融解





(前)


元就がその部屋に足を踏み入れたとき、元親の姿は見えなくなっていた。早朝に帰るという言葉どおりにしたのか、という、どこか安堵したような、それでいて裏切られたような気分になる。
(・・・挨拶くらいしてゆくのが礼儀であろうものを)
部屋の中をぐるりと見回す。敷布団が乱雑に壁際に折りたたまれて積まれている。そんなことは世話役の者に任せておけばよいといつも言うのだが、元親は律儀にそうやって部屋を片付ける。
けれどそれ以外は元親がつい先ほどまで此処にいたという形跡はまったくと言っていいほど残っていない。
元就は形のいい眉を顰めた。



そのまま仕切り戸を閉めるのが躊躇われて、なんとはなしに元就は部屋へ入った。そうしてふと気づいて目を瞠る。
堆く積み上げられた傍らに縹(はなだ)いろの着物。元親の寝衣だと記憶している。
手を伸ばして触れてみる。そんなはずはないのに、元親の体温が残っているように感じて元就は驚き、慌てて手を引っ込めた。霧のかかった海のような色のそれはぱさりと音をたてて床の上に落ちる。
元就はしばし見つめた後そっと拾い上げた。
皺のよった着物を抱く。冷たい。顔を埋めると絹はひんやりと元就を包んだ。自分の薄い呼吸で、口元の当たっている部分が少しずつ暖まる。
いちど元親と不本意ながら共寝したことがあったが、こんな頼りない温度ではなかった、と思った。
元親の全部は、どうしようもなく「暖かい」と思う。
そんなふうな言葉は、自分にしては珍しい、と元就は思った。



昨晩、元親と口論になった。
国政の根本に関わること――――“野郎ども”あっての国、と元親は考え、元就は国あっての“駒”だと思っている――――以外では元親は大抵元就のやり方や考え方に、それがたとえ自分のものと違っていても否定はしない。だから、何故元親が「俺ァ夜になったら帰らせてもらう」と言うほどに怒ったのかは、元就にはわからない。覚えてもいない。
ただ、勝手にすればよい、と言ったものの、まさか本当にその夜にいきなり船を出すとは思っていなかった。だからからっぽの部屋を見たとき、意地っ張りめと思ったのは事実だ。勿論元親のことは言えない、自分も明らかに意地を張っていると自覚している。



元就は急に寒さを自覚して震えた。
早朝なのだ、まだ。元親が帰ったのはもっと暗い時間だったのだろうか。今とて、乳白色の霧が立ち込めて朝日が昇ったかどうかも定かではない。庭先に植えられた木々の枝がかすむほどに霧は濃く、喉が苦しく感じるほどに気配が重かった。
(寒いな)
なんとはなしに心のうちで言ってみる。
まだ朝早い日輪も出ていない。
ただ元親が帰ったかどうか確認するためにこの部屋に来た。そして奴は言葉どおりいなかった。
(・・・寒い)
しばし逡巡した後、元就は黙って、壁際の敷布団を引いた。部屋の中央までずるずると引き摺ると、そこに適当に折りたたまれた端を拡げた。客間の真ん中、ぽつんと寝床は斜めに歪んで現れた。さっきまで元親がいたはずの場所だ。元就は静かにその上に正座した。当然のように芯まで布団は冷えており、ただ脚に当たる固い感触が空しいと思った。
先ほどの元親の夜着を、元就は肩に羽織った。ひとつ首を傾げ、あたりをゆっくりと見回す。板戸の締め切られた室内には誰がいるわけでもないのにそんなふうに人目を気にした自分が馬鹿馬鹿しいともみっともないとも思った。元就は落ち着かない気分で立ち上がった。
けれど、一旦思いついた考えは容易に消えず、しばらく夜着を抱いたまま立ち竦む。
やがて、元就は自分の今着ている鶯色の着物をのろのろと脱ぎはじめた。
途中で、よく元親が座って書物を読んでいる場所を見た。白い鬼はいない。足元の元親の着物に、少しだけだ、と言い訳した。元親が知ったら怒るだろうかと思ったが、この程度で元親が怒る様子が想像できなかったので気にしないことにした。けれどそうすると昨夜元親が怒った理由がやっぱりよくわからないことを思い出しひとつ舌打ちをした。
(あの男のせいで自分が普段と違う動きや考え方をするのは、どうにも腹立たしいことだ)
着物を脱ぎながら、よくこうやって子供の頃兄の着物に袖を通しては早く大きくなりたいと考えたものだ、と思いを馳せてみる。
全て脱ぎ終わると、元就は元親の夜着を手に取った。
寒い、と呟く。
元就はそうして、元親の着物へ忙しなく袖を通した。背の高い大柄な元親に合わせて誂えられたであろうそれは、当たり前だが小柄な元就には大きすぎて、袖の先から指先がかろうじて見えるか見えないかという具合だった。不器用に袖をたくし上げ、腰周りの端折る部分をいつもの倍以上折って、腰紐でぐるぐると体に合わせて巻きつける。
着あがった姿は、誰に見てもらわずとも、哀しくも滑稽に違いなかった。
それでも元就は、ほっと息をつくと、首を回して背中やら胸元やら足元をぐるりと見回した。
絹はさらさらと心地よく、皮膚に当たるひいやりとした感触がどこか元親の髪の色のようだ。元就は着物の上からゆっくり満足そうに自分の腕を擦った。それから、寒いな、とまた呟いて布団にごろんと横たわると身を猫のように縮こめ、元親の着物ごと自分を自分の腕で抱いた。じっとしているうちにだんだんと暖かくなってくる。



