コイビトバトン





(10)


捨ててしまえば楽になれると思った。それが何であろうとも。捨てた瞬間からしばらくはじくじくと心の何処かが痛んだり疼いたり、それは仕方ないにしても。時間が経てばそのうち忘れると元就は思っている。
家族も家も無くしてしまった子供のときだって、きっと辛くて哀しかったに違いなかった。けれど現に、覚えているのは呆然と途方に暮れて周りを見回していた自分だけだ。
寧ろ、それまでさほど関わりもなかった義母が、その後自分に差し伸べてくれた手のほうがはっきりと記憶に残っている。柔らかく白い、優しい記憶だ。この手を取っていいのかと何度も彼女の顔を見たものだった。
きっと、そのとき辛いと思っていたとしても、何度も寝て起きてを繰り返せば記憶は薄れるのだ。元就は今までの経験からそうだと思っている。
だから、携帯を捨てた。一緒に元親のことも捨てた、つもりだ。



けれど学校から家に帰る道すがら、いつも携帯を入れているかばんを何度も、開け閉めして確認している自分にバスを降りたときに気づいた。たったあれだけの小さな重さなのに。あのちっぽけな機械そのものにそれほど愛着があったわけではない、それは間違いない。
(・・・次に買うものは、もっとシンプルなものに)
色味もデザインも、元親の好みで一緒に選んだことを思い出して、元就は少し眉を顰めた。何故か悔しいと思う。そうやって思い出すということ自体が、実際はあの機械そのものではなく、それに染み付いた「元親」との思い出めいたものに対して愛着を持っていたのだとわかるからだ。
(・・・くだらぬ)
もう、オレンジのかったグレーに街並みが染まりはじめている。元就は真っ直ぐに背を伸ばして自宅へ向かった。
義母は遅くなると言っていた。今日は普段どおり家政婦が来て掃除と食事の用意をしているはずだ。だから真っ直ぐ帰って、そのまま家で勉強と仕事の続きをして彼女を待っていればいい。
元親とのことは結局気に入らないというか納得の出来ない結果になったけれど、かわりと言うべきか、義母との間が少し近くなった気がするのは元就にとってはとても嬉しいことには間違いなかった。今日もう一度彼女に問うてみようと思った。
何故、あのときこの家を出て行きましたか。と。
(我を嫌ってはなかったならば、理由があるはずだから)
それは何度も考えて、けれど元就自身を彼女が疎ましく思っていたとした場合と、そうでない場合の予測される原因はまるで違っていたから、今までその大前提を尋ねるのが怖くて元就はずっと黙ってきた。
今ならば。彼女がはっきりと笑って、言ってくれたから。
「あなたを嫌っているわけがない」と。
だから素直に、では何故出てゆかねばならなかったのかを純粋に知りたいと思える。
ふと、先日政宗が車の中で皮肉めいた笑みを浮かべて言っていたことを思い出した。自分の実の母親について彼は辛辣だった。「女が権力欲を持つとろくなもんじゃない」と。
義母は、それを自分から断ち切ったのではないかと。元就は今までも漠然とそう考えてきたが、さらに政宗の言葉で少し確信めいたものを得ていた。





考えているうちに、義母のことと元親のことがまた元就の中でだぶった。元就は自分を誤魔化すように軽く咳払いをした。
マンションにいつの間にか着いていた。エレベーターを上り、廊下を歩いて玄関のドアに鍵を差し込む。
そういえば先日元親はここまで「見舞い」と称してやってきて、元就に尋ねたのだった。
「俺が嫌いになったか」
と。
それは元就自身が、ずっと義母に対して聞くことが出来なかった言葉だと気づいて、元就は玄関で靴も脱がずにしばし立ち竦んだ。彼がひどく辛そうに(そう、元就には見えた)自分を見つめていたことを思い出す。
(もしかして、全部間違っている?)
(最初から、何もかも間違っている?我が、間違っている?)
元親が、まるで変わっていないとしたら。元就のなんらかの誤解だったとしたら。
彼は、どれほどの決意であの言葉を発したのだろう。嫌いだと言われたらどうしようと、元就は怖くてずっと聞けなかった、その言葉。
(・・・でも)
また元就はかばんを開けた。あるべき場所に携帯は当然無く、あの元親が幸村に送ったメールを見ることも出来ない。けれど元就の記憶にはっきりとあの文面は焼きついている、何度も読んだ。何度も。
“嫌いになったか”
「・・・貴様、こそ」
元就は、俯いた。唇を噛む。
「貴様こそ、我がとうに嫌いになっていたのではないのか。最初から嫌いだったのではないのか。長曾我部―――」





