コイビトバトン
(5)
元就はいつもどおり日の出前に起床した。
朝日に拝謁してから、身支度をして部屋を出る。家政婦は朝は来ないが昨夜のうちに作っておいてくれる食事が冷蔵庫に入っていて、普段はそれを温めて食べる。
けれど今朝は食欲がない。
食べないままはまずいか、と、ほんとうに少しだけキッチンのカウンターにあったパンをひとかけら、ふたかけら食べた。
そのまま家を出る。バス停でバスを待っている間、ふわふわと地面が揺れているようだった。さほど暑くもなく寒くもない穏やかな日だったが、なんだか時折手足が酷く寒く冷たく感じた。風邪をひいただろうか、と額を抑えた。熱はなく、寧ろ冷たくて自分で元就は驚いた。
バスには乗ったが、案の定途中気分が悪くなって降りた。少しはやめに家を出たからまだ時間に余裕はあったが、このままでは再びバスに乗るのは叶うまいな、と元就は奇妙ににじみ出る額の汗をぬぐいながらバス停のそばのビルの壁によりかかった。
再び額に手をやったが、やっぱり熱は無さそうだ。
気持ちの問題だろうか、とふと考えた。
(・・・気持ち?どんな?)
少し自嘲して口の端を引き上げたとき、軽くクラクションが鳴って目の前の道路にハザードランプを点滅させながら黒塗りの車が停まった。
「Hey、毛利サン」
窓ガラスが開いて、中からひょこりと政宗が顔を出した。
「貴様、・・・長曾我部と同じクラスの、・・・」
「おいおい、初等部で一回同じクラスになっただろうがよ・・・」
政宗は苦笑すると、こんなとこでどうしたんだ毛利さんよ、と屈託無く声をかける。
「別に、どうもせぬ」
「明らかに顔色悪くしてどうもねぇって言われてもなぁ」
「捨て置け」
「学校、どうすんだよ」
「あとからゆるゆると行くつもりだ」
政宗は小さく笑った。
「意地はってんじゃねぇよ。同じ土建屋の縁だ、乗れ」
バスと違って伊達の自家用車は、外見はそれほど大きくないのに中は広くゆったりしていて静かで、元就は内心ほっとした。
政宗が伊達組という建設会社の跡取りだということは元就も知っている。父親の代には入札などである意味胡散臭いこともしていたようだが、この界隈では有名な大企業だ。同業者ということで毛利の家とも以前はほんの少しだが交流があったと元就は聞いていた。
「これは、会社のものか」
「いや?これは、小十郎の車だ。オレは自分で通うっつってんのに、心配していつも見張りつきだぜ。なぁ小十郎?」
「よく仰る。お一人だと遅刻で高校中退になりかねませぬ」
ぴしゃりと、ハンドルを握る片倉(政宗の養育責任者兼会社役員兼護衛、らしい)が言い、政宗は肩を竦めた。
「そういや、毛利サンよ。元親とはどうだ、最近?」
「・・・長曾我部?」
急に振られた話題に、元就は思い切り眉を顰めた。
「・・・奴と同じクラスなのは貴様であろう。何故我に聞く?」
「は?・・・おいおい、アイツとアンタ、一応今はマブダチなんじゃねぇのかよ?」
「まぶ・・・?」
「仲のいい友人、てこった。違うのか?野郎は少なくともそのつもりとオレは思ったが」
「・・・さて、知らぬ」
「・・・マジかよ」
そっけなく言う元就に伊達は首を傾げた。
「この前アイツ、朝から早起きして日の出見たって喜んでたぜ、アンタの影響だろあれ。」
自分が半ばいたずらついでにお膳立てした一件を思い出して聞いてみたが、元就は黙って俯くばかりだ。
へんだな、と政宗は思った。
少なくとも昨日か一昨日くらいまでは、元親は向かいの校舎の元就を目で追っていたし、一緒にいるところも見た覚えがある。あの朝日の一件だって、無理矢理早起きさせた政宗にぶつぶつ文句を言いながらも別段怒っているふうではなく、寧ろ元就との話のネタができて元親は喜んでいると政宗は思っていた。
車が大通りから住宅街に入っていく。この先の角を曲がれば正門前だな、と元就は思って身を起こした。
けれど外を流れる景色の一部に見慣れた長身の白髪を見つけて元就は固まった。おかまいなしに車は停まり、小十郎が運転席から出て、どうぞ、とドアを開ける。政宗が先に出て、ほらよ毛利サン、着いたぜ、と手を差し伸べた。
元就は顔を伏せたまま、その手を握って車外に出た。
キッ、と、自転車のブレーキ音がした。ふいのことでブレーキを握ったのだろうなと元就はぼんやり考えた。そっと視線だけ上げると、元親がひどく驚いた様子で自転車を押して立っている。傍には黒い長い髪の女生徒。
(・・・あぁ、また)
「よぅ、元親」
