コイビトバトン
(3)
家に帰ると家政婦がおかえりなさいませと迎えてくれる。鷹揚に頷いて自分の部屋へ。机とあとは膨大な書籍以外は何もないだだっぴろい部屋。かばんを置いて隣の寝室へ通じる扉を開ける、すでにベッドメイクは完了していて皺ひとつよっていないシーツが存在をやけに主張していた。元就は少しためらいつつも、ぽすん、とその上に倒れこむ。
(・・・疲れた)
本来ならば今日はフリーの日だ。元親も部活が休みである唯一の曜日だから、大抵は二人で一緒に帰る。途中街路樹の下の散策用の小路に置かれたベンチでずっと話し込んだり(ほとんど元親がひとりで喋っていることが多いが)、一緒にショッピングセンターをうろついたり。ゲームセンターは面白かった、何せ元親はゲームが上手い。見ているだけで興味深かった。あとは二人で図書館に行き試験勉強をしたりレポートを書いたりするぐらいだが、ただそんなふうな「ふつう」の日常が最近はおだやかに続いていた。
・・・今日もそうやって時間は過ぎるはずだった。どうして自分は無機質なこの部屋で一人ぼんやり転がっているのだろうと元就は思った。
呼び鈴が遠慮がちに鳴る。元就がのろのろと応じると、軽食はいかがですかと問われたので部屋に持ってきて欲しいと頼んだ。間をおかずサンドイッチと紅茶が運んでこられて、元就は大して空腹でもなかったけれど無理矢理胃の中へ流し込んだ。一度元親がこの部屋に来たとき、同じようにサンドイッチが出て、彼は目をまるくしてお前んちすげぇな!としきりに感心していた。そうして元就の目の前でサンドイッチを全部食べてしまったのだ、それから面目ねぇと首をすくめて笑っていた。
(・・・また)
何を見ても元親と、元親との昼間のやり取りが思い出されて、元就は眉を顰めた。
あのときこの部屋はもう少し明るくて温度があった気がする。
今はどうしてこんなに、ただ白いばかりで、寒々しいのだろう?
元就の父が経営していた建設会社を当時の専務や役員たちに「乗っ取られ」たのは元就がまだ8歳になるかならない頃だ。ある日示し合わせたように主だった役員や従業員たちが辞表を出し、少し前に辞めた専務の新しい会社へ移ると言い出して、それが最初から画策されたものと分かっていても、巧妙に法律の目をかいくぐって行われたそれは弁護士を立てても勝算は5分以下だった。
色々とその後ごたごたが続き、結局父は社長を辞めざるを得なくなった。クーデターめいたことを起こした元専務と重役たちが会社の中心に座り、まだ大学を出たばかりの兄がとりあえず役員に名を連ねるということは許されたものの、その後父は失意と借金に追われて体を壊して亡くなった。
兄はその後元就と自分のために精一杯頑張っていたようだった。ようだ、というのは、元就は結局行くあてもなく途方にくれていたところを、父の後妻に引き取られて彼女の実家で暮らしていたから詳しいことを知らされなかったのである。
だから兄が、父と同じように心労からくる病でまだ二十代で亡くなったと聞かされたとき、元就は正直もう、元々は自分たちのものだった会社なぞどうでもいいと思った。
気持ちが変化したのは、きっと義母のおかげだろう。そもそも血のつながりのない元就を引き取る義理など彼女にはなく、分け与えられる父の遺産もほとんどなかったから、一人で毛利家とは縁を切って別の人生を歩むことは、当時まだ若かった彼女には十分に可能だった。それをしないで、義母は元就を引き取り、自分の実家で我が子のように、というよりは弟のように面倒を見てくれて、元就はそれはほんとうに感謝している。
兄が死んだとき、無気力な表情で焼香をする元就を彼女はじっと見ていた。その後今のマンションに二人で引っ越してきて元就と二人で暮らした。その間も、自分も勤めながらずっと、資産家である自分の実家や関係者に色々と便宜をはかってくれていたらしい、おかげで元就はつい先年から、まだ10代後半でありながらかつての兄の役職に名前を連ねている。
