『我はすでに用済みか』
白い獣は自らを貶めるように笑った。
『致し方ない。魔に落ち流れ着いたこの国で、このまま消えるも一興、変わるも一興』
俺は、そりゃァ驚いたさ。人語を喋る獣なんざ、見たことねぇからな。
『さて、選べ。我を消すか、服従させるか、――ーこのまま見殺すか』

神も魔も信じねぇと言ったら、きっと先祖は怒るだろう。祭る身でありながらと。
でも目の前で傷ついてるなら、たとえそれが何であれ。そこに「在る」に違いねぇんだ。
だから手を伸ばした。
「・・・、その稲を手折るのか」
誰かが訊いた。
「おい。稲なんざ何処にある?あるのは泣いてる童子だろう?」
俺は応えた。いつの間にか獣はいなくなっている。
金の稲穂がそれ其処に、とまた誰かが言った。稲穂に見えるのか、この漂う糸が?
おかしなことだ。やっぱり神はいて、これも全部そいつの悪戯か?

「・・・名前は?」
俺は童子を抱き上げた。
童子は泣き止み不思議な語を発した。数度聞いても聞き取れなくて、俺は肩を竦めた。
「いいさ。俺が新しく名前をつけてやる。そうだな・・・」
















(4)


「・・・あんた、誰だ?」
ようやくそうたずねると、青年は不審げに弥三郎を見つめた。
「・・・伊羅?我を忘れたと申すか?覚えておらぬのか?」
「・・・いら?俺は弥三郎だ」
「・・・やさぶろう?」
「そうだ。じきに、元服して違う名前になる予定だが。・・・いら、なんて妙な名は嫌だな、・・・親父どのも嫌だと思う、たぶん」
弥三郎はぼそぼそと俯いたまま答えると立ち上がる。座り込んでいたせいで着衣についた砂をぱんぱんと手で払った。
並んでみると、その青年はまだ元服前の弥三郎より実は小さかった。
見上げてくる表情は、最初の印象よりどこか幼い。青年とも見えるし、少年にも見える。
「だから、人違いだぜ」
「・・・人違い?だと?」
「なぁ、それよりさ。俺、道に迷ってやっと此処にたどり着いたんだけど。宮司も引っ込んじまって。帰り道を知らねぇか」
「・・・」
「あんたも、宮司かい?都の中の、親父どのの逗留してる寺に戻りたいんだが―――えぇと、寺の名前は」
「そんなはずはない!」



青年の声が弥三郎を弾いた。
弥三郎はその語調の強さに驚いて押し黙り、青年を見つめた。
青年は弥三郎を食い入るように見つめてくる。
「そんなはずはない、・・・我は覚えている。貴様も覚えていると言った。何故だ?」
どこか切羽詰った表情に弥三郎はたじたじとあとずさる。妙な男だなと弥三郎ははじめて少し怖くなった。
(此処は、・・・そういえばきつねの社だった)
(和尚は、・・・きつねは、死肉を貪ると―――死神だと、確か)
先ほどの口付けを思い出して、弥三郎は焦った。
もしやあのとき、魂を俺は抜かれてしまったか?こいつがきつねだったら?
青年は弥三郎の慄きにはまるで頓着せず、ゆっくりと弥三郎の周りを回る。やがてふいと首を傾げると、弥三郎の左の瞳を指差した。
「その目が証拠よ」
「・・・えっ。これは」
弥三郎は左目を掌で思わず隠した。青年は構わず言葉を続ける。
「我を忘れたなら、何故我を起こせたと?術を解けるは、かけた者のみ。貴様が彼奴(きゃつ)でないはずがない、なのに」
「そ、・・・そんなこと言われたって、知らないもんは、知らねぇよ」
弥三郎はまた少し後ろへ下がる。
「人違いだ。・・・俺、帰る」
小走りに駆けだした弥三郎の背に、悲鳴のような呼び声が飛んだ。
「伊羅、待て!」
弥三郎は振り返って告げた。
「伊羅じゃねぇって!俺はきつねの知り合いなんかいないし、名前も知らねぇ」
「名前―――知らないだと?」
青年が形のいい眉を哀しげに顰めるのが目の端に見えたが、弥三郎は走った。
「・・・貴様がつけた我の名を?それも忘れてしまったと?」
泣きそうな声が耳に届いた。
だから、弥三郎は駆け出したその背後へ、再度思わず振り返ってしまった。



「・・・え?」
目の前にふわりと青年が近づいて、弥三郎の左目に掌を当てる。
とたんに、青年の手のひらが急速に冷たくなった。
弥三郎は、本能的に危険を直感した。咄嗟にふりほどいて逃げようとしたが、ぴかりと何かが光ったと思うと左の目がぎりりと凄まじい痛みを起こし、弥三郎は悲鳴をあげた。
「思い出させてやる。我の名は―――なり―――」
語尾は掠れてよく聴こえなかった・・・



痛みの合間に右のひとつ目で見た。弥三郎の左目のような美しい紅の小さな球体を青年は手に乗せていた。そんなはずはないと分かっているのに、弥三郎は「返せ、俺の目」と叫んだ。
けれど青年は掌のそれをじっとじっと見つめ、やがて少し口元に笑みの形をつくった。
息をのんで見つめる弥三郎の前で、青年はこくりとその宝石のように輝くものを飲み込んだのであった。



「さて、父親の元へ帰りたいのであったな」
そう言って青年はふわりと空に浮いた。呆気に取られる弥三郎の手を取る。
ぱぁっと広がる光に飲み込まれ、まぶしくて弥三郎は目を閉じた。
やがておさまったのだろう、顔に当たる光が感じられなくなってから弥三郎はおそるおそる目をあけた。
見覚えのある土塀と、門。中から、父が自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
はっと顔を上げると、青年はそこに佇んでじっと弥三郎を見下ろしている。
「・・・、お前。俺の目、どうした?返してくれ」
けれど青年の姿は、陽炎のようにゆらめいたかと思うとそのまま幻のごとく消えてしまった。
弥三郎はぺたりとそこに膝をついた。
怖々と左目のあった場所をなぜてみたが、そこには普段と変わらず目は在る。弥三郎はほっとした。
けれど、なにかがおかしいことに、門の階段を上るとき気づいた。
段差が、分からない。
もしやと恐怖を感じながら右の目を閉じれば、果たして。予想したとおり暗がりが広がる。
「・・・見え、ない?」



呆然とする弥三郎は、やがて階段にうずくまり声を殺して泣きはじめた。門の閂(かんぬき)が開く音、そして父の声。
その後の記憶は定かではない。


(5)