(・・・長曾我部の匂いがする、な)



考えて、それからどうにも可笑しいような情けないような、ぽかりとあいた穴を覗き込んでいるような気分になった。こんな子供じみた悪戯をしている毛利元就は誰だろう。こうやって元親の着物を着て元親の部屋で元親の布団の上で蹲って。どうしようというのだろう。童の頃こうやって、やってきた誰かを吃驚させたような気もするが、さて今自分は何が目的でこうしているのだろうか。
元就は膝を抱え更に身を縮めた。それから、また、寒い。と呟く。篭った自分の声が元親の絹に吸い込まれる。
ああそうだった、寒くて仕方ないのだ。だからこうしているのだろう。自分で自分を納得させて、それ以上は考えないことにした。しばらくたって暖まったら、日輪が昇ったら、着替えるとしよう。それでいい。
だから違うことを考えようとしたのだが、その身に纏う着物のせいか思い浮かぶのは長曾我部の顔だけで、それはそれで腹立たしいことだと思った。今朝のことは、全部奴が一人怒って勝手に帰ってしまったからだと元親に責任を転嫁してみる。
(・・・どうして長曾我部は、怒ったのだ)
帰り際に自分へ挨拶をしたくないと思うほどに。
無理に、まだ暗い海へ船を出してしまうほどに。
自分と会っていた数日を無かったことにしたいのだろうか、とふいに思いついて、それはつまりもう二度と会わぬということだな、とゆっくり呼吸を吐いた。奴と会うも色々と面倒ではあるが、奴と決裂するのはもっと面倒なことだ。戦になるだろうな、とぼんやり考えた。あの鬼と闘うことを思い出してみたが、かつて確かにその事実はあった筈なのにひどく印象は曖昧で、戦よりも国どうしの取り巻く状況が変わることよりも何より、この部屋にもうあの鬼が来ないというそのことばかりに思いが至った。
寒さが募ったように思えた。
(・・・さてこの感覚は、)
寒い、と言うのであったろうか。
元就はようやく気づいて、元親がもっと適切な言葉を言っていたようなと記憶を辿った。
『寂しい奴だな。ひとりぼっちじゃねぇか』
(・・・“寂しい”?)
思い出して口ずさんで、すぐに元就はふんと鼻を鳴らした。
くだらない言葉だが、もっとくだらないのは自分と、何より元親だ。
散々人の耳に鬱陶しくもその言葉を吹き込み続けておいて、結局それを感じさせているのは元親本人ではないか。奴が来て奴が帰るたびに、今日ほどでなくてもいつも自分は寒さを感じていると思い出す。
無責任な男だと思った。





