(36)


「俺が欲しいのは、あんただ」



元親の言葉に、毛利は、訝しげに元親を見上げた。
元親は毛利の手を掴む、引き寄せる、・・・抱きしめる。
一連の動作は、多分無意識に行われたのだろう。
驚き体を強張らせ見上げてくる、腕の中の毛利の顔を、元親は強制的に自分のほうに向けさせ、
―――気づけばその唇に噛みついていた。
毛利から一瞬殺意に似たなにかが湧きあがるのを元親は感じたが、その唇を貪ることをやめなかった。
やめられなかった、と言ったほうがいいかもしれない。
このまま懐刀で(毛利が袷に忍ばせてあることは最初からわかっている)刺されるだろうか、と危険が脳裏をかすめたが、いったん堰を切った衝動は止まりそうもなかった。無心に元親は毛利の唇を食んだ。数年分焦がれ求めた懐かしい甘さがした、・・・おそらく気のせいだとわかっていても嬉しかった。



「・・・こういうことだ。俺は、あんたが欲しい」



やがて唇を名残惜しげに離し、元親が三度その言葉を口にする。どういうわけか抵抗ひとつしなかった毛利は冷たい双眸で元親をじっと見つめた。
「・・・ありていに言やァ、あんたを抱きたいってこったな」
意味が通じていないのかと、元親があらためてさらりと告げると、
「ふん。馬鹿にしおって。下衆が・・・」
毛利は喉の奥で、低く、どこか馬鹿にしたように笑った。
「貴様が望む、交換に値するものはそれで全部か」
「おう。・・・相互不可侵同盟、銀山の権利の一部、・・・そしてあんた、だ」
元親がゆっくりそう言うと、毛利の目は最初と同じように冷たく色を消した。
「・・・よかろう」
あっさりと諾という応えがかえってきて、元親は一瞬拍子抜けした。
隣の間から呻き声に似た音が漏れて、やがて様子をうかがっていたのだろう、畏れながら、と震える声がして毛利の家臣が頭を床に擦りつけたまま襖を開けた。
「無礼者めが。誰が許した、下がれ」
毛利は部下を一瞥もせずそう言った。冷徹な声に元親は一瞬険しい顔をした。
家臣はけれど退かず、最後の条項は別の者を差し出しますゆえどうかお赦しをと言う。元親がよく見れば、薄暗い続きの間の家臣たちは、皆同じように頭を下げているのだった。
さてどうしたもんかと元親が考えているうちに、毛利はつかつかと家臣たちに歩み寄ると、家臣の腰にある長刀をやおら抜く。あっと元親が声をあげる間もあらばこそ、どん、と鈍い音がして、
―――敷居に、深々と刀が刺さり、世界を隔てる意志のように毛利と家臣たちの間に聳え立った。その場にいた全員が息をのんだ。
「これより先、誰も入ること能わず。我のやることに口出し無用」
「しかし、元就様」
「―――体は、ただの肉塊。こんなもので毛利と中国の安寧が買えるならば安いもの。散々夜叉に喰われてきた身、今更鬼に喰われてもどうということもあるまい」
それから、元親を振り返る。元親は乾いた笑みを浮かべた。
「・・・同盟成立、だな」
手を伸ばすと、女物の帯を掴んだ。毛利がわずかに唇をかむのが見えたが、元親は、素早く毛利の体を横向きに抱き上げると、奥の間に悠々と移動した。部下たちに、当分誰も近づくなよ、と大声で叫んで。






