コイビトバトン





(7)


大丈夫です、という声は掠れていて自分でも滑稽なほどだ。余計心配させているであろうことは明白だった。
それが嫌で元就は笑顔を「作る」。
最初に元親と関わったとき奴はこの顔を見て激昂したものだった。なんだその顔は。腹から笑え、と。今この表情を作らせているのは貴様ではないかと理不尽な怒りがこみ上げる。
優しい声が、やっぱり具合が悪いのね、そういうときは頼ってくれればいいのにと告げる。子守唄のようだ。頼っていいのだとこれまで何度も言われたから知っている。でもそれがもし本心ではなかったら?もっと彼女が自分に愛想を尽かしそうで怖くて言い出せなかった。
それならば何故此処を出てゆかれたか、と。聞けない自分が無知な駄々を捏ねる幼子のようで悲しい。



綺麗にしてあるのね、偉い偉いと彼女はキッチンで元就を褒めている。家政婦がいるのだから当然だろうと思っていると飲み物の入ったコップを持ってソファに寝転がった元就のところへ運んで来た。
「・・・なんです?」
「スポーツドリンク。まずは水分取りなさいな、何も食べていないんでしょう、その様子だと」
さっき元親の持ってきていた品に同じようなものが入っていたことを元就は思い出す。どうして自分の惹かれるひとは似ているのだろうと不思議に思った。
否、単に元就が自分の惹かれた人に共通のものを見つけようと無理にこじつけているだけかもしれない。
黙ったまま元就はおとなしく起き上がり液体を喉の奥に流し込んだ。その様子を見て彼女は少し安心したようだった。唐突に、お友達と喧嘩でもしたのと問われた。
元就は再び横たわりながら視線を逸らせた。
「あ奴は、友人などではありません」
「さっきの子のこと?では、喧嘩はしたのね」
「友人ではないので喧嘩のしようもない」
「嘘おっしゃい。お友達でなければ、彼、此処まで来ているものですか」
相変わらず聡いことだと元就は内心苦笑した。
確かにそうだ。彼女と暮らしていた数年間、元就はクラスメイトを自分から呼んだことなどなかったし此処まですすんで来る者もなかった。
元親だけが此処に入った。
それを知ってかどうか分からないが彼女は嬉しそうだった。お友達と喧嘩できるようになったのね、と言っている。随分矛盾しているなと元就はぼんやり考えた。喧嘩しているということはもうその関係は終い、とも考えられるではないか?
お熱は無いようねと額に白い手が伸びて触れる。咄嗟に体が強張った。
それに気づいて彼女は元就を覗き込んだ後、少し困ったふうにきゅっと眉を寄せた。
「子供扱いはいけないわね。ごめんなさい」
「・・・・・・いえ」
「・・・元就さん、私のこともう嫌い?」
すとんと、ごく自然に彼女の唇から転び出た言葉に元就は呆気に取られた。
「・・・そんなはず、が、ない。我は」
無意識に出た声は震えていた。





「・・・嫌われているのは、我では、ないのか?」





音声にしてしまったことに、数瞬経ってやっと元就は気づいた。がばりと跳ね起きると、申し訳ありませんと俯きながら繰り返した。言ってしまった内容そのものもだが、何よりも彼女に対して言ったはずが、いつのまにか元親に対して応えていたことが口調に表れていた、悔しくてたまらない。
(どうして二人して同じ質問をするのだ。どうして)
彼女は吃驚したように瞬きをしている。しばらく経ってから、可笑しくてたまらないというふうに口元に手を当てて笑った。
そんなはずないでしょう、という言葉が項垂れる元就に降ってくる。
(・・・では、どうして、出てゆかれたのか)
聞きたくて聞けない同じ質問がぐるぐると巡る。柔らかい掌が元就の色素の薄い髪を撫ぜている。元親もそうやっていた、この家で、元就をふいに抱きしめて。
(嫌っていないなら、どうして、我に関わるのか)
(お義母さん、あなたも、長曾我部も)
(どうして?)



ふと、はい、嫌いですと、本当にその言葉を元就が返したら彼女はどうするつもりなのだろうということに思い至り、瞬間からだが震えた。
(・・・それとも、もしや。その言葉を待っているか)
(我からもっときっぱり離れるための理由として)
さっき元親も同じことを聞いてきた。
目の前の人はあの精悍な男とは似ても似つかないというのに。年毎に幼い頃に死に別れた実母の面影を宿してくる。でも実母よりもっと強い人だ。きっと父はだから歳稚いこのひとを無理をして傍に置いたのだろうと思う。父は随分この人に救われたに違いない。自分も、そうだ。
何故、あの男と、同じことを。
嫌いだと、うそをついて。彼女も、元親も、自由にしてやったほうがいいのだろうか。そんなふうに考えてしまう。
けれど、言えないのだ。







綺麗な人だったなぁ、と、信号の変わるのを待ちながら元親は考えた。
少しだけ元就と面影が似通っていた。さっきの元就の知り合いらしき人。最初、元就の姉かと思ったが、血のつながった家族は皆死んでしまったと確かそれだけは聞いたことがある。
(・・・“彼女”?)
そう考えるには年齢が少々離れているとも思うが、何せ元親は元就のプライベートを知らない。だから、そういうことがあっても別に不思議ではないと思えた。実際彼が今どうやって学費を捻出しているのかということも(成績優秀者だから奨学金が出されているのかもしれなかったが)、あのマンションをどうしたのかも知らない。何も知らない。話してくれたことは無いし、元親も踏み込む気もなかったから当然だが、今となってみれば少しくらい尋ねておけばよかったと思う。
とても自然に、慣れたふうにあの女性は元就の傍に立ち、部屋の中へ入って行った。羨ましいと思う。どうして自分が今あの位置にいないのだろうと詮無いことを考えて首をゆっくり左右に振った。
(もしかしたら)
最初から、傍になんて立てていなかったのかもしれない。元親の言葉も心も、実際はあの氷のような表情には届いていなかったのかもしれない。最初から、彼にはあの人がいたのだとしたら、自分は随分間抜けだなと寂しく笑った。



