(32)


元親は走っていた。―――否、元親の意識のある伊羅の体が、である。
暗くぬかるんだ道だった。どうやら夕刻らしい。
元就の采幣が振り翳され、その後どうなったのか覚えていない。閉じた目を開けたときには道にたまった水をばしゃばしゃとはねさせ、走っているところだった。何を急いでいるのだろうと元親は考えた。
伊羅の足が、人気のない寺の門の前で止まった。
そのまま、案内も請わず、どんどん伊羅は敷地へ入っていく。寺男も誰もいない。廃寺だろうかと元親が考えたとき、その腕は伸び、敷地の木立の奥にある小さな堂の扉を、力いっぱい開けていた。
「―――おいッ!!!」
駆けどおしでからからにしゃがれてしまった声が、呼んだ。
呼ばれた“何か”が、暗い堂の中で蠢いて、むくりと起き上がる。伊羅は、―――元親は、息をのんだ。
狐神であった。
その口元は紅黒く染まっている。
蹲る足元に、誰のかわからぬ屍が、無造作に転がっていた。人に違いないことは元親にもすぐ分かった。暗がりの中でもわかる、その皮膚の沈んだ、鉛のような色合いから、息をひきとったばかりというわけではないことも。
「・・・何用だ。我は久々の“餉”を楽しんでおる。邪魔をするでない」
冷たい声が響く。伊羅の足は、一瞬止まったが、そのまま狐神の傍までつかつかと近づくと、その喉笛をいきなりきつく握り、掴み上げた。ぎゃっ、と声がして、狐神の体は床から僅かに浮いた。食いしばる歯も紅く染まっている。鋭い視線で伊羅を睨みつけ、手を放せ、と苦しげな呼吸の下から懇願にも似た声がした。
伊羅は、さらに握る手に力を籠めた。
「・・・俺の大事なその体を、好き勝手すんじゃねぇよ。還せ、俺に、あいつを」
「・・・何を怒る?」
ふふ、と、狐神は唇を舐めてにやりと笑った。
「それ、そこの男が、我にこの世の栄華を望んだだけのこと。我はそれを叶えてやっただけのこと。そして―――契約を履行しているのみ。死した後は、我に心の臓喰らわせるという契約を」
「・・・」
「我が殺したわけではないぞ。勝手に望み、勝手に死んだ者の臓を喰ろうて何が悪い―――」
「うるせぇッ!!」
叫ぶと、伊羅は俯いた。体が怒りか、悲しみか、ぶるぶると震えた。狐神が、哂う。
「仕方あるまい。貴様の精だけではもはや我は腹が減ってならぬ。・・・そうとも、我もあやつも、同じ者。貴様の助けたはぐれ神だ」
「・・・ッ」
「邑の者どもの供え物なぞ我には喰えぬ。貴様の教えた“情”・・・確かにそれは喰えても、喰ろうても、喰ろうても」
うっとりと、声が響く・・・・・・
「喰らえば喰らうほど、足りぬ。満たされているはずが、足りておらぬ。何故かわかるか?・・・“我”は、この身にひとりでは、ないからだ。あやつが満足すればするほど、我は乾く。我が満たされれば、奴が乾く。終わりなどない」



(・・・ひとりじゃ、ない?)



元親は、愕然とする。
「あれも、我。この我もまた、我ぞ」
(・・・サンデーと、・・・毛利のあるじと、同じ?)
「さぁ、どうする伊羅?この屍を貪る我を消滅させれば、御食(みけつ)の神であるあやつもろとも消えるであろう。しかし奴があり続ける限り、我もまた在り続ける。我のこの力望む者がいる限り―――それ、そこの者のように」
狐神は、転がる躯(むくろ)を指差して高らかに哂うのだ。
「寿ぐも神、祟るも神。貴様の目を奪った者とてそうであった。所詮、変えられぬ―――」





