SALVATION



(1)


 毛利奪還は元親一党により無事に成った、と小十郎が伝えてきたとき、政宗は毛利の部屋だった場所で書見台の前に胡坐をかいて座っていた。
「…そうか」
 ぽつりと呟いたが、そのまま何も置いていない書見台の前でぼんやりとあらぬ一点を見つめている。
 小十郎は姿勢を正して座し、読み上げるように状況を淡々と説明した。
「宵闇と、折からの雨に紛れて“賊”の正体は露見することなかったようです。国境付近ゆえ始末をこちらへ押しつけられる心配もないかと。責任者のあの者にはすこし可哀相なことをしましたが、おおきく咎めを受けることもあるまいと思われます。すべては此方の目論見どおりに―――」
「…そう、か」
 やはりそれ以外の言葉は返ってこない。
「―――政宗様?」
 ややあって、小十郎はためらいつつ声を掛けた。政宗は少し身動ぎして小十郎を見た。いたのか、というふうに目を瞠る。心ここにあらずというふうな主君を、小十郎は不安な面持ちで見つめた。政宗は心配そうな視線に気づいたのか、にやりと笑ってみせたが普段ほどの闊達さは無い。
「なんだよ。まるで俺が今にもあの人を追っかけてくんじゃねぇかって顔してるぜ、小十郎?」
「…いえ、そういうわけでは…しかし」
「―――どうせ、これでよかったのか、とか余計なこと考えてやがるんだろ」
 さらりと言って政宗は肩を竦めると苦笑した。
 俺は大丈夫だ、と再度、声がした。指先が伸びて書見台に触れた。
「大丈夫だ。言いたいことは、言えたしな。…あとは元親に任せるさ。あの人が幸せになれりゃそれでいい」
 小十郎は視線を伏せた。
 政宗が切望する毛利にとっての“幸せ”は、もしかしたら自由を得ることではなかったのかもしれないと、小十郎は最近になって考えるようになっていた。聡い政宗もまた、そのことに気付いているのかもしれず、…けれど小十郎が望んだとおり、政宗は主君としての己を貫いた。成長を喜びつつ、これでよかったのか、とも思う。結局は母親との確執の帰結とさして変わらなかったのではないだろうか、と。
 それでも、今回の“結末”は、政宗が意志もって選び取ったものに違いなかった。政宗自身が知っている。
「…雨、止まねぇなァ」
 ぽつりとまた声がした。


