(33)


元親の目の前で、宵闇を背景に、炎の紅が天を焦がして火の粉を散らしていた。逃げまどう人々の怒号と悲鳴が交錯する。その規模と衣服から、身分の高い者の館であったことは明白だった。
ただ茫然と炎に包まれる館を見つめる元親の目の前に、狐神が姿を現す・・・
「これでよかろう?」
美しい面は残酷に笑っていた。拳を握りしめる伊羅が、僅かに頷いたのを元親は感じた。
狐神は、また綺麗な笑顔を見せた―――途端に、がくがくと震え始め蹲る。駆け寄った伊羅を振り仰ぐ顔は、今度は涙にぬれていた。
「・・・何故このようなことを・・・」
滂沱と涙しながら、狐神は問う。伊羅はゆっくりと首を横に振った。掠れた声が、お前を守りたかった、とだけ告げた。その言葉に、狐は声もなくまたひっそりと泣いた。



大陸から来た力ある神がいると聞きつけて、朝廷から使者が来たのはつい先日だった。勅命と言いながら、その件を実質掌握しているのはある有力貴族と、彼らがお抱えの祈祷師たちだということは伊羅にはすぐ分かった。
国家鎮護に力を貸せという。これはただ我らの氏神なれば、畏れ多いことであると丁重に断ったものの、当然貴族たちの怒りを買った。
手段を選ばない傲慢さで、彼らは祈祷師たちに命じ狐神を拉致した。彼らが必要としていたのは、御食の神としての狐神ではなく、彼がひた隠し忌み嫌う、「もうひとりの姿」だった。すなわち、願い叶えるかわりに対価として命もしくはそれに準ずるものを要求する禍つ神である。
けれど日ごろ御食の神に抑え込まれていた彼の半身は、喜び勇んで貴族たちの前に姿を現した。貴族たちは政権の奪取を目論んでいた。そのために力が必要だった。
伊羅が乗り込んだとき、すでにおぞましい儀式が進行していた。されこうべの器に盛られた紅い液体を見て伊羅は―――元親は叫んでいた。
こんなやつらの言うことを聞くな、と。
「俺の精を喰えと言ったはずだ」
「足りぬ、と、我も言った」
狐はすました顔で、けれど甘えたように言った。
伊羅は、手に持つ剣を握り締めた。
「だったら―――俺の心臓をやる」
狐神は泣きそうな顔をした。それ以上言うなと元親が制止する前に、伊羅の口は言葉を紡ぐ。
「お前に命じる。天下に反乱企てるこの者たちを滅ぼし焼き払え。そしてお前も此処からその身を解放しろ」
「対価は?」
「・・・対価はこの俺自身だ、・・・そこにある腐りかけた血肉よりよほどいいだろう、俺の命と、死後の心臓のほうが」
紅い唇が、ぺろりと舌舐めずりをしたのを元親は見た。
「あぁ、そうだな。・・・きっと美味に違いあるまい」
狐神の面は、半分笑って、半分泣いていた。










瞼を開けたとき、すすり泣くような声がした。
ひとつではない。押し殺した密やかな囁きはいくつもいくつも、波紋のように伊羅の―――元親の鼓膜を穿つ。
(もはや長くないであろう)
(惜しや、まだ若い身でありながら病に倒れるとは)
(片目をもがれながらもよく民に尽くしてくれたというのに・・・この仕打ちは非道いものよ)
(神祇は寄り代、・・・仕える神に命舐られ啜られても仕方あるまい・・・)