「・・・長曾我部」





その名を呼んだ途端冷気がひゅうと潜り込んできて、元就は驚いて跳ね起きた。
先に焦点が合ったのは閉めてあったはずの縁側に面した板戸だった。開いている。何故、と思うそのままに自分の隣を見遣る。
板戸を開けたとおぼしき人物が元就のすぐ近くに胡坐をかいていた。僅かに届く潮の香。うすくて冷たい、元就一人の布団の傍に。
「・・・よぅ」
もう聞き慣れてしまった低い鬼の声がして、元就は一気に現実に引き戻された。自分の現状を慌しく脳内で反芻したが何をすべきなのか咄嗟に理解できない。だから元就の取った行動は最も愚直なものだったかもしれない・・・自分のさっきまで着ていた鶯色の着物を手に取ろうと、床に落ちているそれに半ば飛び掛らん勢いで腕を伸ばしたのだ。当然のようにするりと鬼の腕が先に伸びて奪い取られる。あぁ、と元就は、宙に浮いた己の着物を見上げて呻いた。それから我に返り、元親を睨みつける。
元親は、手にした着物と元就を交互に見つめていた。
鶯色の、元就の着物。
元親はやがて小さく笑うと、その着物を自分の肩から羽織って元就を見た。
「・・・取替えっこあそびかい?毛利?俺もこんなもんでどうだ」
「・・・痴れ者が」
悪態ごとき気にもならぬとばかりに、元親はぽいと部屋の隅へ元就の着物を投げ捨てた。もういちど元就は、あ、と声を出した。けれど同時に元親が元就に圧し掛かる。
鬼の唇が開いて元就の呼吸を塞ぐ。
時折こうやって元親は、ただの友誼には些か不釣合いな真似をする。
そのまま布団へ押しつけられた。最近は、そうやって、ゆるゆると互いが互いの口唇を確認しあうこともあったが(全く不思議な行為だ、なんの意味があるのか犬猫のじゃれあいか?)、今日は元就は激しく顔を振って口元の自由を強引に奪い返した。
「・・・ッ、やめろ、」
「・・・・・・」
「貴様、何故に此処にいる。帰ったのではなかったのか」
「・・・忘れ物したんだよ、うるせぇな」
元親は、心底面倒そうな声を出した。そんなふうに元親が元就に対してぞんざいな声を出すのは珍しいことだ。争っているときですら真摯に相手の心を貫こうとする男だというのに。元就は、だから怯んだ。それを見逃さず、元親はすさまじい力で元就をさらに布団の上に押し付ける。ゆらゆらと、ひとつ目の眼光は焔のように揺れていた。
そうして、これは俺の着物だよな、そうだよな、毛利?と。
「・・・ちがう、我は」
聞かれていることとは別のこと――――に、思いを馳せて、元就はちがうと呟いた。
元親はじっとそう言う元就の顔をしばし見つめると、ふ、と笑った。それから、違わねぇよこれは俺のだ、返せよ。ともう一度呟くと、元就が先ほど巻きつけた腰紐を解いていく。その手つきは慣れていて、元就はふと、妾たちの着物を彼はこうやって閨で脱がせているのだろうかと考えた。途端に恐ろしいくらいに動悸が襲ってきて、慌てて自分の想像した絵を脳裏から追い出そうとしたが、一度こびりついた印象は拭い去れず、どうにもばつの悪い気分になる。
動悸がどんどん早くなる。きっとこの後ろ暗い想像のせいだ、と元就は元親に申し訳なくなった。けれど申し訳ないと思いながら一方で紛れも無く元親に腹を立てている自分に気づいて、益々わけがわからなくなった。
元親は相変わらず器用に手を動かして元就を脱がせていく。抵抗するのも無駄のような気がしてきて、元就は黙って元親のするがままにさせておいた。冷気がぴりりとむき出しになった肌を刺す。部屋の中まで外の霧が入り込んでいるのか、それとも昇りかけた日輪が淡い光を送り込んでいるのか。不思議なほどに静かで、空気が白かった。



元就の着ていた自分の夜着を全部剥ぎ取ってしまうと、元親は黙って横たわる細い肢体を見つめた。寒さで粟だった肌に気づいて、黙ったまま掛け布団をかけてやる。元就はその間も、ぼんやりと元親とは反対の方向の壁へ顔を向けていた。
自分がやった他愛ない「悪戯」――――元親の忘れ物を勝手に触ること――――は、普通に考えれば誰にもなにも責められる筋合いのものではないように思えた。すべては気紛れの為したことだ。深い理由なぞない。
謝れといわれるなら謝るまでよ、と元就は、すでにさばさばした気分になっていた。
「・・・気がすんだか、鬼よ」
先にそう言えば、元親はまだ黙って、自分の忘れていった着物を抱いて其処に座っている。
「勝手に貴様のものに触れたは我が悪かったのだろうな。それについては謝ってもよい」
「・・・・・・おぅ」
「だから、もう、気がすんだであろう。去ぬるがよい」
「・・・・・・」
「その着物は確かに貴様のものだが、この布団も、部屋も、そもそもはこの元就のものぞ。このまま我が此処で寝ていようと貴様には関係ない話、」
「何故だ?」
元就の声を遮って、元親は尋ねてきた。
元就は黙って、鬼の片目を見つめる。元親はいつの間にか苦しそうな呼吸をしており、その様子を元就は不審に思った。気分が悪いか、と、上半身を起こしてそこは本気で心配してたずねてやる。
元親は口元を掌で覆うと、黙って首を横に振った。
「そうじゃねぇ」
「・・・ふむ」
「だから、あんたは、・・・何故だ?」
「・・・先程から質問の意図が不分明だな。何に対して何故、と訊いているのか貴様は」
「あんたはなんでそんな、冷静なんだ?」
「意味がわからぬ」
「だから」
元親は自分の白髪をかき混ぜた。馬鹿野郎、と呻いている。元就が眉を顰めると、元親は泣きそうな笑顔をした。



