(39)


目を開ける。
見知らぬ屋敷の、格子に区切られた天井が見えた。
元親は此処は何処だろうと考え、あたりを見回した。丹塗りの柱、時折響く静かな波の音を聞き取り、まだ厳島なのだと元親は気づいた。起き上がろうとそろそろと体を動かす、―――脇腹に鋭い痛みが走り、元親は痛てぇ、と声を出して体を折った。
「・・・まだ動かぬがよかろう」
声に、元親ははっと視線を動かした。すらりと板戸が開いて、家臣に傅かれながら中央を毛利が歩んで近づいてくる。
「しぶとい鬼よ。やはり死ななかったか。医師にはここ数日が山場と言われておったに乗り越えるとはな」
片頬を引き上げて笑う様子は、けれどこれまでの冷たいものではなく、どこか面白がっているようで元親は瞬きを何度かした。
「・・・毛利、元就」
呼びかけると、
「なんだ」
応えながら毛利は元親の床から少し距離を置いた位置に坐した。
「・・・なんで俺を殺さなかった。何故助けた?」
元親は尋ねる。
毛利元就は、視線を彷徨わせた。―――やがて、
「気紛れだ」
あっさりと、そんな答えが返ってきて元親はぽかんと口を開けた。
しばらくじっと毛利の端正な顔を見つめていたが、やがて堪え切れずに笑い出す。毛利は笑わない。じっと、元親を見つめている。
「・・・気紛れか!くっ、ははっ。だから生きてくってのぁ、面白いよなぁ。全部が全部計算どおりにゃいかねぇもんだ。あんたみたいな、・・・頭のいい奴から、そんな大雑把な返答聞けるなんてよ!俺は嬉しいぜ」
「・・・貴様が」
ぽつりと、声が零れて、何かを言おうとする毛利の心が感じられて。元親は口を噤んだ。
「・・・貴様の腹を切り裂いたとき、同じことを繰り返すのかと―――誰かに問われたような気がして」
「・・・」
「どうしてか、この我が、怯んだ。我を怯ませた貴様に興味が湧いた。・・・それだけのこと」
「・・・そうか。」
「だから貴様に対する我の興味が失せたときは、貴様も四国も、容赦なく斬り捨てる。心せよ」
「あぁ、・・・だが、そんなことにはならねぇよ」
元親は、柔らかい笑みを浮かべ、床の中でひとり頷いた。毛利は、ふんと鼻で笑う。
「随分な自信だな、長曾我部。勝負そのものは我に負けたというのに」
「・・・痛いとこ突くなよ・・・まぁ、そりゃ。絶対の自信なんざ、ねぇさ。でもよ、・・・あんたは、実際こうして此処にいて、俺と話してるじゃねぇか」



毛利は、やがて静かに立ちあがると庭苑へ続く板戸を開けた。明るい光が差し込んで、元親はまぶしそうに目を細めた。光の中に立つ毛利を視界に捉えて、懐かしいような感覚が押し寄せた。元親は逆らわずその感覚に身をまかせ、ゆっくりと呼吸をする。
毛利は再び元親の傍に戻ってくると、今度は先ほどよりほんの少しだけ、近くに坐した。
「貴様は、影で毛利の兵たちが我をなんと呼んでいるか知っているか」
「・・・さぁ?冷酷非情の詭計智将、とでも?」
思いつくまま正直に告げたが、毛利の表情は変わらない。
「―――身内殺しの少輔次郎」
さらりと発せられた非道い言葉は抑揚もなく、淡々と語る横顔は、なんの感慨もないように見える。けれどそこへ至るまでにさまざまのことがあったのだろうと元親は思いを馳せずにいられない。
「・・・我が生まれてから母が死に、父が死に、兄が死に、兄の嫡男が死に、・・・唯一残った肉親である腹違いの弟は、我自ら誅した。家督相続のときだ。放置すれば近隣の大名につけこまれること必至だと思った。毛利家を失うわけにはいかなかった」
「・・・」
「我は毛利にとって死神だそうだ。我と目が合うと死ぬ、と専らの噂よ」
フフ、と自嘲気味に元就は笑う。元親は食い入るように見つめる。
「・・・、我は、我の手で毛利を繁栄させねばならなかった・・・どんな卑劣な手を使っても、誰になんと言われようと。我の意志に関係なく」
己の存在意義はその一点にしかなかったのだ、と、元親には聴こえた。
小さな童子の声に似ていた。