「―――」
伊羅が呼んだ。元親は瞬きをした。さざ波のようなたくさんの声はすぐ枕元から聞こえてきたと思っていたが、実際は誰もおらず、ただそこに座っているのは見慣れた水干姿の狐神だけだった。
ふわりと広がる袖で顔を覆って、彼は身動きひとつしない。伊羅がまた、呼んだ。
「おい。なに、泣いてやがる」
苦笑めいた声かけに、ぱっと狐は袖をおろした。
「泣いてなぞ、おらぬ」
声は震えていた。伊羅は―――元親は、じっと見つめる。狐の目元はひどく擦れて、腫れて、紅くなっていた。
「ただ、悔いている。それだけだ。我が身の存在を、・・・おぞましいと、ただそれだけを」
「馬鹿言うなよ、お前。自分を否定するもんじゃねぇよ。お前のおかげで助かった奴らがこの土地にはたくさんいるんだぜ」
「―――我が貴様の命を喰らったのだ!何故怒らぬ!?」
そうして、床に横たわる伊羅の体に縋りついて、懇願する。
「伊羅、願え―――我の消滅を。どうせ貴様が死ぬるが避けられぬなら、我も滅びる。それでよいのだ」
「・・・いいわけねぇだろ。何度も言わせるなよ、俺は、“あいつ”も含めてお前だと思ってる。お前のどの部分も否定する気は無い。お前が消える必要はない」
「伊羅、頼む・・・このままでは我は、・・・そなたの心臓を喰らわねばならぬ」
伊羅は、手を伸ばすと狐神の頭を撫ぜた。
「いいじゃねぇか。お前が喰らってくれるんなら、俺はお前の一部になるんだから。・・・それに」
伊羅が静かに笑う。
「・・・ある意味、自業自得だ。もう一人のお前の力、あの場で分かってて使ったのは、俺だ」
「それとても、我を権力者たちに利用させまいと!そなたの本意ではない!!そなたはただ我を守ろうと・・・」
「そうとも。だからよぅ、俺は、別に、悔いちゃいねぇんだ。お前が哀しむのだけは辛いが、けど、最善の選択したと思ってる。・・・だから泣くなよ、なぁ?」



伊羅が眠ってしまったあと、狐が呟くのを伊羅の中の元親は確かに聞いた。
嫌だ、と。
失うことが避けられないなら、せめてそれを見ずにいたい。
忘れてしまいたい。閉じ込めてしまいたい。たとえ今の自分でなくなっても―――
そうして、金色の糸がどこからともなく現れる・・・





















「・・・我は、己の半分を封じた」





ふいにすぐ近くで声がして、元親は顔を上げた。
目の前に、狐神が立って見上げてくる。元親は驚きに身動ぎもできず、ただぱくぱくと口を開けたり閉じたりした。それが面白かったのか、以前のように狐は、俯いて口元を袖で隠し、小さく笑った。
「お、・・・俺が、誰か、わかるのか?“元就”」
縋るように問い掛ける元親に、狐神は静かな、柔らかい笑顔を向けた。
「勿論。・・・我の大事な“元親”」
名を呼ばれて、元親は喜んだが、同時に急速な焦りと不安に襲われる。
「―――お前、・・・お前がいままでの夢、見せたんだろ?まだ消えてないんだろ?お前は今、何処にいるんだ?」
飴色の頭が、ゆるく左右に振られる。
拒絶ではない、―――けれど、強い意志が垣間見えて元親は寂しくなった。手を伸ばすと狐は同じように手を差し伸べた。互いの指が絡まったが何処か虚しく空を手繰るような感覚に、元親は歯を食いしばると俯いた。そんな顔をするな、と声が降る。
「そなたの見たものがすべてだ。・・・我は孤高をきどるただの落ちぶれた神・・・捨てられ仔よ。どれほど祀られようと所詮は独りだと、・・・伊羅の言葉すら疑っておった、・・・だから罰を受けた。伊羅の命をせしめたのは我、伊羅を失ったのは我自身のせい。そして我を封じたのは誰でもない、我自身」
ゆっくりと、瞼を閉じて息をつく。
「半分に千切れ、長い眠りのうちに、自分の都合よく記憶すら書き変えた。伊羅を待つと言いながら、我は伊羅が来ると信じてすらいなかった。・・・なのに」
指先が、つうとまっすぐに、元親を指す。
「貴様は来た。伊羅の血を持って、・・・そのくせまるで記憶は持たず。他人のくせに同じ顔をして。そうとも他人のくせに!当たり前のような顔をして我の繭を解き、土足で踏み入りおって」
急に変わった狐神の剣幕に、元親はうろたえた。
「お・・・怒るなよ!俺はそんなつもりじゃ―――」
「怒るが当然だ。せっかくほとんどなにもかも忘れて眠っていたというのに・・・来るはずないと思っていたのに。たかがヒトのくせに、・・・なにもできぬ矮小な生き物のくせに。堂々と、我を、揺り起こしおった」
―――優しい声。元親は、金の糸を解いた日を思い出した。狐神は、以前の“元就”の表情になっていた。
「貴様は伊羅ではない。・・・でも、伊羅の意志が在って、そして貴様は我の元に来たのだろうな。だから我は、嬉しかった、・・・そして楽しかった」
空を仰ぐ狐神の横顔を、元親はじっと見つめていたが、やがて視線をそらせてぼそりと呟いた。
「・・・伊羅は、・・・あいつ喜んでた、あんたといられて。たとえあんたが何者でも」
「―――」
「だから。“ほんとの”あんたが、・・・半分になっちまって、あいつのことも忘れちまって、哀しんだろうぜ。伊羅があんたが眠ったあとどうしたか俺には知るすべはないが・・・きっと、あんたを元のひとつにするために必死に動いたんだろう」
「・・・そうであろうな。だから我は、なおのこと。・・・己を半身に裂き続けて閉じ込めておくしかなかった。伊羅の屍を貪るくらいならそのほうがよかった、・・・後悔はしておらぬ」
狐は、どこか困ったような僅かな笑顔を浮かべた。