「どうして、あんた。こんな真似を。どうして、俺の着物を。どうして」



「・・・・・・」
「俺のいた部屋で。俺の寝ていた布団で。なんのつもりだ。何が言いたいんだ?」
「べつに・・・なにも・・・」
元就はひどく困惑した。
そうとも困惑としか言いようがない。何がしたかったのか自分でも分からない。ただそうしたかったから行動した。元親が此処へ帰ってくるなぞということは、元就には与り知らぬことだし、仮に知っていたとしたらこの部屋をこの時間に訪なっていなかっただろう。だから、元親が何を聞きだそうとしているのかは元就には理解できない。
ただ、ひとつだけ思い出して、元就は頷いた。
「寒かった・・・な」
「・・・寒い?だと?」
「だから貴様の着物を借りた」
嘘ではないので、元就は真っ直ぐに元親を見つめてそう告げた。寒かった、その感覚がさっき思ったとおり本当に「寂しかった」のかは元就にははっきりとは分からない。だからそれは言わなかった。
元親は益々苦しそうに額へ手を当てる。元就は流石にその様子を不審に思い、大丈夫かと片方の手を伸ばしたがきれいなぱしんという音と共に払われた。吃驚して手を引っ込めると、元親は、また苦しそうに一度払った元就の手を、すまねぇと言いながら恭しくとても大事そうに自分の両手のひらで包んだ。
「毛利、俺は」
「・・・随分貴様は怒っているのだな。長曾我部。これしきのことで、と思うは我が浅慮なのか?」
「怒って・・・あぁ、俺は、怒ってるのかな・・・よく、わからねぇ」
「もう去ぬるがよい。目的は果たしたであろう」
「・・・・・・」
「何故貴様が怒っているのか、よう我には分からぬが」
元就は素直に思ったままをぽつりと口にした。
「すまなかったことだ」
「・・・俺にすまないと思うのは」
元親はまた泣きそうな顔をした。
「それは、なんに対してだ?」
「・・・着物を勝手に触れたことではないのか」
「そのことは俺は別に怒ってるわけじゃねぇよ」
「さっき貴様は、何故此処でこの着物を着ている、と我を詰ったが」
「だからそれは――――」
「もうよい、長曾我部」
元就はのろのろと布団から出た。
「去ね。これ以上罵り合っても無駄であろう。そろそろ日輪が」
何も身につけないその細い肢体を元親の前に晒して、元就は先程部屋の隅に投げ捨てられた自分の着物を取ろうとそちらへ身を翻した。毛利、と呼ぶ声がした。なんだ、と振り返ると腕を恐ろしい勢いで引っ張られ、そうしてまた布団へ投げ捨てるように押し付けられた。さすがに体が悲鳴をあげた。何をするか、と抗議しようとしたが、再び鬼の唇が元就の呼吸を塞ぐ。
はじめてこうしたときの苦しいような気持ちを思い出して、元就は目を瞑った。
これはなんという儀式だろう。国主としての重圧から逃れるための、互いの傷を舐めあうような。こうしていたって、何も状況が変わるわけでもないのに。ただ体が末端まで疼くだけだ。おなごを抱くよりはましであろうかと。おなごには分からないわれ等の背負うものを分かち合えるだろうかと。ただ、それだけの。
毛利、と。鬼が呼ぶ。