元就はその明敏な頭脳で経営というものを人の何倍ものスピードで理解していった。義母を安心させるためというのが大きかったし、父や兄のためにいつか会社自体を取り戻すという目標もあった。義母の関係者たちもバックアップしてくれている。ただ元就はつきすすんでいけばいいと思っていた。
・・・ある日彼女が突然にこの家を去るまでは。
実家に戻るだけだ、ただし一人で。少しこの家から離れたいと彼女は言った。
「元就さんは、しっかりしているもの。大人になった。私がいなくても大丈夫」
そう言って笑った。
元就は何も言えなかった。
時々は会いましょう、そうして様子を教えてちょうだいね、と言っていた。その言葉どおり、勿論今も時々一緒に食事をしたりはする。ただ彼女は、この家に足を踏み入れることはなかった。此処は元就さんの家だから、と。
彼女がいなくなったとき、この家はそれまでさほど広いと思えなかったのに、ただひたすらに白く殺風景で、父が死んだあの日以上に元就は途方に暮れた。
―――自分は、彼女に、捨てられたのだと思った。
今日の家は、あのときの情景のままだと思う。
元親と知り合ってから、そんなふうに思うことは滅多になくなっていたのに。
最初は本当に、口もきかない間柄だった。それが、あるきっかけがもとで元親と元就は話しをするようになった。話をするといってもほとんどは元親からの一方的なアプローチだったように思う。あるときは元就のやり方や態度について意見し、あるときは元就の考えを問い質し、あるときはただ雑談を一方的に話し掛け。
それは元就には理解不可能な事態だった。
長曾我部というかわった苗字の、背の高い生徒が同じ学年にいることは知っていた。彼は混血なのか体質なのか、髪がいわゆる白髪に近いプラチナブロンドで、左目に眼帯をしていて目立つ。なんでも色素異常で左目は光を当てるのを避けたほうがいいという話らしかった。バスケをやる体育館の中でだけ、外していることがあって、随分後になってからすぐ近くで元就も見せてもらったことがあるが、血の色なのか紅いようなオレンジのような虹彩は、どことなく太陽のようだと元就は思った。
それほど真面目な生徒ではないけれど、人好きするのかいつも誰かに囲まれていて彼の周りは賑やかだった。成績は、理科系が極端に良くて一度元就も順位を抜かれたことがある。その他の教科は大抵赤点らしかったが。
バスケ部で、友人もたくさんいる元親は、「高校は大学に行くためのつなぎの時間」くらいにしか考えず友人も一切つくる気のない元就とは全く正反対の人物であることは最初から理解していた。
けれど。
ある日言われた。これも唐突だった、今思い出しても呆れられる、と元就は思う。
『あんたの一番になりたい』
どこまでも理解不可能な男だな、と元就はそのとき思った。
『一番?・・・意味がわからぬ』
『言葉どおりだ。あんたの親友―――いや、ちょっと違うような・・・そのとおりのような?』
『・・・所謂、特定の女性と付き合うような、そういう感覚と思えばよいのか』
なにげなく、どちらかというと少し馬鹿にしながらそう聞いた。
元親は、きょとんと、しばらくじっと元就を見ていたが、破顔一笑。
『おぉ、それだ!それそれ。俺、ずっと、どう言えばいいもんかと思ってたんだがよォ、毛利お前、頭いいなァ!!』
そうして、ばんばんと元就の背中を叩いて言った。
『まぁつまり、特別な相手ってことで。よろしくな!!』
『・・・・・・』
結局あのとき、元就はyesともnoとも言わなかったはずなのだが。
それから、なんとなくいつの間にか、『特別な間柄』という言葉どおりに、元親は接してくる。元就も拒むことはない。
