(35)


雨の中を、悠然と白い髪の巨体が往く。
あたりの木々は赤に黄色に染まっている。濡れそぼる紅葉は水をしっとりと含みそれはそれで絵に描いたように美しく、元親は感嘆の声を時折あげながら、まっすぐに落ちてくる雨の中を歩いていた。また秋だな、とふと思う。
「―――御免」
やがてとある寺の山門について、元親は声を掛けた。下働きの者が出て、恐る恐る長身の元親を見上げる。
「ご住職はおられるか。以前世話になったことがあってな、―――四国の、弥三郎だと伝えてくれねぇかい」



唐突な来訪だったが、すっかり年老いた和尚は久々の再会をとても喜んで出迎えてくれた。大きくなられたと言われて、元親は照れくさそうに、よせやいと笑った。此処で以前泊ったときは父も一緒だったのだとふと思い出した。あの頃と同じ寺の離れにある客間に遠されたが、あの頃とほとんど何も変わっておらず、元親は自分が子供に戻ったような不思議な気分にとらわれ、―――鴨居に頭をぶつけてようやく我にかえった。
出された茶を飲み、しばらく思い出話や近況報告をしたあと、京へはなんの御用向きかと静かに和尚は訊いた。元親の現在の立場を把握したうえでの質問なのだろう。
元親は苦笑すると、白髪をがしがしとかきまぜた。
「・・・武器弾薬の買い付けにな。近いうちに色々面倒ごとが起こりそうで」
それだけを告げると、あとはぼんやりと障子の外の庭を見つめた。
・・・実はもっと重要な目的があるが、ごくわずかの側近たち以外には言っていない。
和尚は徐に立ち上がると、奥の間からなにごとか運んできた。元親はひょいと覗きこんで思わず顔を綻ばせた。
子供のころ見ていた絵草子だった。懐かしそうにいくつか手に取ると、頁をめくっていく。その中のひとつ、怖がりの元親が、怖がりながらも喜んで読んでいた化け物の本があった。ふと、手が止まった。
百鬼夜行の絵とともに白い狐の絵。
「・・・最初に狐を教えてくれたのはあんただっけな、和尚?」
笑うと、和尚もにこにこと、そういえば若はとても怖がっておられましたなと懐かしそうに応えた。元親は頷いた。
思えば、最初に狐神の二面性を聴いたのも此処でだった。豊穣の神でありまた死神であると和尚は弥三郎に言ったではないか。何事にも二面、あるいはそれ以上の姿があるのだと話して聞かせてくれていた。
物思いに耽っていると、ふいに、尋ねられた。
「―――若、もう目はよろしいのか」
元親は、きょとんとして眼帯を押さえた。少しばかり笑顔になる。
「あぁ、・・・大丈夫だぜ。少しなら見えるんだが、保護のためにもこいつをつけてるんだ」
「さすれば、以前言っていた狐めは―――」
「あぁ、・・・あのあとしばらく取り憑かれてたんだがよ。なんだかんだあって、消えちまった」
元親は、さらりと大したことでもないような口調で言った。和尚は柔らかく笑った。
「それはよかった、・・・とは、あまり思っておられぬ御様子ですな」
元親は肩を竦めて笑った。
「まぁな。後悔してることは色々あるが・・・いや、いいんだ」
ゆるく、首を左右に振る。
「・・・もう終わった話だからよ。今はやらなきゃならねぇことがある」
そうして再び、障子の外を見る。
雨は、少し小降りになっている。和尚が、通り雨じゃ、じきに止むであろうと言った。元親は、それを聴いてひとつ頷いた。



もう一か所、目的の場所―――伏見に着いたときは夕方になっていた。
いつかのように鳥居の洞道をくぐっていく。辿りついた境内も以前と変わらず静けさに満ちていた。元親が金色の糸を解いた場所も、狐の像もそのままだった。
けれど、誰もいない。
当然金色の紐も見えず、あの狐神が顕現するわけもない。
年老いた宮司が社務所から出てきた。不思議そうに何か御用か、と尋ねる。以前会った者と同じ人物だと気付いて、元親は、以前より年老いた彼と、此処に来たときまだ元服前だった自分がすっかり今は変わっていることにまた気付かされ苦笑した。
(何年経った?―――10年?もっと?)
「・・・少しばかり、奥の邸宅を借りたいんだが」
申し出ると宮司は怪訝な顔をした。その手に袋に入った金子を握らせると、ご無礼を申し訳ないと言いながら自分の名を名乗る。
すでに長會我部という家は京でも名を知られるほどには大きくなっているせいか、宮司は眼を丸くして少し後ずさった。
「人目を憚って話し合いの場を持たなきゃならなくってよ」
政治向きの密談なのだと気付いたらしい、宮司は黙って頷くと広い敷地の奥へ歩き始めた。
鬱蒼と繁る森の片隅にある邸へ案内される。一晩好きに使ってよいと言われて元親は頷いた。



