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「腹が減ったぞ」



声をかけられて、元親は閉じていた瞼を開けた。
青くて遠い空が広がっている。たなびく雲、青垣の峰々、眼下には黄金色の平野。
なんて綺麗なんだろうと元親は思い、ごしごしと目をこすった。眼帯が無いことに気付いた。眼をとじ、また開いて、驚いた。どちらの眼を閉じても、視野が明るい。
「―――視える?え?」
「伊羅。我の声が聞こえぬか?何をしている?」
その名で呼ばれたことに心底驚いて、元親は声の主を探してきょろきょろとあたりを見回した。
くい、と、袴を引かれた。元親は視線を落とした。
童子がひとり、元親を見上げてくる。
鳶色の振分髪を肩までで切りそろえ、萌黄色した水干を着ている顔は、元親のよく知った者の面影があった・・・
「・・・元就?」
元親は、呼んだ。いなくなった狐の名前だ。おずおずと手を伸ばして頭を撫ぜると、髪に隠れてよく視えなかったものがぴょこりと起きた。小さな獣の耳だった。元親は息をのんだ。
「―――お前。ほんとに・・・?」
「もとなり?誰だ、それは」
童子は、きゅっと眉を顰めると、小さな唇を尖らせて元親を睨んだ。
「我を見て別の名を呼ぶとはけしからんことよ。誰ぞ。」
「え・・・ええと、」
「ふむ。・・・貴様の“よいひと”、か?」
大きく目を見開いて覗きこんでくるので、元親は慌てて(なんてことを聞いてきやがる、このませガキめ!と半ば呆れつつ)いや別に、と言葉を濁した。
童子はそれを聞くと、ぱっと顔を綻ばせた。
「そうか。よかった」
(・・・なにがいいんだ?)
「貴様の“よいひと”は我だけでよい」
それを聞いて元親は吃驚したが、童子は頓着せず、再び元親の袴を引いて脚にじゃれるようにすがりついてくる。
「腹が減った」
「おいおい。さっき喰ったばっかだろ・・・お前はちびのくせに大食いだな!」
応えたのは元親の口であったが、元親にはその意図はない。腕を伸ばすと元親は――元親の腕は、軽々と童子を抱え上げていた。
「たくさん喰えよ」
童子はうれしそうに元親の首にしがみついた。
「伊羅の髪は白くてふわふわきれいだな。それにあったかい」
「ん?そうか?俺はお前のほうがぬくいと思うぞ?」
獣の耳した童子は、もう応えない。すうすうと、元親の肩に顔をおしあてて眠っていた。



そのまま、元親の―――否、“伊羅”の足は何処かへ向かう。やがて集落に入った。邑の者たちの姿恰好が、普段自分の視ているものと微妙に違うと内なる元親は気づいた。古い時代のものだった。
何人かが周りに集まってくると、今年の稲の出来栄え云々とにこやかに話しかけてくる。そうか、と、笑顔で答えた。いつの間にか、抱いていた童子はいない。
一人が、少し困惑した表情で言った。
「例の土地の者たちの移転が」
「おう。無事済んだか?皆納得してくれたか?だいぶ俺も合議に出て頭下げてきたんだが」
「民たちは問題ない。・・・ただ、肝心の“御方”が」
声が顰められる。伊羅の表情も曇った。
「・・・仕方ねぇな」
言うと伊羅は歩き出す。何処へ?と男の一人が慌てて訊いた。伊羅はふりかえると、笑顔で言った。
「ちょっと、話してくらぁ。―――言与主様と」



(・・・これは、なんだ?)
(あれは誰だ?俺の知ってる元就か?そしてこいつは?・・・伊羅だと?)