元親に気づいて声をあげかけた政宗の手を、元就はきつく握り締めた。政宗は気付いたらしい、どうした、やっぱ気分悪いのか?と怪訝そうに顔を近づける。元就はさらに掌をさぐるように動かして政宗の袖口の衣服をぎゅっと握り締めて引いた。
「―――保健室へ―――」
それだけ言うと俯いて肩で息をする。
政宗は少し逡巡していたようだが、よし、と言ってそのまま元就を抱えるようにして歩き始めた。小十郎に、今日はクラブ休むから早目に迎えに来いよ、と声をかけた。
元親を途中でちらと見ると、彼はじっと、先ほどと同じ校門の外で立ち竦んでいて、傍で困ったように市子が元親を呼んでいるようだった。
「・・・あいつ、マジで織田に乗り換えたのか?なぁ?」
思わず聞くと、元就は、我に関係ない、とつっぱねるように言った。
廊下をしばらく一緒に歩いたが、やがて元就は、もういいと呟き一人保健室に向かって行った。政宗はその背中が廊下の角を曲がっていくのを見届けて、それから自分の教室へ踵を返した。
(どうでもいいことだ)
そうとも、すべてがどうでもいいこと。
元就は、もぐり込んだ保健室の消毒薬のにおいのする白い布団の中、小さく小さく体を折った。閉じた瞼の裏で、義母と、元親と、死んだ父や兄の顔がくるくると回った。
誰と誰がどうであろうと。誰が何をしようと。すべてがどうでもいいと思えた。
けれど、どうでもいいと考えているその張り巡らせた自分の神経が、先ほど必死に元親の気配を探っていたのも知っている。
彼は動かずじっとこちらを見ているようだった。か細く、長曾我部さんどうしたの、と市子の声が鼓膜に届いたとき元就は唇を噛んだ。きっとこっちを見ているのだ。どうして見るのだ、我を?貴様にとって「どうでもいい」存在だろう、我など。
(ならば、我に、構うな)
元就と政宗が歩き去るのを、元親はじっと見つめていた。
今朝も校門近くで市子とばったり出会った。やっぱりびっこをひいていたので、生来優しい元親はどうしてもそのまま通過することが出来ず、自転車を降りて一緒に歩いた。浅井がいたらきちんと、別に自分は織田に思うところは無いとはっきり言うつもりだったのだが、今日も市子は一人で、浅井は一緒ではなかった。そのことを尋ねると、市子は少し悲しそうな顔をして俯いてしまったので、元親もそれ以上浅井のことを聞くのはやめた。
そうやって昨日の和菓子の礼を言いつつ一緒に歩いていると、校門近くで見覚えのある黒い車が通り過ぎたのだった。政宗の車だな、今日もアイツは寝坊して送りつきかよ、と元親は一瞬苦笑したが、車窓に政宗ではない自分の見知った顔をもうひとつ見つけて愕然とした。
やがて停まった車から降りてきたのは伊達だけではなく元就だった。
元就は少し具合が悪そうで伊達が肩を支えながら、大丈夫か?と聞いている。二人の視線が同時に元親と合った。元親は咄嗟に何を言えばいいかわからなかった。何故二人が一緒に、と思うと同時に、自分も、市子を傍に今日も連れていることに気づいた。
元就は元親を見なかった。そのまま伊達に寄りかかるようにして校舎へ消えていったのだった。元親は呆然とそれを見送るしかなかった。
袖がそっと引かれて、長曾我部さん、どうしたの。と市子がおずおずと問うてくる。
「あぁ、・・・なんでもねぇ」
元親は笑うと、向こうから走ってやってきた幸村を見つけて、いつもどおり屈託無く手を挙げた。幸村の後ろから佐助も来て、二人を見て肩を竦めている。すれ違いざまに、アンタいいかげんにはっきりしないと俺様知らないよ、と苦言を受けてしまい、元親は苦笑した。
二人を見送って、元親は吐息をひとつ、市子に尋ねた。
「なぁ、織田」
「はい」
「あんたさ、浅井をどう思ってんだ?」
突然の質問に、市子は大きな黒い目をいっぱいに見開いた。やがて困ったように俯くと、長政さまは市の出来が悪いから、市が嫌いなのと応えた。
元親は笑った。
「そりゃ、浅井があんたをどう思ってるかっていう答えだろ。しかも、浅井の意見じゃなくて、あんたの想像だろうが。ん?」
「・・・・・・え。」
市子はぽかんと元親を見ている。元親は、俺はあんたの意見を聞いてるんだぜ、と再び問うた。
「・・・市は」
市子は、ほんとうに困ったように、よくわからないと答えた。きっとそれは本心なのだろうなと元親は思った。
「市、長政さまが怒るとどうしたらいいかわからなくなるの。・・・でも、心配してくれるのは嬉しい。だから市は、もっと、しっかりしたいなって」
「嫌いか、あいつのこと」
「・・・嫌い?嫌いって?市が長政さまを?・・・ううん、嫌いなわけがない」