「・・・さて。本心を言え。貴様は、何が望みだ?欲しているのだ?我の頭脳か?中国という領地か?何ゆえに我を、欲する?」
元親は首を横に振った。
「俺が望んでるのは、・・・あんたの手を、取って。肩を並べて。あんたをもっと、知ることだ」
毛利はそれを聞くと、唇を歪めて笑う。
「・・・それだ。貴様の言うことは、我には、意味が分からぬ。付加価値のない我を得てなんとする?何故欲する?」
「あんたの頭脳とか、領地とか、そういうのがあるからあんたが欲しいんじゃない」
「綺麗事だな」
「そういうものを持たないなら、あんたには価値がないってぇのかよ?違うだろ?其処に、存在してるだけで、価値あるもんだろ、命ってのぁよ。何かと引き換えにそいつを大事にする、なんて、違うだろうが。俺はそんなのは嫌だ。こいつは、取引なんかじゃねぇ。俺は、あんたそのものをもっと知ってみたいんだ」
「知って、どうする」
「知れたら、ただ、嬉しい。あんたは、きっと分かる」
密やかな溜息が聴こえた。毛利は口元に手を当てて、俯いている。
「・・・所詮我らは、この世では敵。いつかこの先、相対することになるだろう。それはおそらく避けられぬ」
「そんなことには俺がさせねぇ」
「不可能だ。貴様もわかっておろう」
「たとえ、なんかの理由で別れる日が来たって、俺とあんたが肩並べて一緒に歩いてた時間が消えるわけじゃねぇ。その時間は、ずっと残るんだ。少しでもその時間が長く続くように、俺は、努める。そうやって足掻くことはくだらなくなんざねぇ。虚しいことじゃねぇ。そうだろ?俺はそう信じてる」



「・・・皆、我を置いて、我より先に逝った。信頼していた家臣に裏切られたことも数多よ。未来も、まして人の心も誰にもわからぬ。明日には貴様と我はまた殺しあうやもしれぬ。永遠のあろうはずもない。それでも、貴様は、その言葉を我に言うのか?信じろ、と」
元親は、笑顔を浮かべた。
「俺は、同じ言葉を繰り返し、同じ行動を繰り返す。何度でも。俺の意志に従ってな」
「・・・」
「俺が、あんたを知りたい、あんたといたいと、望んだんだから。俺は、自分にも、あんたにも、嘘はつかない。ずっと、俺のできるすべてをなげうってずっと、あんたを見ている」
元親は毛利へ腕を、探るように伸ばした。毛利の膝に置かれた手を探り当てると、そっと握りしめる。冷たい皮膚温だったが、拒まれはしなかった。
「そしてあんたは、今此処にいる。いるじゃねぇか」
自分の不器用な呼びかけは、この青年に届いた。
(俺は、少しは、変われたのだろうか)






「―――俺は、長曾我部元親。よろしく頼むぜ、毛利、元就」
あらためて、そう告げると、毛利は眼を瞬いた。
じっと見つめてくるその瞳は、かつてあった金褐色ではない。
やがて冷たく白い毛利の手は、元親の大きな手をゆっくりと握り返した。
元親は、安堵の息をついた。嬉しくなって、少し涙ぐんで、慌ててごしごしと空いた手で瞼を擦った。
「・・・ありがとうな」
思わず、礼を述べると、
「・・・何故に礼を?」
毛利が訝しげに首を傾げる。
「いや・・・嬉しくてよ。へへっ」
元親は照れたように笑った。
毛利も、つられたのか小さく笑った。



どうなるかなんて、誰にもわからない。
でもいつか、誰かが、二人を一緒に思い出してふと語ってくれるような。
そんな関係がこの青年と作れればいいなと、元親は思う。


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