何処から来たかと訊かれた。
大きな河にいた。水辺と、金の穂が揺れる大地は覚えている。
でもその後覚えているのは紅い色しかない。
それからずっとひとりだ。

変化する、なにもかも。それを貴様は知っているか?
一旦動き始めた流れは、容易には元に戻らない。
流れる水がいつしか血に変わって、別の昏い黎明に閉じ込められても、忘れられない限り存在は続く。
いつか元の姿に戻れるだろうか。

・・・でも元の「名」はどうでもいいと思えた。
取り戻したいのは、もっと別のもの。



















(5)


跡取り息子の左目が光を失ったと知って、国親は大層肩を落とした。
戦の世にあってそれは、生き残る確率が恐ろしく減ることは間違いない。
見えないだけでなく、目の周りの皮膚が痣のように紅黒く変色していた。弥三郎は周りの者の様子から薄々気づいてはいたものの、鏡でそのことに気付いた瞬間には流石に衝撃に呻いた。
けれど、あの青年との出会いや何があったかは固く口を閉ざして誰にも言わなかった。
父親は、兎も角出来ることだけはと、色々とつてを頼って良いといわれる医師や薬師や祈祷師に見せたが、いっこうに原因はわからない。
奔走する父親にやがてぽつりと、弥三郎は「もういい」と告げた。
どのみち、嫌っていた目だ。
見えなくなってみれば、あんな気味の悪い色の目でも「見える」というだけでどれほどに有難かったかは身に染みてわかったが、今となってはどうしようもない。鬼はそもそも一つ目だというではないか。名前に見合った姿になっただけのことだと自分に言い聞かせた。
見えないのだと認識するためにもこの傷跡めいたものを隠すためにも、眼帯をつくってほしいと頼んだ。父親は曖昧に頷いて、けれどあきらめないで治るように考えようと言ってくれて、それは弥三郎には心底嬉しいことだった。



留守にしていた和尚が、弥三郎を見舞った。
和尚は大層弥三郎を憐れんだ。弥三郎はこっそりとこの老爺に、父にもしなかった話を聞かせた。
「きつねに会った」
あの不思議な青年の話をした。
和尚は驚き、じっと話に聞き入っていた。いら、という名が出ると、うむと唸った。
「知っているか」
「あの社の開闢者にそんな名の者がいたような。・・・しかし、何百年も前の者」
「・・・俺の先祖か?だから間違えたのか?あいつ」
「きつねが、若とその者を間違えたと?」
「きつね・・・なのかな・・・綺麗な男だった。名前は、ええと・・・」
聞こえたはずなのに、どうしても思い出せない。
和尚はしばらく考えていたが、それが妖(あやし)なら、若にとり憑いたのかもしれないと小声で言った。
「どうすれば憑き物は落ちるのか」
「強い呪法を知る者なら調伏もできましょうが。儂には、残念ながらその力はない」
和尚は、何か書くものをと言った。何をするのかと弥三郎は問うた。
「名を呼べば呼び出せるかもしれん」
「・・・名前?俺は、覚えてないんだ」
「されば思いつく限り名を書いてしんぜよう」
弥三郎が小姓に用意させると、そういえばと和尚は弥三郎を見た。
「言っておりませなんだが。若の元服のお名前を依頼されておったのです、父君に」
「え、そうだったのか?」
弥三郎はどきりとした。まさか“いら”という名前ではないかとおそれたが、
「父君の一字を戴いて、“元親”と考えておったのですが、如何か?」
「・・・もとちか、か」
ほっとしながらもとちか、もとちかと口の中で繰り返して、弥三郎は幾日ぶりかでにっこりした。
「うん、俺は気に入ったぜ。異論はない」
それは重畳、と和尚は紙に次々と名を書いていく。
彼は当代有名な姓名判断家でもあったから、領主たちの名を今までに多くつけていた。その記憶を辿っているらしかった。
これはいかがか、これはどうか。次々に示される名前に、けれど弥三郎は反応しない。頭を抱えるばかりだ。



やがて畳が半紙で埋め尽くされる頃、さすがに上人も記憶が途切れてきたらしい。筆が止まりがちになっていた。
弥三郎はうんざりしながら、開け放った縁から吹き込む風に揺れる半紙を一枚一枚読んでいた。
ふと、目がひとつの名に止まる。



“元就”