何故そんなことを聞くの、というふうに市子はかぶりを振った。
「市を嫌いなのは、長政さまだから・・・市は、嫌いじゃないの。嫌われたくないの。でも何をしてもいつも長政さまは怒ってるの、市と一緒にいると」
「・・・そうだなぁ」
「あなたも、そう思う?やっぱり、怒ってるよね、長政さま・・・」
「いや、違ぇよ。そうじゃなくて、あいついっつも怒ってるけど、あんたに怒ってんじゃねぇと俺は思うけどなぁ」
浅井は、うまく気持ちを表せない自分にいらだっているのだろう、と元親は思った。
そうして、こんなに他人のことならば・・・鈍い自分でも、佐助に聞いたおかげだからというのもあるけれど、他人の関係ならよく見えるのに。どうして自分と元就のことはわからないんだろう、と苛立つ。
やがて市子は、同じクラスの女生徒を見つけたらしく、それじゃあと挨拶して先に校舎へ入っていく。元親は自転車置き場へ向かいながら、クラスに入って伊達と話すのも億劫なことだと思った。きっと偶然居合わせて元就を学校まで送ってきただけだろう。彼は自分の元就への執着を、最初から半ば呆れ気味に、ときにはからかいながらそれでもずっと見て知っている。
別に嫉妬を感じるわけではない。
ただ、自分を見たあと伊達にすがりつくようにして、すなわち自分と話すのを避けた元就の様子だけがどうしてもどうしても頭から離れなくて。
昨日佐助に、堂々と真正面から話をしろと言われたばかりなのに、やっぱり足がすくんでしまう自分が女々しくて嫌で、元親は長い長い溜息を吐いた。
市子の言葉を思い出し、浅井が羨ましいと思った。浅井は少なくとも嫌われてはないのだ。ただ上手くお互いに意思の疎通が出来ていないだけ。
けれど元就は自分が嫌いかもしれない。
嫌われるというのは、自分というものを否定されるってことなんだな、と元親は考えて、ひどく哀しい気分になった。いまだかつて人からはっきりと「嫌い」だといわれたことがないから、その言葉を、しかもとても好きな人の口からはじめて聞くのはきっと耐えられないだろうと、想像して眩暈を覚えずにはいられなかった。
結局元就はその日のほとんどを保健室ですごした。最後の授業だけ出席しないと多少まずかったので無理矢理席に座ったが、昼食も何も食べなかったので集中力がなくノートも白いままで終わってしまった。
ふらつく足で校門を出ると、今朝乗ってきた車が停まっていた。
「おい、乗ってけよ」
傍らに立っていた政宗が、後部座席のドアを開けた。元就は小さく眉を顰めて、いらぬことを、と呟いた。
「そんなフラフラの奴をほうっておけねぇだろ。ついでだから乗ってけ」
「・・・貴様も大概おひとよしのおせっかいよな。片目を失うとそうなるのか?」
辛辣な毒を吐いたことに元就も気づいたが、別段傷ついたふうでもなく、あぁそうかもしれねぇな、と政宗は笑って元就を朝のように後部席に座らせた。
しばらく三人とも無言の時間が流れた。先に元就のマンションへ送っていくつもりなのだと走る道を見て元就は気づき、申し訳ない片倉どの、と礼を言った。俺には礼無しかよ、と政宗がふくれたので、元就はやっと小さな声で、すまぬ、と呟いた。
「まぁ、それはいいが。アンタ、ちゃんとメシ食ってんのか?今も顔色悪いぜ」
「・・・・・・食欲がない」
「今日、元親も一日中ヘンだったぜ。アンタたちどうなってんだ」
「・・・貴様には関係ない」
「まぁ、関係ないって言っちまえばそうだけどよ」
またしばらく無言。
「あぁ。・・・そういや、アンタ。毛利建設の跡取りなんだって?今は名前変わってるが」
その名前を聞いて、元就は口元をゆがめた。
かつて父が経営していた会社だ。今は重役連中にのっとられて社名も変わっている・・・
「・・・さすが、伊達組の跡取りだな。潰えた弱小企業まで覚えているのか」
「そりゃなぁ。同業だしな。選挙のときも結構親父同志は一緒にやってたって話だからな、聞いたことくらいは」
「・・・ふん。今は、見る影もないがな。」
「アンタ、役員に名前連ねてるじゃねぇか」
「名前だけだ」
「ふーん」
政宗は、ひとつのびをした。
「議員の・・・なんつったっけ。高橋だっけか。バックについてるって聞いたぜ。アンタの母親の関係だろ?それでなんとか持ち直したって」
「・・・彼女は我の母ではない」
元就は流れる窓の外の景色を見た。
そうだ、彼女のおかげで自分は今こうやって生きている。彼女がいなければきっと児童福祉施設かどこかに預けられて、今、どうしていただろう?
