元親は聞いていた。いつの間にやら勝負に引き込まれ真剣に盤面を見つめていた。
ドアがノックされ、元就が紅茶を受け取るために立ち上がる。元親はやっぱり顔を上げず考え込んでいた。
だから、自分の顔と碁盤の間に急に何かが割り込むように現れたとき、うわっと叫んで上体を起こした。
顔を上げると、元親の声に驚いたらしい元就が、ぽかんとした表情で手に何かを持って立っている。
「な。なんだよ一体」
「貴様こそ何故そのように驚く」
「だって急に目の前になんか出たら吃驚するだろうがよ普通」
「・・・・・・」
元親はあらためて元就の手のものを見た。小さな箱だった。
「なんだ、それ」
「・・・・・・貴様に呉れてやろうと思ったのだが。持っていくのを忘れていた」
「俺に?呉れるなら貰っておくけどよ。何だ?」
「・・・・・・」
元就の歯切れが急に悪くなったので、元親は不審に思った。手を差し出すと、ややあって黙ったまま渡してくれた。開けていいか?と問うたが頷きもせず元就はまた元親と差し向かいに盤を挟んで座った。元親は一手を打った。元就が考え込む。
そのまま互いに無言になったので、元親はあらためて受け取った箱を見た。そして気づいた。
「・・・あのよ、毛利」
「・・・なんだ」
「これ、チョコレートか?もしかして」
声が少し震えた。
「・・・そうだな」
そっけない返事だったが、元親は手の中の箱を食い入るように見つめる。
「・・・・・・俺に呉れるってか?あんたが?」
「いらぬなら、我が食すゆえ気にするな、捨て置け」
「・・・・・・わざわざ買ってくれたのかよ?俺に?」
「馴染みの百貨店の外商部がすすめてきおった。甘くないと言っていたから面白いと思って買った」
「・・・・・・」
きっと今、自分の顔も耳も、火照って紅いだろうなと元親は思った。
元親はさほど甘いものは好きではない。そのことを確か以前言ったことがある。それを覚えていてくれたのだろう、だから甘くないチョコレートと聞いて購入したのだろう。その考えはもしかしたら元親の幻想かもしれない。元就がその行動を意識的にしたのか無意識だったのかは、多分元就自身にもわからないことだ。たまたまかもしれない。気紛れかもしれない。それでも。
それでも嬉しい。嬉しかった。想像もしていなかったから。
嬉しさを隠すように、少し乱暴に紙包みを破いた。銀色の缶が出てきた。蓋を開けると小さな濃い色合いの粒が詰まっていた。
「・・・食べ応えありそうだぜ、ありがとうな毛利」
「・・・・・・ふん」
「けどすまねぇ。俺、あんたに今日何も用意してねぇんだ」
正直に言って、元親は申し訳ないと頭を下げた。こうなってみると、元就はこんな行事はくだらないと思っているだろうし、男同士だからと軽く考えて何も用意しなかった自分の迂闊さが悔やまれた。けれどその分、本当に嬉しかった。
顔を上げると、元就は普段と変わらない無表情の面で元親を見下ろしていた。
「別に、そんなもの期待はしておらぬ」
「ほんとに、すまねぇ。けどよ、」
元親はとびきりの笑顔を元就に向けた。
「ホワイトデーには、きっちり返すからよ。あんたの誕生日だし、な」
「――――」
寧ろその発言にこそ、元就は真剣に驚いたらしい。何故知っているのかとは問い返さず、ただ一重の目を見開いてこくりとひとつ頷いていた。
元親は、立ち上がると自分の貰ったチョコの入った紙袋を持ってきた。どのみち元就と一緒に食べるつもりだったのである。床に広げてみると数は本当に多い。
「・・・こんだけあって、男からばかりってのがなぁ。」
そう呟くと元就が小さくふふ、と笑う気配がした。
「お。これは美味いと思うぜ、猿飛からだから。あいつ毎年手作りしやがるんだ、真田がチョコ好きだからな」
「・・・ほう」
佐助からの包みを開けると売り物とさほど変わらない出来映えのトリュフが二つならんでいた。二人でひとつずつ分けて食べた。
「ん、確かに美味い」
「だろ?じゃあ次は・・・」
「そんなに食べていいのか。持って帰らなくて」
「いいっていいって。どうせ持って帰っても姉貴が食べるだけだし、だいたい野郎からばっかなんて、自慢にもなりゃしねぇよ。・・・お、こりゃ」
元親が手に取ったのは大きさもあるが重さがずしりとあるものだった。
「えーと大吟醸チョコ・・・未成年の方はご遠慮ください・・・っておいおい、誰だコレよこしたの!?」
「チョコレートに入ったアルコールくらい大して問題あるまい」