床の上に、どさりと毛利の体を投げた。うまく受け身を取れなかったのか、小さく舌打ちが聞こえて、元親の足元に蹲り毛利は見上げてくる。先ほどはさばけた口調で達観した様子だったが、明らかに今は敵意と忌避の意志と、そして若干の怯えが感じられて元親は苦笑した。
そのまま腹這いにさせ、黙したまま手を伸ばすと毛利の女物の着物をはぎ取っていく。元親が触れるたびに毛利の発する歪んだ空気は重くなり、元親はそして哀しくなる。表情を見せるのがいやで、相手の表情を見るのも嫌で、元親は黙々と俯いたまま手だけを動かす。毛利も同じなのか、一言も発しないし、面を敷布に突っ伏したままだ。
(・・・何やってんだ、俺は?)
ふと我に返って、元親は手を止めた。
実のところ、毛利の体を抱く大義名分はある、―――つもりだ。
そもそも元親が急にあんな条件を出したのは理由がある。
元親は、不可侵同盟など信用していない。毛利という男が(不在だった空白の期間はさておき)どのような手を使い中国の覇権を拡げ維持してきたか、元親はすぐ海を挟んだ対岸の国からつぶさに見てきたつもりである。詭計智将とはよく言ったもので、その細やかな全神経を糸のように張り巡らせ、中国はまわりの国を次々と飲み込み、あるいは共倒れさせたところを喰い破り、今の大国となった。元親だって人のことはとやかく言えないが、それでも眉をひそめる話は多い。
だからこそ、信用なぞしていない。
さきほど交わした書面もきっと近いうちに破棄されることだろう。一方的に。あるいは元親からそうするかもしれず。
銀山の権利もどうでもよいことだ。元親の目的は、銀が目的だと見せかけて人夫を―――実際は兵士を―――送り込み、その土地を足掛かりに、来るべき毛利との(おそらくは瀬戸海での)戦のとき、挟撃をすることにある。感づかせないため、その直後に申し出た「毛利の体を抱く」という突拍子もない事実が、おそらく功を奏している。衆道は武家の嗜みとはいえ、初対面の敵国の主に申し出るという奇抜で傾いた、ある意味いい加減で刹那的な人物―――と、そう思わせ油断させておくことが目的だった。
毛利を抱くにも、実際に相手に苦痛を与えるのもまたよし。そうでなくても威嚇にはなる。拒まれても別によかった。元親としてはありとあらゆる手をうっておく必要があった。
(・・・四国を守るためだ)
毛利がやがて畿内との国境に兵を出すことはわかっていた。そうなったとき、四国から中国へ急襲されないために同盟を持ち掛けてくることも。そしてそのあと、あっさりと敵として矛先を四国へ向けてくることも。元親は準備をしておかねばならず、騙し合いで後れをとるわけにはいかなかった。



(・・・そのはずだってのに)



密談の誘いがきたとき、元親はつとめて冷静に、来るべきときが来たと考えた。この後ほんのしばらく偽の和平が続き、・・・最終的には決戦となる。
つまりは、中国との戦の始まりだった。
国主として部下たちに考えを伝え、今回の場を設けた。毛利が来なければそれはそれでよかった。毛利が明智攻めを始めたとき、当初の予定どおり中国を急襲するだけのことだ。それがわかっているからこそ、毛利は危険を冒してこの場まで出向いたのだろう。そして元親の考えどおりにおおよそ事は進み、今元親は目の前に毛利を見下ろしている。
(・・・はず、だった、ってのに!ったく)
元親は苦い笑いを飲み込んだ。
あれから何年もたって、元親もただの若当主ではなくなった。国と家族と野郎どもを守るためにはどんなことでもしなければならず、その覚悟もある。だから今日も、きっと冷静に対峙できると自分を信じていた。
(・・・先に、和尚に会ったり、神社行ったりしたのが間違いだったか?)
手の動かなくなった元親を、毛利は訝しげに見上げる。元親はその、ちらりと自分を見上げる切れ長の目を見つめ返す。
「あぁ、・・・ほんっとに、似てやがる・・・」
そう呟いて、ゆるく頭を左右に振った。毛利はなんのことかというふうに眉宇を顰めている。そんな仕草もよく似ていて、元親は思わず瞬きをした。
なにも覚えていなくても、同じ体には違いなく。
まったくの別人だとしても、・・・その表情はあまりに似ていた。
毛利にとって“初めて”会う者に、彼は犯されようとしていた。毛利はつねに、自分もまた国を守るひとつの駒だと言う。だからきっと今日のこの行為も、忌み嫌いはしても躊躇しなかっただろう。元親も、相手をそう扱い、同時に自分もまた自我を捨てそうあろうとしている。
(・・・それでいいのか。それじゃ、こいつのやり方とまったく同じじゃねぇのか?)
「・・・貴様、なにをしている。さっさとことを終わらせろ」
苛ついた声が低く響いた。元親は我に返った。
「―――すまねぇ、つい」
謝ってしまって、ふと可笑しくなった。
可笑しくなると、頬が緩んだ。殺伐とした喰いあいのような陰惨な行為が行われる前だというのに。目の前の男が、馬鹿にしたように、自分から言い出しておいて勃たぬのか、とせせら哂う。それすらどうにも可笑しくて、すこし哀しくて、元親は思わず噴き出した。
一回笑いだすと、止まらなくなった。
元親は、呆気に取られている毛利を前に、瞼を押さえて声を殺して、肩を震わせしばし笑いつづけた。