「・・・何度か、元の記憶が正しく戻りかけるたびに、棲み処であるそなたの命にまで手を出しかけておったが」
元親は、以前“元就”が豹変したことを思い出した。
「幸か不幸か、くろがねの橋は未だこの地にかかっておらぬ。・・・皮肉なことよ。言与主の呪いのおかげで我は、同じ過ちを犯さずにすんだ」
その言葉に、元親は、閃いた。
元就が四国に初めて一緒に来たとき、とても嫌な顔をしたこと。消える前に呟いた言葉。
そして、伊羅に凄まじい怒りをぶつけ飛び去った土着神とのあの一連のやりとりが、伊羅の体から伝わった痛みとともに蘇って、思わず片目を押さえる・・・
(待てよ、たしか、・・・俺の一族が代々祀る旧い神社が、・・・御神体の名が・・・)
―――糸がつながったとき、元親はいっそ嬉しさに震えた。かの神より自分の一族への呪いの言葉も同時に思い出したが、狐神が消える原因が理解できたことのほうが今の元親には嬉しかった。
「お、おい、元就!今すぐ、戻って来い。俺、一緒に頭下げてやるから・・・あの神さんに・・・社(やしろ)建て替えて、お前のこと赦してやってくれって。俺の片目、伊羅と同じようにもっかい差し出したっていい。どうせ今までお前に貸してたんだからよ、だから、一緒に」
それを聞くと、狐神は驚いたように目を瞠ったが、やがてふふ、と袖で口元を隠してちいさく笑った。いつも見てきたあの笑顔だった。
貴様の心根に感謝する、と声が漏れ聴こえた。
「もうよい。・・・此処にいる我は“欠片”だから」
以前と同じことを狐神は言った。あきらめている―――というよりは、すべて納得し受け入れている様子に、元親は、愕然と目を瞠る。
「それに、神としての我は消えぬ。誰かが我を覚えている限り消えぬ。陰陽どちらの面も己の姿、甘んじて引き受けよう。我は元のひとつに戻ろう。あとは、・・・貴様と、“あの者”がどうするかだ」
誰を指しているのか、元親には分かる。けれど。
「―――おい、元就!それって、じゃあ、・・・“お前”は?やっぱりお前は、戻ってこないのか?俺のとこに戻っては―――」
“元就”は、そっと元親の瞼に口づける。
「・・・そんな顔をするな。我は“居”る。“我”を、探しに来るがいい。迷いながら必死に歩く“我”を」
元親は、じっと狐神の眸を見つめた。
「・・・伊羅を信じてなかったって、さっき言ってたが」
その声に、“元就”は、顔を上げる。
「でも、お前は、眠りながらずっと願っていたんだろう?だから・・・だからサンデーや、毛利のあるじが、いるんじゃないのか・・・」
応えは無い。
影すらも薄れる。
―――元親は、腕を伸ばし、声を限りに彼の名を叫んだ。



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