月さえも眠る夜



(1)

 宵闇の黒が雨とともに滴るような暗い夜だった。元親は仲間たちと共に鬱蒼と茂る木立と葉陰に身を隠して待ち続けている。


 報せが元親の元に届いたのは二週間ほど前だった。
「政宗公から報せが来た。…俺は伊達家の人質を奪う」
 選りすぐりの部下たちは当然、その任務を理解している。彼らはかつて四国にあった、今はもはや滅びた国の王とその部下たちだった。他の多くの関ヶ原敗残者たちとともに難を逃れ海を渡り、今は商人として南の異国に暮らしている。それがため、日の本に立ち入ることすら本来は危険なことだった。今の世に敵対した敗残兵の生き残りだと知れれば即刻捕まり首を刎ねられる。
 伊達家のあるじである政宗は、元親との友誼を汲んで元親の願いを聞き入れてくれた。彼の手元にある人質は存在そのものが危険だった。扱いを間違えれば伊達家はもろともにつぶされてしまう。…そうと知っていても引き受けてくれた政宗に、皆感謝している。かつて争っていた隣国のあるじを欲しがる元親の気持ちは、不思議に思う部下たちも勿論いたが、彼らは元親を絶大に信頼しているためにそれ以上追及しなかった。
 元親はかねてより打ち合わせていた手筈どおり、日の本へ向けて全速力で船を走らせた。指定された港へ貿易のための南蛮商船を装って着岸したのは船足を考えても予定よりずっと早く、手引きした者も驚いたほどだ。
 手筈は秘密裏に、そして迅速に整えられた。
 狙うものを手に入れられるかどうかは、あとは元親たちの手腕にかかっている。正体は絶対にばれてはいけなかった。携わる者たちの命も勿論だが協力してくれた伊達家にも詮議の手は波及するかもしれず、最終的に元親の「欲しいもの」とともに存続を抹消されることになりかねない。それは絶対に避けねばならないのだと。重々言い含め、元親は自分に従う者たちを選びだした。
 ――そして今、準備を整え、その刻を待つ。