「・・・貴様ッ、・・・我を馬鹿にしておるのか・・・」
やがて怒りの滲んだ声が聴こえて、元親はようやく笑いをおさめた。
いつの間にか毛利は元親の跨っていた脚の下から這い出て、目の前にぺたりと座り、乱れた襟元を両手で押さえている。睨みつけてくる視線は、先ほどまでの冷たい憎しみばかりのものではなく、どこか人間らしいものがあった。
うろたえている、というべきか。
計算どおりにことが運んでいないからだろう。元親は気づいて、そういえばあの狐もそうだったなぁと柔らかく笑みを零した。じっくり思い出したのは久しぶりだった。
「どういうつもりだ。我を哂いものにするのが目的だったか。・・・ならばもう目的は果たしたであろう、我は往ぬる」
「おい、おい!まぁ待て、ちょっと待て。笑って悪かったけどよ。別にあんたに笑ったわけじゃなくて・・・」
元親は慌てて引き留めながら、やっぱり微笑が零れるのを止められない。
時間が戻ったようだと思った。
毛利の髪を撫ぜてやる。ぴょこりとあの小さな狐の耳があらわれやしないか、と期待もしてみた。当然そんな現象は起こらない。
けれど、ぽかんとした表情の毛利は見られて、元親は満足げに頷いた。
腕を伸ばすと抱きすくめ、そのままごろりと布団に横たわる。ぐ、と毛利の体にまた緊張が走るのがわかったが、元親は抱きしめたままその髪をゆっくり撫ぜ続ける。
(・・・ちぇっ。なんか、嬉しいなぁ)
前にもこんなことがあったな、と元親は思った。嬉しくてうれしくて、そう言いながら、じたばたして、挙句になにもせずに寝てしまった・・・
それでいいのだと。すとんと、なにかが、胸の奥に優しく落ちた。



「・・・よし。なんか、話、しようぜ。毛利さんよ」



腕の中の毛利が、居心地悪そうに身動ぎした。ぷはっ、と顔を出す。抱きしめすぎて息が苦しかったのだろう。こりゃすまねぇな、と元親が少し腕を緩めると、相手は本気で呆れたようにひとつ息をついた。
「さて四国の主はかなり変わり者だとは聞いていたが。・・・ようわかった。間違いあるまい」
「まぁ。別に。変わり者ってのは俺にとっちゃ褒め言葉だからよ。気にしねぇよ」
元親がすましてそう言うと、毛利は困ったように呟いた。
「・・・なんの話をするのだ。同盟の細かい内容でも?」
状況を読みかねているのだろう。元親はまた笑いたくなる衝動をおさえて、そんな堅い話はしねぇよ、と大真面目な声で言った。
「寝物語だからな」
「・・・寝る?貴様と?」
「あんたを“抱きたい”って言ったろ」
「・・・意味がわからぬな。貴様、ふざけておるのか」
「俺は真面目だぜ。いつだってな。・・・あんたがなんも話すことないってんなら、俺が面白い話してやるよ。怪談とか・・・あぁ、そうそう」
元親は、ひとり静かに話し続ける。
「―――海の向こうで生まれた神さんがいてな。裏切られたり、利用されたりしながら、少しずつ姿をかえてこの国にきて、今も大事にまつられてるっていう話とか」
毛利は、ほんの少し、首を傾げた。