つき従う側近たちに部屋を割り振り、護衛の指示をする。忍びを呼ぶと小さな書きつけを渡して、指示をした。
承知すると、忍びは消えた。
そこまでを終えて、元親は溜息をついた。
「・・・さて、おいでなさるかよ?」










夜更け、元親の休む部屋へ部下が声をかけた。見慣れぬ女が一人来ています、という。
元親は、白髪をかきまぜながら起き上がり、首を傾げた。
「―――っかしいなぁ?呼んだのは女じゃねぇんだが、・・・まぁいい。通してやれ」
「御意」
通された女性は目深に垂れ衣を頭から被っており、顔は見えない―――元親は、けれど苦笑した。
「随分用心深いこった。中国のあるじともあろうモンが」
「・・・」
「人に頼みごとして京まで呼び出しておいて、自分はそれかい。さすが二つ名どおりの詭計智将っぷり、ってか?」
「―――用心に越したことはない。何処に誰がいるとも限らぬ」
澄んだ、静かな声が響いて、元親は押し黙った。そっと手元で拳を握りしめた。聞き覚えのある声、懐かしさにめまいがしたが、黙っていた。言っても詮無いこと、・・・相手は元親を知らないのだから。
静かに衣が取り払われる、・・・若い男の顔があらわになる。
端正な顔になんの感慨も浮かべず、頭も下げない。じっと元親を見つめ、
「―――初めて会うな、四国の鬼よ」
元親は、ひとつ目で食い入るように相手の―――毛利元就の顔を見つめていた。
初めて、と言われたその言葉が虚しく胸に響いたが、黙ってひとつ、頷いた。
「で、・・・中国の主が、敵国の主である俺になんの用だ?毎度毎度、瀬戸海近辺では俺らの邪魔してくれてるくせによ。まさか詫びをいれたいとかじゃねぇだろうしなぁ?」
大袈裟に腕をひろげ、冗談めかして言ってみたが相手は眉ひとつ動かさない。
元親は、やがてやれやれと溜息をわざとらしくついた。
「・・・ふん。ま、だいたいは分かってるつもりなんだがな。俺から言っていいか」
「・・・」
「明智をやるんだろ?」
その言葉に、少しだけ空気が揺らいだ。・・・ご明察畏れ入る、とだけ応えは返ってきた。
元親は脇息に凭れかかると、口元に手をあて、じっと考え込んだ。―――やがて。
「俺の一族は、明智の一族と多少なりかかわりがある。あんたが挟撃されるのを避けるために、俺に明智から救援がきた場合見ぬふりをしろってことか」
「・・・織田から蝙蝠と呼ばれておるわりに、頭は回るらしいな」
痛烈な皮肉に、元親よりも側近が反応したらしい。襖の向こうから漏れる敵意にも、毛利の主は冷静だったが、元親は低く笑うと、おい野郎ども、ちったぁ殺気おさえとけよと声をかける。そうしておいて、毛利に向き直った。
「別に、俺自身はあの変態野郎と懇意にしてるわけじゃねぇ。あいつが滅びようが知ったこっちゃねぇが、・・・あんたの申し出に唯唯諾諾と従う義理もねぇな」
「・・・何故?」
「明智とあんたが共倒れしてくれりゃこっちは丸儲けだ。わざわざあんたと同盟密約を結ぶ必要もない。こっちにもそれなりの得することがなけりゃなぁ?」
「ふむ。交換条件か」
毛利は薄く笑った。どこか乾いた笑いだった。やはり我が出向いて正解か、と呟く。
「・・・では。当面の不可侵条約締結、および共闘の同盟ならばいかがか」
「・・・」
「我は天下に興味はない。毛利さえ安泰であればそれでよい、が、貴様はそうでなかろう」
「・・・」
「貴様が天下狙う折は、今回のかわりに我らが貴様の後背を守ろうぞ。それでどうだ」
「・・・ふん」
鼻で笑っておいたが、元親は少し胸の奥が苦しくなる。



(天下か)
(・・・本当に、俺は、それが欲しいのか?)