 酷く冷たく、雨が降る。
 「雨」には今の住み処となっている土地柄で馴染んでいる。…以前の「住み処」でも勿論慣れていた。南の国特有のそれは、短時間で溜め池の水をこれでもかと頭上からぶちまけられるような。真っ直ぐに天から落ちてくる莫大な量の水――けれど後ろめたさに似た陰はいっさい無く、ただ勢いのままに降り注ぐ。ときに風を巻き込み荒れることはあっても、やんだ後には嘘のようなからりと晴れた蒼い空が広がる。単純でやんちゃな子供のような雨が、元親は嫌いではない。
 けれど今、元親たちの身体を濡らす雨は、勢いは強いのに纏わりつくように重い。まるであいつのようだ、と元親は呟いた。すぐ傍で同じように身を隠している部下が怪訝そうに元親を見たが、苦笑してなんでもねぇよと誤魔化しておいた。
 また、「その時」を待って前方を睨む。耳を欹てる。ぬかるんだ馬蹄の音が響かないか。籠をかつぐ男たちの足音が地面を伝わらないか。松明の灯りが見えはしないか。
 同時に、緊張も静かに増していく。元親の「宝」を取り戻す(奪う、ではない、元の所有者の手に戻るのだ)ためには暗闇の中での戦闘は避けられない。心が逸るのを元親はじっと抑え込んで、腰に差した刀の鞘を汗ばんだ掌でそっと握りしめた。
 「待ち人」の面影ははっきりと片方だけの見える眸のうちにある。忘れるはずもない。たとえ会えなくともこの先もずっと忘れるつもりは無い。…それでも、その面影は、数年前に比べ薄れているのを元親も自覚している。同時に、薄れていく姿の傍らに別の者の姿が浮かぶ。誰かなんて当然知っている、元親の親友と言っていい男だ、だからこそ託したのだ。いつか迎えにくる、だからそれまで預かってくれと図々しいことを抜けぬけと言うこともできた。彼は承知してくれた。国主として難しい話を(突っぱねられても、その場で斬り捨てられてもおかしくなかった状況で)頷いて元親の大事な者を預かってくれた。――まさに今も、彼のおかげで元親は此処にいて、待っている。すべて親友の…政宗のおかげだった。宝を――「元就」を取り戻すことができるのは。あとは元親たちの手腕次第。感謝している。政宗には恩義ができた。この後異国に逃げても、きっと彼が求めるならできるだけのことはしてやれると元親は思う。
 ――けれど。
 元親は衣服の襟元にそっと片手で触れた。厚く重なる紙束を今日持ってきたと知ったら、この紙を…手紙を寄越した相手は阿呆がと蔑むかもしれなかった。別にそれもかまわない。元親がそうしたいと思ったから持ってきた。あんたの書いてくれたこれらを、俺は何度も読んで、大事にしてきたんだぜ?と。そうやって(甚だ陳腐なことかもしれないが)わざとらしく、大仰に彼に…元就に訴えたかった。離れて焦れていた時間をそんなことで埋められるとも思わなかったが、そうしなければならぬとも思った。
 手紙の中の元就は、本人そのままに冷静で、文字の乱れも隙も無い。
 元親が書いて送る書状は正体を隠しているからには手続き上、必ず政宗や、もしかしたら側近たちも見るかもしれなかった。だから元親は元就への手紙へ思うさまをありったけ書きこむことはできなかった。さりげなく、誰かに見られてもことが露見しないように言葉を濁し、伏せて書かねばならない。それでもできるだけ伝わるように…いつか必ず迎えに行くという気概だけは伝わるように。そんなふうに想っていつも書いた。
 元就からの返事は元親の仲間の商船が戻るたびきちんと届いた。検閲の必要もあるまいに、やはり内容は誰に見られても構わないようにするためか。個人的なことはほとんど書かれておらず、型通りの面白みのないものがほとんどだった。元親の書いて出した小さな質問にはそっと返事が織り交ぜられていることもあったが、全体には非常に淡白で事務的な書状に違いない。
 それでも、あぁそれでこそ毛利だ、あいつだ、と元親は安堵していた。少し小さめの几帳面な文字列が元就本人をあらわしているようで、それすら嬉しかった。墨の香りも彼が手ずからすったものだと思えて懐かしくやさしい気持ちになれた。
 ――いつの頃からかは、わからない。
 文字の隙間から、違う色が滲むようになっていた。切欠はなんだっただろう。常の毛利元就には無いまるみのある言葉だったかもしれない。あるいはもっと別の…どこか優しさに似た色だ。
 元親は最初単純にも自分に向けられたのだと、その気遣い(だと思った)を喜んでいたが、元就の変化がある日自分ではなく別の者から伝播したのではないかと気付いた。
 几帳面な元就にしては抜けていたことに違いない。あとから書き足したと思われる追伸に元就を預かってくれている元親の親友のことが書いてあった。質問自体を元親がしたのだ(政宗は元気か、という類の)。だから、それに対しての返事と考えれば別段不思議ではなかった。
 けれど、元親は紙を足して書き足されたそれを読んだとき、最近感じていた違和感の理由を知った。他愛ないことだ、政宗公は元気か、宜しく伝え願うと書いた元親へ、元就は書いて寄越した。
"政宗は元気にしている。"
 書き損じかもしれない。慌てて忘れただけかもしれない。けれど己の身柄を人質として預かっている国主の諱を平然と呼び捨てるほどに毛利元就は愚かしかったか?
(…それほど政宗に気を許しているのか?あいつが?)
 …長いこと考えた末、元親は湧きあがった不安に似た心持を無理に押し込めた。毛利の奴め、人質生活が長くて気が緩んでやがるのかと自分に言い聞かせるように呟いて笑っておいた。でも追伸の部分はなんとなく読み返す気がしなくて、思案した後そっと小柄で切り離した。きっとなにかの間違いなのだろう。そうに違いない…
 ――それから暫くして、元親は自分の不安が事実だったことを知った。
 明らかに宛てた相手の違う走り書きが、元親への手紙の間に挟まっていた。内容は書物を借りた礼だったが、勿論元親は元就に書物など貸した覚えは無い。
 几帳面な文字の端々に、この手紙を受け取る相手への、静かな気遣いが滲んでいた。一見するとわかりづらい。――でも、元親にはわかる。わかってしまった。