元就は意外にも寛容にそう言うと手を伸ばした。元親もつられて一緒に口に放り込む。箱に注意書きがしてあるだけあって、アルコールがかなりきつい。が、元就は気に入ったらしい、また手を伸ばした。元親は少し慌てて次の箱を開けた。
「・・・リキュールボンボン・・・またアルコールかよ!!あいつら何考えてやがんだッ」
元就は拘らず、どれ、と手を出してそのボンボンも口に入れた。流石甘党だなと内心元親は考えた。しばらくもぐもぐと小さな口を動かしていた元就の、やがてほんの少し口角が上がった。
気に入ったらしい。
元親の手番である。チョコは置いておいて盤面を睨んで考えている間に、元就の手がそのリキュールボンボンに伸びては口へ運ぶ。
「・・・そんな気に入ったかよ、それ」
元就は黙って頷いた。じゃあ全部やるよと言うと、また少しにこりと笑った、ように見えた。
自分の手を打ってから、元親は元就にもらった缶を開けた。
「俺はこれをもらうかな」
わざと少し大きめの声に出して言ってみる。元就は盤上を睨んだまま動かない。照れているのか盤面に集中しているのかわからなかったが、元親は一人嬉しくて、掌に出した3粒ほどを勢いよく口に放り込んだ。
「うわっ・・・こりゃ」
思わず出た声に反応して、元就が顔を上げた。
「甘くないであろう?」
僅かばかり得意そうに言う。その様子を可愛い、とは思うものの反応を返す余裕が無いまま元親は渋い顔を元就に向けて無言である。元就が小首を傾げた。
「何か変か?」
「変ってぇか・・・半端なく苦いぞ、これ」
「苦い?・・・それは当然、砂糖分を抜いているからには多少苦くはあろう。然程か?」
元就は自分も、と手を伸ばし元親にあげたチョコをひとつつまんで口にした。舌先に乗せた途端、なんとも言えない表情を作る。ほんの少し味わう間もなく、掌で口元を覆ってきゅっと目を閉じる。どうやら無理矢理飲み込んだらしい、元親はその顔を見て思わず声を上げて笑った。
「やっぱ苦いだろ?なんだよあんた、これ自分で試食しなかったのかよ?」
「・・・試食なぞせぬ。店員が甘くないと言ったから信じたまで。ここまで苦いとは言っておらなんだぞ、巫山戯おって」
「実際、そりゃ間違ってねぇだろ。甘くはねぇわな。大人向きな味ってやつだな、酒なんかに合いそうだぜ。なんせ店員には罪はねぇよ」
「・・・水を飲んでくる」
元就は口元に手を当てたまま立ち上がった。おう行ってこい、と元親は再び盤上に目を落とす。
どたんと音がした。元親は顔を上げた。音のした方を見ると何に躓いたか元就が尻餅をついた格好で部屋のドアの前で座り込んでいた。
「おいおい、大丈夫かよ?どうした?毛利」
「・・・・・・」
返答が無い。
おいどうしたともう一度訊くと同時に、元就はぱたりとその場に横になったので元親は吃驚して立ち上がった。
「おい、毛利?どうした?具合悪いのか?」
「・・・妙だな。脚に力が入らぬ」
「はぁ?」
毛利、と呼びかけながら元親は元就の上体を起こしてやった。そこで気づいた。元就の頬と目元が紅い。
「熱でもあんのか?顔が紅いぞあんた」
「・・・そうやもしれぬ。だるい」
「急にそうなったのか?横になるか?」
「・・・・・・」
明確な応えが聞こえないので、ベッドに運んでやろうとよいしょ、と元親は元就を後ろから抱きかかえるようにして立ち上がった。
ところが小柄な元就の体躯は元親が予想したよりずっと軽かった、だから元親は力加減を誤ったらしい。勢い余って後ろへ二人で仰け反る体勢になった。元就を抱えたまま、元親は何歩かよろけながら後ろに歩き、壁際までいったところで二人で其処に座り込んだ。
「やれやれ・・・おい毛利、もっかい立つぞ?横になるんだろ、ベッドに」
話しかけながら後ろから元就を覗き込んで、元親はぽかんと口をあけた。元就はいつの間にか瞼を閉じて規則正しい呼吸をしている。
「・・・おい・・・寝ちまったのかよ?おい毛利?」
何度が揺さぶっても目覚める気配は無い。
顔を近づけて元親は、微かにリキュールの匂いがすることに気づいた。そういえばさっき元就は、リキュール入りのボンボンを大層気に入って口に運んでいたっけ。
(あれで寝ちまったってか?・・・けど、あれっくらいの酒で酔っ払うか普通?そうだとしたらよっぽど下戸だよな・・・)
いっこうに元就が起きる気配は無い。元親は仕方なく、一人で元就を抱えることにした。この程度の体重なら大丈夫だろうと、あらためて腕を元就に回してしっかりと抱きかかえる。
ふと顔を上げた。
「―――――あ。」
真正面のガラスに、元就を背後からしっかりと抱きかかえて座る自分が映っていた。
(後)