「・・・ぬるいな。あんたがそのときに、本当にそうしてくれるかどうかわかったもんじゃねぇ。俺はそんなもんは別に期待しちゃいねぇよ。―――俺が望むもんを、あんたが用意できるってんなら話は別だが」
毛利は、小さく舌打ちしたようだった。
「欲深い海賊よ。・・・何が望みだ」
「さっきのあんたの申し出に加えて、毛利の銀山の権利を・・・そうだな、半分とは言わねぇ、三分の一」
毛利の眉宇が顰められる。
「・・・足元を見おって。・・・まぁよかろう。ただし期限付きだ」
「よしよし、―――おっと。口約束は困るぜ。ちゃあんと書面にしろよ。おい、誰か、書くもんと例のあれ、持ってこい」
部下に言いつけ、元親は契約書を持ってこさせた。手際の良さに、さては貴様最初から用意しておったな、と毛利がにやりと笑った。元親はすました顔で自分の花押を入れる。
「ほらよ、あんたも」
毛利は渋い顔をしながら、書面に目を通すと、ひとつ溜息をついて筆をとり、署名し、花押を書く。
紙をひったくると、元親はにやりと笑って、上出来上出来と呟いてそれを家臣に渡した。
「―――さて、と。あともうひとつ」
元親の声に、俯いていた毛利は顔を上げて元親を睨んだ。
「一体なんだ。・・・言っておくが、領地は一石たりともやれん。それならばこの交渉は決裂よ。先ほどの書面も破棄だ」
「まぁ待て」
元親は、立ち上がると毛利の傍に寄った。毛利方の護衛が(襖の外の)今度は殺気だった。何もしねぇよ、命とったりはな、と悠然と歩みよりながら、元親は毛利の前にしゃがむと、その細い顎をつまんで自分のほうを見させた。
「・・・似てるなぁ」
呟いて、元親は苦笑した。
似てる、は、間違いだ。この体は同一のはずだったから。中身は別人だったけれど・・・
「―――無礼者」
声がしてぱしんと手を弾かれ、元親は肩を竦めた。
「・・・俺の欲しいもんは、あんただ」
さらりと言ってのける。
毛利はあからさまに不機嫌な顔をした。
「・・・我を人質にと申すか?それは無理だな。それならば此処で貴様を討ったほうが早いというもの」
「おいおい、馬鹿言うんじゃねぇよ。お狐様の神社だぞ此処は。罰あたりな奴だぜ」
その言葉に、毛利は呆れたように小さく歪んだ笑みを浮かべた。
「ふん。・・・貴様、必要とあれば寺だろうが社だろうが関係あるまい?聴いておるぞ、領内の寺で敵をだまし討ちにしたそうではないか」
「へぇ、―――さすが、よっくご存じで」
元親は頭をかいて、天井を見上げた。



あれから時が流れて・・・元親も、以前の自分とは随分変わってしまったことに気付いている。
純朴に自国を守りたい気持ちは変わらないが、そのために取る手段や策略は時に卑劣なことも多々あり。戦の道は血塗られている、と以前あの狐神が呟いた言葉を噛みしめる日が多くなった。
四国だけではなく外を目指さなければならない状況に少しずつ追い込まれていく。・・・一方で、以前のように、ただからくりをつくって好きなように船に乗り、地図を眺め、見知らぬ国を渡り歩きたい願望もある。そういうふうにできればいいと思いながら―――日々天下の情勢に目を光らせている。息ができなくなりそうになる。
そういうときに、消えてしまった二人をふと思い出す。
元親もまた、主君としての自分と、本来の自分の間を揺れ動く。逃げるわけにはいかず、・・・
何故天下を目指すのかもわからず。
何故闘うのかもわからず。
何がほんとうに欲しいのかも―――



「・・・俺の欲しいもんは、・・・あんただ」



無意識に、言葉にしていた。


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