言ったとおりに男女のような付き合いをするわけではない。ただ、時折元親は手を差し出す。元就は黙ってその手を取る。そうやって、二人、手をつないで歩いてみたり。傍から見ればどういうふうに思われているのだろうかと、僅かに眉を顰めた。
それでも、手を振りほどこうとは思わなかった。応えるように、どちらからともなく、強く握り締めた。
時々、言われる。
「あんたは面白い、俺はほんとうに、あんたと一緒にいるのが楽しい」
「あんたが好きだな」
何度目かにそう言われたとき、我も、貴様が嫌いではないな、と元就が返すと、そういう言葉はもっと素直に表現しろよと苦笑された。常に現代国語は赤点のくせに何を偉そうに、と皮肉を言うと、元親は口を尖らせた。
「嫌いではない、なんて、へんな言い方だ。はっきり言え。否定の否定は肯定だって言うが、はっきり肯定すんのとは違うだろうが」
「・・・阿呆のくせに」
「阿呆じゃねぇよ、あんたも大概口が悪いなぁ」
そうして、覗き込まれたのだ。
「で、はっきり言うと、どうなるんだ?毛利?」
「・・・ふむ。まぁ、好き、に偏ってはおるな」
「ちぇっ。・・・ま、いいや。よろしい。」
神妙に教師めいた口調で元親がそう言ったので、思わず噴出してしまい、その後しばらく二人で笑っていた。
好き、とは、良い言葉だなとそのとき思ったのを覚えている。
・・・元親は義母と少し似ている、と、元就は思う。
太陽のようだ。
傍にいると、安心できた。
義母はよく言っていた。どんなに辛いときも、太陽は次の朝必ず昇るから。あなたを裏切ったりしないから、と。
『裏切ったり、しないから』
(・・・何故嘘をつくのだ、皆、我に)
最初から疎ましがられていたのに元就が気づいていなかったのか。
それとも、言葉巧みに、確信的に元就を騙していたのだろうか。
義母も、元親も。
元就はバッグから携帯を取り出した。手に持って、再びベッドに転がる。
操作してメールを呼び出す。昨日、真田の携帯からこっそり転送したものだ。
見たくないのに。
見たくないはずなのに、もう何度、昨夜からこのメールを読んだだろう?まったく最近の自分は、どうかしている。元親が関係するとほんとうに、どうか、している。
『恋人は6人目』
『新しい奴と取り替えたい』
・・・・・・
・・・・・・
・・・
(これが、まことなのか?長曾我部?)
今朝の光景も、そうだ。
市子が元親とどうなのかはわからない。ただ、元親が手を差し出して、市子はそれを握っていたのを見て、自分だけではないのだと、そのとき気づいた。阿呆だな我は、と自嘲するしかない。
元親はやさしい。それは間違いない。たとえ本心が別にあったとしても、その態度はいつもほんとうに優しいから。誤解してしまっていたのだとしても、自分ばかりが責められることもあるまいと言い訳してみる。
だから昼間、元親を詰った。貴様のことをそこまで考えて振り回されてなぞいないと。自意識過剰だと言った、嘘だと分かっている。元親は、「もういい」と言って、背中を向けて歩き去って、振り返りもしなかった。
(自意識過剰なのは、我のほうやもしれぬな)
一人其処に立ち竦んで、元親が振り返りはしないかと期待してただ其処で。
こんなに、振り回されているくせに。
元親は元就とは全て違っている。ああやって今朝のように、女生徒と手をつないでいるほうが彼にはしっくりくると思う。何故好き好んでこの変わり者の自分と?
(・・・もっと早く気づくべきだったか)
急速に体のどこかが冷えていく気がして、元就は無理に笑おうとしたけれど出来なかった。元親の前で最近出来るようになっていた「いい笑顔」(元親がそう言ったのだ)は、どうやっていたか思い出すことも出来ない。
仰向けのまま目を閉じて、携帯をサイドテーブルに放り出した。ガシャンと耳障りな音がした。
(くだらぬことよ。誰もかれも・・・)
(いつか飽きて捨てるなら、)
(・・・最初から、我に、構うな)
(4)