 元親はその日、全てのこれまで元就から受け取った書状を並べて読み返した。通り一遍のかた苦しい表現の行間から、元就の面倒を見ている政宗のことが伺い知れるのだと気付いた。ほんの些細なことばかりだ。感謝の気持ちから書いているのだと思っていた。…けれどそれは間違いだったと元親は気づいて愕然とした。
 元就を取り戻したい、助けてほしいと直談判したときの政宗の様子を思い出す。彼は何も言わなかったが、複雑な表情は…あれは当時から、なにかを思いあぐねていたのではないか。元親には言えない、もしかしたら本人すら気づいていない感情。元就を傍に置いて、あの誰にも屈しない孤高の空気に触れて、同じように孤高に天を目指す政宗がなんの影響も受けず、興味も示さないはずがないのだと、そうも思った。元就自身も。…元就とはまったく違う、でも国と領民を思い、別の方法で高みを目指す若い君主を…元親や元就のように手の中のものを失くさず守り続けている政宗を、元就がそのまま頑なに見過ごし続けるのか。
 ――はやく…
 元親が、すべてに気づいたとき発した言葉はそれだけだった。
(早く、会いたい。取り戻したい。連れてきたい。俺の元へ…)
 彼を「毛利」という檻から自由にしてやりたかった。ずっと前からそう思っていた。元就とは長い付き合いだった。毛嫌いしていた冷酷非情の隣国の支配者は偶然に昔馴染みなのだと気付いてから少し近づいた。彼の被った仮面はおそらく一生はがれないのだとつかずはなれず話すうちに元親は思った。彼のやり方と在り方に呆れ、怒り、嘲り、…ふと気づけば、いつの間にかその仮面ごと彼を見ていたいと思うようになっていた。
 いがみ憎しみあっていた時期もある。そのあいだもずっと元親の根底にくすぶり続けていた。全部を捨てて誰の手も借りず生きる元就の生き方は、中国安寧のために彼が選んだ道はきっと間違ってはいない。むしろ情に流され翻弄され、結局多くを失った元親のほうが国主としては明らかに間違っているに違いなかった。だから、元就を救ってやりたい、なんて…とてつもなくおこがましいことだと元親も知っているのだ。元就に何かいう権利も資格も、もしかしたら無いのかもしれない。まして元就が元親の言葉に耳を傾ける必要なぞ何処にも無い。
 それでも、元親は、元就が欲しい。己の矮小なただの欲だと誰に嘲られても。
 国を守るために我が身すら平然と差し出す元就をむしろ馬鹿で愛おしいと思った。そんな彼を抱く自分も馬鹿で憐れで愛おしかった。何度か身体を重ねた。元就には打算しかなくても元親は構わなかった。全部自分が掬いあげてやればいいと思っていた。
 …ほんとうに、おこがましいことこのうえない。
 元親の知らない間に、元親と違うやり方で元就を根幹から揺さぶった者が存在した。きっと元就にとってはいいことに違いなかった。政宗にとっても…元親は、政宗の複雑な生い立ちを漠然とは知っている。ぶつかりあって一歩近づける相手がいるというのは、あの二人にとって良いこと、だろう。友人として、ならば、元親はよろこぶべきだった。でも。
 ――渡せるわけがない。


「…できっこねぇだろうがよ…」
 元親はまた呟いた。
 誰の耳にもその声は届かなかった。
(待ってろよ、…毛利…元就)
(あんたが、俺を…待ってなくても。…たとえ忘れてたって)
 

 ――俺はあんたを、手に入れる。

(2)