伊羅は、喉輪をはずすと、くたりと落ちてきた狐神の体を抱きしめた。
「・・・それ以上言うな。あいつが、正気に戻ったら、・・・きっと悲しむから・・・」
けれど、遅かったらしい。
伊羅の腕の中で、細い体躯は一瞬の硬直の後、やがてかたかたと震え始めた。伊羅は―――元親は、いっそう強く抱きしめるしかできない。伊羅、と、呼ぶ声がして、なんだと優しく応えると、狐神は顔を僅かに上げた。
視界の端に、もう動かない肉塊を見つけ、紅黒く染まった唇が、わなないた。
「またか。また我は、―――あやつに?変わっていたのか?」
「・・・秘密の呪法を試した者がいたって聞いて。探していたんだが、・・・俺の調べが甘くて・・・すまねぇ」
伊羅の袖に顔を埋めて、狐はくぐもった声で、我が悪い、すまぬと謝る。伊羅は、首を横に振った。
「謝ることはない。・・・“あいつ”の言うとおりだ。あいつもお前だし、お前は勿論、お前だ。どっちも本物なんだ」
ぎゅ、と、狐神の手が伊羅の着物を掴む。
「このような禍々しいことを好む者が我だと?・・・我はいやだ。我はあやつが嫌いだ。あやつなぞ消えてしまえばいいのに、・・・何故、そうなれぬ?我は望む我にならないのだ?」
伊羅は、なだめるように声をかける。
「・・・しょうがねぇよ。いろんなお前を、望む者がいる。お前は神だが―――神だからこそ。“人”の思いに動かされる。生まれたまんまじゃいられねぇよ。どっちもお前だ、俺は、否定はしない」
「・・・でも。でも。また我は、この後何度でも、永劫ヒトの醜い欲望に応え、対価を要求し、契約どおりに心の臓を喰らい続けねばならぬと?」
いやだ、と、また震える声が訴えた。
「こんな力、要らぬ。いつからこうなった?もう我も覚えておらぬ、・・・いつから、・・・戦にてヒトの命啜る悪鬼となった?伊羅、信じてくれ、我は元々こんな身ではなかった!!」
狐神は泣いていた。
「望んでいなかった。平穏でのどかな大地と水が我の棲み処だった。・・・我は他の神に負けて追いやられたのだ。あの言与主と同じだ、・・・人が我を望み、我を創る。我の体を欲望で塗りこめていく。ほんとうの我なぞもはやどこにもおらぬのか。どこでも、・・・望まれ、望みがかなわぬとなれば捨てられ、・・・負けて、耐えても、這いあがっても、堕ちるばかりだ。それでも望まれる限り、消滅することもできぬ。はじめから要らぬのなら、いづれ捨てるのなら、何故最初から捨て置いてくれぬのだ?」
思いあまって、狐は恐ろしいことを口にする。
「いっそ“ヒト”を根絶やしにすれば、我も自由になれるのか―――」
「やめろ!!!」
狐神は、びくりと震えた。伊羅もまた、ヒトであることを思い出したらしかった。
「すまぬ。すまぬ。伊羅。ひとくくりにするなぞ、なんと暴虐な―――
「いや、・・・たぶん、どっちかってぇと、俺らが悪いんだろうぜ。だから、お前が、そんなふうに他者を悪しざまに言う必要はない。お前がそんなふうに言うのは見たくない。なぁ?腹が減るなら、俺を喰え。俺の命を喰え。そして信じろ。みんながお前を必要としてる。・・・日が昇ったら、散歩に行こう。刈り入れ前の金色の穂が波打ってるんだ。お前のおかげだ。みんながお前に感謝してる。・・・誰もお前を捨てたりしない。・・・いや、」
伊羅は、呼吸をひとつ。
「・・・俺は、捨てない。ずっと、一緒だ」



「・・・無理だ」
狐神の哀しそうな声がする。
「我は人の心が作るもの。そなたは有限の命持つ者。所詮は相容れぬ」
「そんなことはねぇ!現に俺は今、お前をこうやって抱いてるじゃねぇかッ」
「伊羅、もういい。その気持ちだけで十分―――」
「馬鹿野郎!俺は、本気だ。あきらめねぇぜ。駄目だったってんなら、何度でも、やってやる。ちっせぇ望みだろうが。俺は、お前と一緒に、同じ時間を歩いてみたいだけだ。お前の意志を、ひとりぼっちにさせたくないだけだ。祀り、祀られるんじゃなくて、対等に―――笑って、喧嘩もして、手をつないで、別れたり近づいたり、そうやって同じ時間の向こうへ行きたいだけだ。・・・俺は、お前と、ずっと一緒にいたいんだ」
「―――ならば」
狐神は、ふいに優しい笑顔になった。
「我に、人になれと言うか?伊羅?」
伊羅は、困ったように俯いた。
ふふ、と、小さく狐神は笑って、涙を袖で拭いた。
「なるほど、人にか。いつか叶うだろうか・・・今は、無理でも・・・いつか」
「おう。そんときまで、俺はずっと待っててやるから」
「・・・なにを・・・また、できもせぬことを」
茶化すような声に、伊羅は口をとがらせる。
「馬鹿言え。俺はいつでも本気だ。いつだって、誰かが望んだことが形になるんだ。どんなちっせぇ一歩でも。俺は、そう信じてる」
「・・・そなたらしい」
狐神は、甘えるように伊羅に飴色の頭をすりよせた。
「・・・ならば、我は、貴様を信じて望んでみるとしよう。いつかそなたと同じ時間に、同じ大地を踏みしめて、立てるように―――それまでは、せめて」
暗がりの中、ぽうと金の光が灯っていた。
「せめて、この我の姿をより望まれるよう、つとめてみせようぞ」









元親は、思い出していた。
“元就”が、いつも言っていた言葉。伊羅を待っているのだ、と。
でも、伊羅は人であった。元親は、元親であって、伊羅ではない。
たとえ二人が実は同一人物――生まれ変わりだとしても、伊羅の人生は一度途絶えて、元親は元親として生きている。だから、最後まで元親は、“元就”の前で伊羅にはなれなかった。
―――伊羅が言った、“ずっと一緒に”という意味は、そんなことではないのかもしれないと、ふと思う。
広い意味でならば、伊羅の意志が、綿々と続く時間の中で、誰かに伝わり、誰かが狐神を忘れないことにほかならず。
伊羅と狐の二人だけの世界でなら、それは、いつか、互いの意志が再び会うことにほかならず。
どちらの意味も、さしているのだと、漠然とだけれど元親は思う。
(そういや、・・・名前が、)
元親は、気付いた。
この夢の中で、一度も伊羅は、狐神を名で呼んでいないのだった。
いや、呼んでいるのに、元親がそうと気付いていないだけかもしれない。探し物をするように、元親は伊羅の記憶を辿る。
糯を射て、かわりに狐神にあたったこと。
獣の血溜りから、稲が生えた。誰も視えず、ただ伊羅だけが視えた―――無垢な彼の、本当の姿を。ひとりぼっちで、遠い道を旅して、辿りついた―――
そのとき、名付けた・・・





「――――」





三度、風が吹いた。


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