「俺の居場所は、此処にはないのか?」



喰われるかと思うようなくちづけの間に元親は言葉を元就の口内へ注ぎ込む。元就は目を開けた。
「何故、怒ったかと。聞くのか。・・・あんたが俺を何も認識していないからだ」
やがて離れた濡れた唇を、元就はぼんやり見つめた。何を言っているのだろう、この鬼は。
「何故今、俺が、こうしてあんたにくちづけているのかも――――あんたは、知らぬと言うのだろうな」
「・・・何故かは、確かに、“知らぬ”な。我は貴様ではない。おそらくこうであろうという予測はあるが」
「どういう予測だ、頭のいい毛利のあるじよ」
「・・・・・・」
「馴れ合いか。ただの気紛れか。どちらにしろあんたに心が感じられねぇ、こうやってあんたを抱きしめているのに、俺は」
「心?」
元就はまた馬鹿馬鹿しい気分になった。
「我の心が欲しいがためにこのような行為をするのか。貴様は」
「ちがう、俺は・・・・・・俺が欲しいのは“確信”だ」
「確信?」
「あんたの傍にいていいのか。あんたに触れていいのか。あんたの――――」
「・・・貴様はそうやって、もうずっと前から何度も同じことを我に問う。もう十分に我の傍にいて、触れているではないか。これ以上なんの確信が欲しいというのか」
「だから」
元親はすすり上げているように見えた。
「傍にいても、触れていても、俺がいなくなったらきっと此処には――――俺の痕跡なんか残っちゃいねぇ。あんたはただ日輪に拝謁してまた普通の生活が始まるだけだ、俺がどれだけ此処に来たって。俺はどう言えば、あんたに、わかってもらえるのかわからねぇ」
そこまで言って、元親は大きな掌を元就の喉元に置いた。
「こうやってくちづけてたって、あんたが何も感じてないことくらい、俺にだってわかる」
元就はぼんやりとその元親の声を聞きながら、昨夜なんだか似たような声を聞いたと思い出した。なんの話をしていただろうか。他愛もない、明日はどうするかというような。どこかへ誘われたのだったような。次に元親がくる、若しくは元就が四国へ行くのはいつかという話だったかもしれない。あまり真剣に聞いていなかったのもあるが、自分はなんと返しただろう。
別に、明日も明後日もその次の日も、同じことが繰り返されるだけだと。
そんなことを言った気がする。元親は直後大層機嫌を損ねて、もういい、俺は明日帰る、いいや今夜帰ると言い出したのだった。



元親の怒った理由を、なんとなく元就は「わかった」ような気がした。要するに元親の言いたいことや聞きたいことは、元就が応える言葉では足りていないということだろう。苦しそうな元親の、覗き込んでくるひとつ目を見て元就は無駄なことで時間をつぶしていることよと考えた。
元親が言ったことを、そのままついさっき、ひどく朧げではあるが元就も感じていたのではなかったろうか。痕跡が残っていない、と。此処にいた数日間を抹消したいような行動に走る元親を疎ましいと思ったのではなかったか。
だから、多分考えていることも感じていることも同じで――――ただ、それを元親は表に出してこうやって元就を詰るけれど、元就は詰られてはじめて自分のことですら気づく有様だという、その感覚のずれの問題で、けれど元就にしてみれば自分を誰よりもわかっていると思っていた元親がそんなふうに言うのは本当に驚くしかなかった。心、と元親が言うモノは元就の中に確かに在るけれど、他の人間よりは希薄でふわふわと覚束なくて、あってもなくてもあまり生きていくのに関係のない物質だと。だからこそ元親は此処に来て、そらに浮かび上がってしまって居所のわからない元就の「心」を地上に繋ぎとめるためにいるのだと、そう思っていたのに。
くちづけにしても。それが、ただの無聊を慰めあうだけのものなのか、もっと別の感情がはいっているのかは元就には確かにどうでもよかった。ただ、心地よいと思っていることは事実で。
それだけではいけないというのだろうか?
「今更、」
元就はきっぱりと声を上げた。
「貴様にそのようなことを言われるとは思わなんだ。鬼よ、我に人の心がないと申すか。貴様の痕跡を記憶にとどめておらぬと申すか。貴様こそ、何がしたくて此処に来るのだ。我の縄張りをさんざんに食い荒らし、空気も人心も乱して、勝手に来て勝手に去っていくくせに。此処をこの屋敷の者たちがなんと呼ぶか知っているのか。奴らは此処を“長曾我部殿の”と呼ぶのだぞ。この元就の屋敷であるというに」
一気にまくしたてると、元親はかぶりを振った。
「ちがう。ちがう。この屋敷の皆にそう思われても思われなくても、俺にはどうでもいいことだ。あんたが、問題なんだ。あんたが――――」
「これ以上、何を望むか、長曾我部?我に、どうしろと。本心は、この中国が欲しいか。結局はそういうことか――――」
「関係ねぇ、そんなもの」
元親が叫んだ。
「俺は、毛利、俺はただ、あんたが欲しいんだ」
元親は元就の喉元に置いた手をどけて、その白い皮膚に唇を寄せた。



「あんたが、好きだ。あんたの全てを俺に向けてほしい、それだけが」




(後)