電気のついていない室内の奥から、唐突に電話の呼び出し音が鳴った。
元就ははっと顔を上げると、慌てて靴を脱いで廊下を駆けた。義母からだろうか、携帯が通じなかったから心配しただろうかと思いながら着信番号を確認すると、それは見た記憶のない携帯電話からだった。
しばらく躊躇した後、元就はおもむろに受話器を取った。
「毛利さん!?」
元就が何も声を発しないうちに、受話器の向こうからひどく慌てた声が響いた。
聞き覚えのあるような、と元就はいぶかしんだがそのまま黙っていた。なおも向こうから、ねぇちょっと毛利のダンナだよね?と再び早口で言った後、間違った番号にかけたかもしれぬと思ったのか、少し居ずまいを正した声がやがて響いた。
「もしもし、猿飛と申しますが、毛利さんの御宅ですか」
「・・・そうだ。猿飛、とは、弐組の猿飛か?」
「あぁ!毛利さんだよね!?なんで黙ってんのさ、間違ったかと思っちまったじゃん!」
「・・・珍しい、というか貴様が我の家にわざわざ何用だ?」
元就がいつもどおり冷静に答えると、受話器の向こうの佐助は再び慌てた様子に戻った。
「いや、色々言いたいことっていうか、伝えたいことはあるんだけどさ、えーっと、何から言えば」
「・・・用件は簡潔にせよ」
背後から、佐助落ち着け、という幸村の声が聞こえて元就はさらに不審に思った。
「真田も一緒か?本当に、何用なのだ」
「あーもう!!ほんとはね、俺はアンタに文句とか色々、いっぱい言ってやりたいとこだったんだけどねここ数日。事情わかっちまったからそれはまた今度にするけどさ、ほんっとアンタ、もう少しこう、情報をきちんと他人に出したほうがいいよ?」
「・・・なんのことかわからぬな。用件はそれだけか?」
少し呆れて、元就は溜息を吐いた。本当に彼が何を言いたいのかよく分からない。
佐助のことは元親のバスケ仲間だということで何度か話したことがある。普段は軽い物言いだが、実際は思慮深くよくものを見ているなと思った記憶がある。こんなに直情的ではなかったはずだと不思議に思った。
「で、結局用件は何か」
「あのさ、」
佐助は言葉を切った。元就は自然、耳を欹てた。
佐助、という幸村の声がまた響いた。





「・・・とりあえず今すぐ病院行ってくれないかな?うちのキャプテンの自転車がトラックに巻き込まれてね、病院運ばれたんだよね、ホラ毛利さんちからも見えるっしょ、医療センター」




「――――」





「あそこの救急外来にいるからさ、俺も今から行くから。アンタの家電番号調べるのに時間かかっちまって」
「・・・・・・猿飛」
「ったくさぁ、携帯なんで捨てるわけ?俺さま持ってるから、後で渡すからさ、それとメールの・・・あぁそれはいいや、後で会ってから話すから」
「・・・・・・猿、飛」
「ねぇちょっと、毛利さん聞いてる?場所分かる?家から見えるよね?」
「・・・猿飛。誰が?トラック?事故なのか?誰が事故、と言ったか?」
「だから!うちのキャプテンの、長曾我部!そうでなければ、アンタに電話するわけないっしょ!?」
「・・・・・・長曾我部?長曾我部、が、何・・・?」
「だぁから!トラックが突っ込んできたらしくて、病院にって言って―――」





(・・・何?)