自宅近くまでゆっくりと自転車のペダルを踏んだ。
しばらく住宅街を走って、それから大通りに出たとき反対車線側の歩道に自分と同じ制服を見かけた。よくよく見てみればそれは浅井であった。
こぢんまりしたケーキ屋の前に近づいたかと思うと、バス停に戻り、またケーキ屋をちらちらと見て近づきかけてはバス停に戻る。元親はしばらくその様子を見ていたが、ひとつ溜息を吐いて折りよく青に変わった信号を渡った。
「よぅ、浅井」
声をかけると浅井はひどく驚いた。そして聞いてもいないのに、俺は別に何か買おうとしているわけではない、などと上ずった声で言った。元親はふと気づいて笑った。
「お前、自分のこと俺って言うのな、本心出るとき」
「・・・な、」
「織田さんに見つくろってんのかい。甘いもの好きそうだよな、あの子」
明らかに狼狽えている浅井はそのまま、元親はケーキのショーケースを覗き込みながら言った。浅井はそれを聞いてぷいと横を向いた。けれど、織田さんきんつば助けようとして足首ひねったって言ってたからなぁ、と元親が可笑しそうに言うと、浅井は吃驚したといわんばかりに身を乗り出した。
「きんつばを?助け・・・?」
「あー、ちがうちがう。なんか、落ちそうになった和菓子屋のケース、受け止めてやったって。きっとじーっと見てたんだろうなぁ、今のお前みたく」
浅井は怒っているのか照れているのか顔を紅くした。
それから、やっぱりあいつは馬鹿だ、と口の中で呟いた。
「一人では危なっかしくて放っておけん。いつもぼんやりして、俯いて、自分は悪くないのに謝ってばかりで、・・・大丈夫だと言うからほうっておけばおいたで怪我をする。俺がいなくては駄目だと思うから俺はあいつに、・・・」
浅井の言葉はそこで止まった。
この間の市子の捻挫を元親は思い出した。浅井は自分が一緒にいなかったときに市子に怪我をさせたことを悔いているのだと、元親は気づいた。悔やんで、申し訳なくて、浅井のほうから謝りたいのだろう。でも市子はいつもの口癖で浅井にそうさせてくれないのだ・・・
「・・・あの子がすぐ謝るのは、自分が謝ることでその場が丸く収まればいいと思っているから、じゃねぇのか?つまりは、あの子が優しい証拠じゃねぇか」
そう元親は思ったのでそのまま告げた。
けれど浅井は語気を荒くした。
「優しいだと?自分が悪くなくても謝って。馬鹿な奴だ。心底苛々する」
「自分が悪いことにしておけば他の誰も傷つかねぇから・・・じゃねぇのか。」
「・・・貴様は、まるで市をずっと見知っているように言うな。根拠はあるのか」
「ねぇよ。俺がそう思うだけで」
「・・・あいつが、気に入ったか」
昏く、ぽつり、と零れた言葉。あいつも貴様は気にいっているようだ、と。
きっと本音だなと元親は思った。
押していた自転車に再び跨ると元親は笑った。
「さぁてね。俺はあの子とちゃんと話したの、多分まだ三回くらいしかねぇからな」
「・・・なんだと?」
その言葉に、驚いたように浅井は元親を見ている。元親は静かに笑った。
「嘘じゃねぇよ。心配なら本人に聞いてみな。・・・ほら、浅井。ケーキ残り少なくなってんぞ、買うんじゃねぇのか」
浅井は慌てて振り返った。それから、別に俺は、と口篭る。
いいなお前は、と元親は思わず言った。
「織田に、買って、持ってってやれよ。捻挫の見舞いだって。絶対受け取るぜ、喜んで」
「・・・何故そんなことが貴様に分かる?」
「織田が、言ってたからよ。お前に嫌われてるんじゃないか、どうやったらお前は怒らないでいてくれるのか、・・・ってな」
浅井はそれを聞くと目に見えて狼狽した。
「嫌う?・・・俺が、市を?どうしてそんなことを?いつ俺があいつを―――」
独り言のように繰り返している。
見ているうちに、元親の脳裏にふいに、元就の姿が浮かんだ。元親は溜息をそっとついた。
「・・・いいよなぁ。お前は、嫌われてねぇ、織田はお前が好きなんだよ、浅井」
「・・・え、」
「だから、あんま、あの子に怒ってやるなよ。一生懸命、お前に嫌われまいとがんばってんのに。たまにゃ素直にいろんなこと、言ってやれよ。なぁ?」





無言になってしまった浅井をそのまま放置して、元親はペダルをこいだ。
途中で携帯の着信音が鳴って元就かと期待して慌ててかばんから取り出したが、それは佐助からであった。週末の試合についての連絡網だった。元就からの着信はメールも電話も専用のものにしてあるのだから違うと最初からわかっているのに期待してしまった自分が滑稽だった。元親は落胆しつつ携帯をしまいこんだ。
かばんの中に、さっき元就のために買った品物が入っている。溜息をひとつ。
「・・・いいよなぁ、ほんとに」
浅井を思い出して、心底羨ましいと思う。
(・・・それでも、俺ァな、毛利)
(諦め、悪いからさ)



ほんとうに元就の口から、はっきりと嫌いだという言葉を聞くまでは、望みを捨てないでおこうと元親は思うのだ。


(8)