結局は、捨てられたのだけれど。
「・・・父の後妻だ。我の母ではない。育ててもらったのは確かで、感謝しているが」
言って、目を伏せる。そんな元就を見て、伊達はにやりと笑った。
「そういやアンタ、実の家族全員もういないんだったな」
「・・・それが、どうかしたか」
「オレもだ」
意外な言葉に元就は視線を上げた。
「・・・?貴様は、実の母御がいるはずだろう?」
「お袋は、親父死んだあと弟連れて実家へ帰っちまった」
「・・・」
「生きてるぜ。時々電話寄越してくる。息子と話すというよりは、経営者の立場の人物と交渉してるって感じだけどな」
「・・・・・・何故?」
「そりゃあ。お袋とお袋の実家は、伊達組が欲しいらしいからな。ったく、女が権力欲もつとろくなもんじゃねぇ」
「政宗さま」
車を運転していた小十郎が口を挟んだが、政宗はまぁいいじゃねえか、と笑っている。元就は更に問わずにいられなかった。
「何故。貴様、実の息子であろうに。黙っていても母御は経営者として発言権を得られよう」」
「オレは嫌われてるんだ。この目のせいで。お袋は、完璧主義者だからな」
そう、さらりと言われて、元就は口を噤んだ。
政宗は義眼だ。幼少時に病気で右目を失ったという。
弟に伊達組を継がせたいんだよ、と、政宗は眼帯をつけた右目を指差して笑っている。
別の目をいつも隠している元親を思い出してしまい、元就はやがてひとつ溜息を吐くと、深くシートに凭れて右腕で顔を覆った。
「それでも、アッサリ切るわけにもいかねぇよな。母親だから。面倒なことだ」
「・・・・・・」
「それに比べりゃ、アンタの継母さんは偉いと思うぜ?オレは話聞いたとき結構感心した。大事にしてやれよ」
「・・・貴様はうそつきだな、伊達」
「Ah?」
政宗は、元就の唐突な、脈絡のない言葉に首を傾げた。
抑揚のない声が告げる。
「母御と別れて、辛くないはずがなかろう。何故笑う?」
その言葉に、政宗は吃驚したように息を詰めた。
元就は顔を覆ったまま。
やがて、己に問いかけるように、ゆっくりと。
「・・・我は。・・・我も、・・・“辛い”のか・・・?」
元就が問うた言葉が車内に静かに響いて、それからしばしの静寂。ハイブリッドの車内はひどく静かでエンジン音も聴こえない。だから伊達のひそめた呼吸も、元就の逆に耳障りなくらい荒い呼吸も互いによく聞こえた。
やがて、政宗が噴出した。
「・・・くっ、ハハハ!!!アンタ、面白いな!!!元親が入れ込むのが分かった気がするぜ」
「・・・奴のことは余計だ」
五月蝿そうに身を捩ると、元就は政宗に背を向けるようにしてドアに寄りかかった。
「辛い」のだろうか。
そんなことは考えたこともなかった。途方に暮れたことは数多くあったと記憶しているけれど、辛い、と思った記憶がない。
でも、義母が去って、元親を疑って、今こんなに苦しいのは、辛いと思っているということだろうか。
ほんとうに大事で、好きなものに去られるから、辛いと思うのだろうか。
(・・・あんな)
元親の顔を思い浮かべて元就はきつく目を閉じる。
(あんな、勝手な、男のことなぞ)
(自分から勝手に我に近づいて、翻弄して)
(飽きたら捨てるか。あんな奴なぞ)
かばんの中にある携帯の、あの画面が目にちらついた。
(6)