受話器がするりと元就の手から落ちた。佐助の声が響いている。
膝に力が入らなくて、元就はぺたんと床に座り込んだ。病院。事故。救急。嫌な言葉ばかり。父が死んだときと兄が死んだときのことが望みもしないのに脳裏に次々浮かんだ。差し伸べてくれた義母の手は白く暖かかったのに。それだけが普段覚えていることなのに。
けれどその日、彼女も泣いていたことを突然思い出してしまって元就の体はまた震えた。
嫌なことなんか、本当に全部記憶から消えてしまえばいいのに。
消えてはいないのだ、日頃思い出さないようにしているだけで。
(何故だ、長曾我部)
(捨てた我に、せっかく、貴様を捨てられた我に、何故)
いつの間にか受話器からは、ツーツーという受信の切れた信号が鳴っている。元就は震える手でようやく受話器を戻した。
病院は確かに元就のマンションから見えていて、医療センターと言えばそこしかなかった。元親の容態がどうなのか、怖くて聞けないまま電話が切られてしまったことを今更悔やんだ。
家を出ようとして廊下で足がもつれて転んで。痛かったけれど黙って起き上がると、そういえば義母が帰ってくるのだったと思い出す。携帯に電話を、とまたかばんを開けたが当然自分の携帯は無い。そういえば先程佐助が「携帯を何故捨てたのか」と言っていたことを思い出した。彼が何故そのことを知っているのかは不思議だったが、今はそれはほんとうにどうでもいいことに思えた。元就は記憶を辿り義母の携帯番号へ、もう一度家の電話の場所に戻ってかけてみたが、いつもどおり仕事中なのか留守電に切り替わっただけだった。今の状態で声を吹き込んだら彼女はかえって心配すると思い、元就は黙って電話を切った。
メールをしようかとも思ったが、パソコンの電源は切ってあり、立ち上げてメールを打つ時間ももどかしい。仕方なく元就はメモ帳とペンを探し出すと、小さく浅く呼吸を整えながら震える右手でペンを握った。震えが紙に伝わらないよう左手で押さえながら文字を綴る。



“友人が事故に遭ったそうなので、医療センターへ行ってきます”



そう書いて、自分の書いた「友人」という文字を息を詰めてじっと見つめた。
元親は「友人」だったのだろうか。
義母はこの前嬉しそうに言ったっけ。「この家まで来ているのだからお友達でしょう」と。
学校の同期生で、最初はお世辞にも仲が良いとは言えなくて、それがいつの間にか友人のようになって。
いつの、間にか。
「あんたが気にいった、俺はあんたの親友に、特別になりたい」
そう、言ってくれた。
時折甘い感覚のする、不思議な関係。



元親がどう思っていたか、ではなくて、自分がどう思っているのかだと元就は考える。



(・・・友達でも、親友でも、・・・恋人でも。なんでも、よかった。我は)
(ただ、あ奴とあのまま、付き合っていけたらいいと―――)
(だから。だから耐えられなかった、あのメールが、あ奴が書いたものだと)
(信じたく、なくて)
(でも怖くて、聞けなくて)



元就は家を出た。
エレベーターから降りて、マンションの管理人にメモを渡し、義母への伝言を頼む。エントランスを出た瞬間から自然と足は小走りになり、やがて本当に走っていた。途中で何度か息が切れて立ち止まっても、すぐまた顔を上げて走り出す。
頬が濡れている感触がして、元就は不快そうに手で拭った。雨だろうかと天を見上げたがそこには日没の一等星がビルの狭間に瞬いているばかりだ。
自分が泣いているのだと気づいて、元就はふと笑った。
ごしごしと何度も頬を擦りながら病院の白い無機質な色を目指して走った。
ちゃんと彼と目を合わせて尋ねよう。もう自分のことが嫌いになったのか、それともそうではないのか、と。



(だから)
(・・・無事でいてくれ、長會我部)


(11)