少し元親の意識は飛んでいたらしい。
我にかえったとき、伊羅(元親)は、古い社に向かって土下座し、頭を地面に擦りつけていたので元親は意味もわからず焦った。声がどこからともなく響く。
「・・・外つ国の禍神(まがつかみ)ごときに呉れてやれと言うか。貴様も神祇(かみつかさ)の端くれであろう。たとえ大陸の血をひいていようともこの地で生まれこの地の恵みを喰ろうてきた貴様が情けなし!」
声はどこから聞こえてくるのだろう。元親には聞こえる、けれど、周りの者たちの声とは別のところから響くようだった。
「その獣の血が吾の地を汚したのだ!貴様はその獣の業を知っているか。かつて明王の鎖に繋がれていた禍いの元凶ぞ。そやつになんの力がある。何故そやつを」
「―――畏れながら」
伊羅は、その言葉を拒む。
「我らの宇賀の神がこの獣を呼び、稲を生やしたのでございます。長く飢饉に苦しんでおりましたれば、民草たちも歓迎している。貴方様は長い時間、我らの言葉に耳を貸してくださらなかった。此処は宇賀の神と獣のものにお譲りいただきたい」
「―――痴れ者めが!長く此の地を守ってきた吾を追い払うと言うか!?」
抗う“誰か”に、伊羅は更に言った。
「・・・どうか、お願いです。貴方様を祭る者たちは、すでに納得し皆去りました。どうか彼らと共にここから移って別の安住の地へゆかれますように・・・朝廷へもすべて話をつけてあるのです。悪いようにはいたしませぬ。流れのままに、こころ穏やかに。どうか鎮まり給え・・・」
「おのれ!恩を知らぬ者どもよ、・・・吾の力を見くびるか。情けないことよ、旧きはおおきみとも並び称されたこの吾が―――この恨みを、誰にぶつければよい?」



“吾は悪事(まがつこと)も善事(よごと)もひとつ言い放つ。吾が言葉は御霊持ち必ずや真となる、されば吾は神なり”



それは、呪いの言葉に違いなく。
けれど動じず、伊羅は言うのだ。
「貴方の怒りは、すべてこの身が引き受けます。どうかほかの者には―――どうか」
(おいっ、何言ってやがる!?)
元親は、伊羅のまま叫んでいた。声にはならない。伊羅には勿論届かない。
視えぬ神の声が勝ち誇ったように響いた。



“よかろう。望み通りに。心して聞け、吾を此処より放逐する者よ、遠き異国の血を持つ者よ。いつか貴様の子孫は此処を離れ、吾の追われた土地へ同じように流れつくであろう。そこで貴様の子孫どもは愚かに吾にすがり、再び吾を祭りいっときの繁栄を手にするだろうが、―――やがて滅びる。根絶やしに・・・”



伊羅は、顔を上げなかった。歯を食いしばったのは、元親だったのか、伊羅だったのか。
ふいに金色の光が揺れて、あの童子が―――
(・・・元就!)
童子は、いつしか元親の知るあの若者になって、そこにいた。悲しい眸をして、元親を―――伊羅を、見下ろす。
「すまぬ、伊羅。一度宣言された呪いは我でも消せぬ。だからこうしよう」
古びた社から漏れる怨念をものともせず、狐神は言い放つ。
「この者の子孫は滅びぬ。長き時を密かに生き抜いて、やがて蘇る」
「おのれ、禍神!余計なことを―――だが、吾の言葉はまだ終わっておらぬ。貴様にも呉れてやろう」
「!よせッ!!約定だ、怒りは全部俺が引き受けると言ったはず―――」
伊羅が叫んだ。けれど、社から高らかに哂い声が響く。
「貴様は所詮ただの神祇よ。吾の言葉を打ち消すことなぞできぬ」



“吾の棲む大地からその獣の眷属を追い出し封じてやる。これから何万の月満ちた後、海に鉄(くろがね)の橋架かるときまで。貴様たちはその大地に足を下ろすことあれば、時置かず消滅するであろう!”



ごう、と、風が吹き荒れた。
恐ろしい力で、社から噴き出す力に、元親は蹲った。元就の声が叫ぶ。
「伊羅!逃げろ!!この場を―――」
けれど、次の瞬間、引きちぎられるような痛みが元親の顔面を襲った。何者かの手が憎しみとともに元親の―――伊羅の肉をえぐったに違いなかった。
「伊羅ッ!!!」
元就の声がする。
ぽたり。水滴が頬を伝った。
・・・元親は、顔をおさえていた手を離した。
掌に落ちる大量の紅い色。
「―――」
翳ってしまった視界は、いつもの自分と同じ―――



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