結局、そうやってとりとめのないことを話しながら、夜は更けていった。
国主である男が二人、お互いに半分着物が肌蹴たような状態で抱き合って、本来の目的である行為をまるでせず、ただ子供のようにひとつの布団でつまらない話をしている様子は、きっと傍から見ても面白いものだっただろう。
途中でどうにも眠くなり(毛利もそうらしかった、瞼が何度もあけたり閉じたりしていた)、しかし流石に互いに完全に安心して眠ることもできず。元親はふらりと起き出すと、襖を開け放った。
どうなっているのかと控えていた者たちがいっせいに顔を上げる。元親は眠い目を擦りながら、俺ら寝るから、お前ら護衛しろよと言い残して、半分眠りかかった毛利のいる布団に再び潜り込んだ。家臣たちの呆気にとられた顔は容易に想像できたが、眠くて仕方なかった。
「あんた、あったけぇな、毛利」
呟くと、少し不機嫌な声が、貴様であろうに、とだけ返した。
―――あとは、覚えていない。
元親が目を覚ましたとき、毛利の一行はとっくに出立した後だった。部下によると、しかしあの毛利も、太陽が昇るくらいまでは元親と一緒に眠っていたらしいという。
元親は、満足げに頷いた。それを見て、部下たちが首を捻る。
「アニキ、なんか嬉しそうですね。そんなにあの野郎の体はよかったですかい?」
一人がからかうように訊いたが、元親は真面目な顔で、おうあったかくてすげぇよかったぜ、よく眠れた。とだけ応えておいた。



(・・・俺は結局、あんま変わってねぇのかもなぁ。元就?)
元親は心の中で、かつていた狐神に話しかける。
どうせ抱くなら、どうせいつか殺し合うなら、相手が泣いてもうやめてくれと懇願するまで抱いて壊してやるつもりだった、最初は。
けれどそれは果たされず。
かわりに、本来の自分らしいことができたように、元親は思う。
(これでよかったのかもしれねぇよな。・・・騙し合いばっかじゃお互い疲れちまうし、・・・俺は俺らしく、野郎どもを守って、・・・)
毛利という男と、また話をしてみたいのだと気付いた。



寝物語のついでに、サンデーのことも少し話してみたが、毛利にまったく反応はなかった。覚えていないのだろう。
けれど、まったくの他人だと仮定しても、元親にとって毛利という男は、どうしても気になる存在だった。あの姿だけでなく―――元親が抱きたいと言ったときのどこかあきらめたような言動の原因も、サンデーとふたつにわかれるほどに苦しんだことも、まだ元親は何も知らない。直接彼から聞いてみたいと思う。
狐神の消えてしまったあと、そう思った。好きだからこそ遠慮してなにも訊かなかったけれど、もっともっと腹をわって話して、少しずつでも彼が何を考えているのか、知っておきたかったと思う。夢のおかげで断片的に元親は理解できたけれど、本人から直接聴きたかった、と、それだけは今も後悔しているから。
この先、毛利との戦が起こるとして、・・・そのときどうすべきか。殺してしまうことは簡単だ。それだけではなくて・・・
(・・・俺は、どうしたいんだ?)





「・・・さぁて。とりあえず、相手の出方を見るか・・・」
元親は、部下たちに、帰り支度を言いつけた。





ほどなくして毛利が畿内に侵入したとの報が届けられた。
元親はじっと、まだ、考えて続けている。


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