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 雨はその日一日降りやまなかった。誰かの代わりに泣いてるようだ、と政宗は考え、らしくねぇなとため息をつく。
 翌日も、また翌日も雨だった。その頃には領地のあちこちで川の氾濫をはじめ水害が発生しており、政宗は毛利のことを暫し忘れなければならないほど主君としての務めに忙殺されることになった。忙しいのはかえって好都合だと考え、政宗は黙々と決壊した堤防の修理や、落ちた橋や、水の氾濫した村への救助などを指示して過ごした。
 そして―――“その報せ”が政宗の元に届いたのは、毛利が出立して既に五日経ってからだった。
 政宗は聴いたとき、何を言っているんだというふうに首を傾げた。ようやく雨もやみ、領地の視察もあらかた終えて被害状況を評議していたところだったのである。
「…おい。今なんつった?もっかい言ってみろよ」
 政宗は不機嫌に言った。報せを持ってきた男は平伏した。遅くなったことはお詫び致します、しかし河川の氾濫のため橋も落ち、どうにもなりませんでしたと只管に詫びる。ちがう、と政宗はまた声を荒げた。
「遅れたことを詰ってんじゃねェ!…なんつった?あの人が―――船に?」
 使者は―――元親からの報せを託された者だった―――顔を上げた。
「“御客人”は、船に乗られませんでした。ご自分の意志で船を降りられました。その後こちらまで送るよう言い遣っておりましたが、何時の間にやらお姿を消され―――」
「……ッ」
 政宗は脇息を倒す勢いで立ち上がった。その面は驚愕と怒りと失望と…すべてがないまぜになって、けれど何よりも、信じられない、という気配が強かった。同じように驚いていた小十郎は、茫然とする主君のかわりにその男に訊いた。
「確かなのか。お前が預かった“客人”は、船に乗らなかったというのは本当か?」
 間違いありません、と平伏したまま男は言った。確かに一緒に秦殿の(長會我部の偽名だ)船を見送りました、と。
「…なんで、だ?」
 政宗の呟きが零れた。小十郎はちらりと主君を見遣ると、その男に近寄り、政宗の代わりに、大儀だったと労い僅かに褒美まで与えて帰した。この男は“客人”の正体を知らされておらず、これ以上引きとめても意味は無かった。
 それからほぼ終わりかけていた被害報告の場を解散させると、主だった部下たちもすべて下がらせて、小十郎は政宗と二人きりになった。
「…小十郎。どういうこった?」
 俯いたまま問うてくる若い主君は憐れなほどに憔悴しきっていた。小十郎もどう言えばよいか俄かにはわかりかねた。政宗が元就のために、最も良いと考え用意した道を、彼はあっさりと断ち切り拒絶したのである。そしてその後の行方も知れない…
「…小十郎。どう、しよう。あの人は、…何処へ行ったんだ?」
「政宗様」
「元親のところへ行かず、消えちまった、てのは…なんでだ。なんで?俺のところへ戻ることもせず…何処へ、行っちまったんだ?何処へ…」
 そうして、泣きだしそうな顔を小十郎へ向けた。どうしよう、と子供のような声が訴えた。
「あの人は、…もしかしたら。…生きるつもりなんか、最初から無かったのか?最初っから…此処を出たら、死ぬつもり、だった、のかよ…?」
「―――政宗様ッ」
 不吉な想像を窘めようとして、けれど小十郎も言葉を続けられなかった。実際に元就のとった行動はそうとしか思えなかった。彼が出立したとき降り始めた雨は数日間降り続け、伊達の領地の彼方此方に爪痕を残している。一人で何処へ彷徨ったとしても、酷い目にあっているには違いなかった。まして港の傍は最も被害の大きい土地のひとつだった。
 政宗がいきなり拳で畳に殴りつけた。小十郎は止めなかった。畜生、畜生と呟きながら政宗は何度も畳を殴りつけた。
「…畜生。なんでだ?死ぬ気だったら、なんで、…まだ最上のところに行ったほうがよかったんじゃねぇのか!?幸せになれって、俺は言ったはずだ!幸せになるために―――あの人が幸せになるために、俺は手放したんだ!!それを、なんで…」
 政宗は動きを止めた。ぼたぼたとひとつだけの目から涙が落ちて凹んだ畳に吸い込まれるのを黙って小十郎は見ていた。
「最初ッから、…俺の話なんざ、聞いてなかったのか。俺のことを信用してなかったのか。元親のことも?…死に時を探していただけだったのか、あの人は―――俺と契ってくれたのも、…全部、どうでもいいことだったのかよ…?」



 小十郎は暫く主君の怒りと悲しみを黙って受け止めていたが、政宗様、と静かな声で呼んだ。政宗の返事は無かったが、小十郎は構わず続けた。
「毛利殿の死体を誰かが見つけたわけではありませぬ」
 政宗はその言葉に、はっと顔を上げた。
 小十郎はすでに落ち着いていた。いつもどおり姿勢を正して座し、じっと主君を見つめてくる。
「いま一度申し上げます。…毛利殿の死体は、発見されておりませぬ」
「小十郎。…諦めるなって言いたいのか?」
 少しの躊躇の後に政宗は言った。小十郎は頷いた。
「確かに、政宗様のお考えどおりやもしれませぬ。…しかし、そうでないかもしれません。何処かで、生きておられるかもしれない。領内ではなく、何処か別の場所へ行ったかもしれないのです。」
「Why?あの人がそうする理由は、なんだ?元親と一緒に行かないでそうやってまで―――」
「生きる意味が無いとお思いか?…人それぞれに理由はありましょう。我らには毛利殿のお考えはわかりませぬが、もしも理由を問いたいのであれば―――ご本人にすることが一番です。ですから」
 納得いかれるまで探すことです、と小十郎は訴え、及ばずながら小十郎もお手伝いいたします、と、頭を下げた。
 政宗は黙ったまま俯いていたが、やがて立ち上がると広間を出た。行き先の分かっている小十郎は後を追わなかった。