思い出しましたか、と問われて、弥三郎は言葉を濁した。
「そういうわけじゃないんだが・・・」
寧ろ、これは違うと思う。でも、何故か目が離せない。弥三郎の様子に気づいて、和尚もその紙を覗き込んだ。
「あぁ、それは。先日、安芸の国人領主からの依頼で考えたものじゃ。ご当主の弟君の元服にあたって」
「・・・どうもひっかかるんだが。けど、その国主と当人に失礼じゃねぇかな、狐に同じ名を勝手につけたら」
「いや、確か別の名をお取りになったはず。こちらは反故になったものじゃ。・・・もとなり、と読みます」
弥三郎は走り書きとは言え流麗なその文字を見つめ続ける。いつしか、あの青年を思い出していた。
(・・・泣きそうだったな、あいつ。なんでだろう)
「・・・元就」



ぱっと眩い光が一瞬差して、弥三郎は瞬きした。
顔を上げると、弥三郎の布団の傍に、あのときの青年が立っている。あのときと同じように緑色の水干姿、ふわりと体重を感じさせない佇まい。
「・・・お・・・お前・・・!!」
「呼んだか、伊羅」
見とれていた弥三郎は、はっと我に返って青年に掴み掛った。
「俺の目、返しやがれ!!」
けれど彼はするりと弥三郎の腕をかいくぐって部屋の隅に移動した。急に暴れだした弥三郎に和尚は驚いている。
“元就”が自分にしか見えないのだと弥三郎は悟った。
青年は黙って其処にいる。弥三郎は、きっと青年を睨みつけた。
「てめぇ!!よくも俺の前に抜け抜けと姿を見せられるな?」
「我はずっと貴様と共に居たぞ」
「え。・・・嘘だ、今までどこに?」
青年は弥三郎にすべるように近づくと、その細い指先で弥三郎の見えなくなった左目を差した。
「此処に。」
「な・・・っ、てめぇっ、勝手に人の体に棲むんじゃねぇよ!!」
さてはこの赤黒い痣もお前のせいかと詰ると、青年は、はてどうだったか、と嘯(うそぶ)いた。弥三郎は白い髪をかきむしる。頭が変になりそうだった。
(妖だと?そんなもんいないはずだってのに!)
「あぁ、畜生・・・兎に角さっさと俺の目を・・・視力を返せ」
「嫌だ」
青年はきっぱりと拒否した。腹を撫ぜている、あそこに俺の目があるのかと弥三郎はくらくらした。
「返せぬ。貴様と我のつながっている証だ」
弥三郎は、青年を睨みつける。
「俺はお前とつながりたいなんて頼んじゃねぇ」
狐はまた泣きそうな顔をした。
「・・・貴様は、いつも勝手だ。変わっておらぬ、伊羅。」
「何の話か知らないが、いいかげん人違いだと気づけよ、お前。俺は弥三郎であって、お前の知り合いじゃない」
「では、何故、我に今再び名をつけた?そうやって我を呼び出したのは貴様ではないか」
「だからそれは、お前から目を取り戻すために」
「それは出来ぬ。貴様が思い出さねば我は困る」
「俺はそんなこと関係ねぇんだって・・・」
「では何ゆえ、我を起こした?今、我を呼んだ?理解できぬ」
「だぁから・・・お前から目を取り戻すためだって・・・人の話を聞けよ!」
弥三郎は堂々巡りに疲れてしまった。
青年は目をぱちぱちと瞬いている。綺麗な、整った姿。
でも、どこか作り物のようだとも思った。なのに泣きそうになるときだけ、人間のように感じられるのは何故だろう。



青年は端正な顔に表情を浮かべないままに唇を開く。
「狭量なことよ。目のひとつくらいどうということはなかろう」
弥三郎はかっとなった。
「なんてことを言うんだ。親父どのとお袋さまにもらった大事な体の一部だぞ」
「貴様、この左目を厭うておったのではないか?」
「・・・・・・ッ、」
言いあてられて、弥三郎は愕然とする。
「このような目、いらぬとずっと思っておったのであろう?我にはわかる」
ぐっと言葉を飲み込んだ。
あぁ、その通りだ。
自分は確かにあの紅い目を呪っていた。たとえ他の者と違っていても、それが父母から貰った大切なものだと分かっていたというのに。何にも替えがたい宝だと今になってみれば分かる。
それを指摘されて、弥三郎は自分の「狭量」さを、確かに理解して後悔した。
けれど、まだ諦める必要もない。何故なら自分の「目」を持つ彼は、此処にこうやっているのだから。
なんとかして(なんとしてでも)、取り戻す。



「・・・いいだろう。お前をこの身に飼ってやる」
弥三郎は青年を見遣る。
「でもそれは、いつか俺の目を取り戻すためだ。そうして、いつか必ず、お前を祓って、俺の体から追い出してやる。忘れるな、“もとなり”」
青年は少し表情を曇らせた。
けれどやがて、妖らしい不思議な挑発的な笑みを浮かべた。
「我も諦めぬ。貴様に我を・・・貴様のつけた名を思い出させる。・・・待っていろ、伊羅」


(6)