 元就の居室だった場所へ入ると、政宗は彼のよく座っていた場所へ近づいた。
 それから、まるでそこにその人がいるかのように、少し離れた位置に座った。政宗のひとつの目の網膜の上に、書見台へ向かって凛と背筋を伸ばして座る元就の姿が蘇る。幻の彼が、ふと、こちらを向いた。
“そのように、我が書を読む姿を見て面白いか?”
「…面白いさ。なんであれ、アンタのことは見てて飽きなかったぜ、俺は。…もっともっと、見ていたかった」
 呟きを返して、政宗は小さくため息をついた。
 自由に。幸せに。彼らしく―――そう在ることを希って、政宗は彼を自分の元から放したつもりだった。
(…俺はそれがアンタのためになると思った。アンタもなんだかんだ言って、元親と一緒に行くと頷いてたから…アンタの望みでもあると信じてた。でも)
(…アンタのほんとうの望みは、なんだったんだ?俺は、…アンタがどうしたいのか、聞いた覚えが、…今更)
 たとえ訊いても、元就は応えてくれなかっただろう。どうしたいと言う自由は、此処にいるときの彼には無かった。願っていたことがあるとすれば、只管にそれは毛利の家の安泰と、政宗に迷惑のかからぬように。ただそれだけだったように思う。
(だからか。…ほんとうは死にたかったのに、俺の傍で死んだら俺が困るから…?だから、誰にも知られず姿を消したのか?)
 でも、それほどに弱い人ではない、とも、政宗は思う。小十郎も暗にそう言っていた。
「…元就…」
 ぽつりと、政宗は誰もいない部屋の中央に向かって呼びかけた。
「俺にchanceを呉れるのか。…もう一度アンタを探して、とっつかまえに来い、って…そういうことなのか。俺は、そう信じていいのか?…諦めきれない俺を嘲笑いながら、アンタは逃げるのか?…」
 政宗だけの見る像は、ふふ、と小さく笑ったようだった。
“貴様らしくないことよ、伊達。…諦めの悪いが貴様の長所であろうに”
「…そうだよなァ」
 政宗は笑った。ふいに涙がこぼれたが、ごしごしと手の甲で擦って、それから書見台に向き直る。
 見てろよ、と自分自身に言い聞かせるように声にした。
「見てろよ、元就。…アンタが何処に行こうとも、…俺は探し出してやるからな!アンタがはっきり死んだと分かるまで。俺は絶対に諦めないぜ、…そして今度こそ」
 ―――今度会えたら。もう一度言おうと思う。
「今度は、…ただのひとりの男からじゃなくて、…伊達政宗としてアンタに言ってやるぜ。その言葉を」



 翌朝、小十郎が「その部屋」に行くと、主君は打ち掛け一枚を羽織って畳の上で小さく丸まり眠っていた。小十郎は吐息をひとつ、政宗の顔をそっと覗きこんだ。泣いた跡が残っている。
「…政宗様。お風邪を召しまする」
 声をかけると、政宗はふと片方だけの眼を開けた。あぁ、小十郎か、とぼんやりした口調で言ってのそりと起き上がると、ぐるりと部屋を見回した。
 それから寝癖のついた髪をかき混ぜ、らしくねぇな、と呟いた。
「…いかがですか」
 小十郎は短く問うた。政宗はちらりと忠臣の顔を見た。
「…どうもこうも。…やることはひとつしか、ねぇだろうが」
 どこか不貞腐れたような声だったが、ふっきれたようなはっきりした意志を感じ、小十郎は微笑した。
「なに笑ってやがる、小十郎」
「いや。…あてもない作業ですから、年月はかかりましょう。それでも宜しいか」
「かまやしねぇよ。もう二度と会えないって腹括ったあとだ、…また会えるかもしれないってんなら、そっちのほうが俺らしい」
 政宗は立ち上がった。そうだろ、小十郎?と問い掛ける笑顔は、いつもの闊達な彼のものに戻っていた。

(2)