月さえも眠る夜



(2)

 無風の闇の中、天からさあさあと雨が落ちる。
 …ほんの僅かの音を聴覚が捉え、元親は伸びあがった。ひとつ目を凝らすと遠くに灯りが見えた。最初はひとつ、…やがてふたつ、みっつ、徐々に増えていく。雨音に紛れて濡れた地面をふみあらし進む幾人かの草鞋の足音と何頭かの馬蹄の音が重く響いてくる。
 元親は素早く仲間たちに目配せした。部下たちは頷く。微かな、鯉口をきる音がばらばらに雨音に混じって響いた。
 元親はじめ、皆一様に素性ばれぬよう僧兵の出で立ちである。――もっともこれは、元親の頭髪の色を隠すためでもあった。銀の色は闇の中でも浮き上がり易い。陽光の元で敵と堂々対峙するならば異形の色は相手を圧倒する武器にもなったが、今見られるはまずい。
 元々目深に被った裹頭(かとう)をさらに衿元より口元まで、素顔の見えぬよう念入りに覆い直す。その間にも水を含んだ足音は近付いてくる。…凝視して、元親は唇を噛んだ。
 人数の多いわけではない。その逆だ。先導する者、馬上の侍が数人、駕籠を担ぐ者たち…他に目立った護衛もいない。帯刀している者たちの数も少ない。駕籠は大名駕籠ではなく庶民のものだと遠目にもわかった。今回毛利を運んでいるのは徳川の派閥の者だと聞いている。「大事な人質」とは言葉だけなのは明らかだった。命さえ無事に、身柄を目的地へ送り届ければいいという魂胆が隠れもせず見える。
 銃火器は無さそうです、と傍らに控えた者が元親に素早く耳打ちした。先に出した斥候からの報告とも合致している。元親は頷いたが、内心ではかつて大名であった自分と同じかそれ以上の立場だった毛利の悔しさと怒りを肩代わりし、憤りに震えずにいられない。
 あの一団が運ぶのが、かつて中国120万石を治めていた謀神・毛利元就だと、誰が信じるだろう?
 現在の元就のぞんざいな扱われ方を思い(勿論、政宗が元就を大事に扱っていたであろうことは元親は疑っていない、これまでと、これからのことだ)、元親は悔しさに奥歯をくいしばる。人質としてしか存在を認められず、軽んじられ、それでも「毛利」のために甘んじてその立場を受け入れてきた元就を憐れだと――
(いや。…憐れみなんざ、あいつは欲しくねぇだろうな。自分のことは全部後回しなんだ、そうとも――そういう奴だ、毛利は)
 元親は目を閉じた。…どうしてすぐ攫わなかったのだろうと自分を責めた。
(まだ間に合う。まだこれからだ。…俺は、あんたを奪う。あんたを「自由に」するんだ。あんたがたとえ拒んでも…)
 元親は片手をゆっくりと上げた。部下たちに緊張が走る。手筈通りに、とだけ短く元親は告げた。あとは皆言わなくてもわかるはずだった。誰も死ぬなよ、と元親は願いを籠めた。
「―――」


 無言のまま上げた片手を勢いよく振りおろす。
 藪に潜んでいた部下たちが合図が来るや一斉に飛び出した。
 先頭を歩いていた行燈持ちの下男が悲鳴を上げて泥水の溜まった道に転がった。すぐ後ろを怠惰な顔で馬を歩ませていた武将らしき一人が慌てて手綱を引く。馬がけたたましい嘶きをあげ、後脚だけで立ち上がってしまい乗っていた男は無様にぬかるみにたたきつけられた。
「――何事だ!?」
「賊だ!応戦しろ!」
 駕籠のすぐ脇を歩いていた護衛たちがうろたえた声を出した。もうそのときには元親の一団は八方から一行へと襲い掛かっていた。鋼同士のぶつかり削り合う音、肉を裂く音が雨音に混じって胡乱に響く。
 暗がりの中で僧兵に扮した元親たちが「誰なのか」は、慌てふためいた彼らにはわかるはずもない。近隣の廃寺に潜む僧兵と思ったことだろうか、それは好都合だった。 僧兵の纏う裳付衣(もつけころも)の墨色は闇に融け、各々の持つ武器の鈍い鋼のいろだけが月も星もない夜に放り出された松明の灯りを反射する。
 逃げる者、斬りかかってくる者――しかし僅かの手勢、しかも緊張感も士気も無い者たちには元親たちの相手は荷が重すぎたらしい。元親たちは刃向う者だけを無言のうちに斬り捨てる。逃げる雑兵たちは捨て置いた。本来ならば斬って捨てねば素性がばれるが、元親はあえて追わずにおいた。そんなことよりも。
(…駕籠はッ)
 元親は部下たちが敵と戦っている間に、自分も幾人かを斬り捨て、また追い払いながら目的のものに近づいた。欲しいものはこの駕籠の中にあるものだけだ。今は彼さえ無事に手に入れば何もいらない。
(――毛利…元就ッ)
 声に出してはまだ、呼べない。歯がゆかった。
 元親の目的を察知したらしい護衛の数人かに行く手を阻まれながらようやくのことで放り出された駕籠のすぐ傍まで近づいた。流石に傍にいた数人は、この中にいる者が「誰か」は知らずとも、重要な人物であるとは知っているのだろう。抵抗は激しく、部下数人がけがを負った。元親は舌打ちをした。自分も刀で何人かをまとめて相手しながら、じりじりと駕籠へ近づいて行く。
「おのれ――」
 突如、護衛の武将のひとりが駕籠に駆け寄った。彼の目的を瞬時に理解して元親は咄嗟に、自分でもわけのわからない咆哮をあげていた。…構わず、その武将は手に持った刃をいったん引く。力を籠めて――
(…毛利ごと、刺し貫くってのかよ、…そんなことさせねぇッ)
 万が一誰かに奪われるならば、殺せと命令されていたのだろう。
 無慈悲な刃が、無防備な駕籠を…中に在る、元親の宝ごと――
「…ッ、よせぇッ!!!」





 その声と、鈍い音に、奮闘していた部下たちが一斉に振り返る。
 元親は駕籠の前にいた。
 中にいる「人質」の息の根とめるために刺し貫こうとした男の目の前。男は呆気にとられて自分の手元と、自分のたった今差したものを見た。
 己の巨体で駕籠を守るように、元親は両手を拡げ真っ直ぐ「敵」と対峙しぬかるみの上に座っていた。…刃は、元親の胸にくっきりと突き立っていた。一本だけまだ消えずにくすぶっている松明の光がぎらりと刃紋に照り返す。状況を理解した周りの者から意味不明の悲鳴と怒声が上がる、――元親の部下たちだ。「アニキ」といつものように呼ぶことは厳に禁じてあったが、何人かがそう口にしかけた。
「…騒ぐんじゃねぇッ!!!」
 元親は胸に刀の突き刺さったまま大声で吠えた。
 びりびりと元親の怒号は湿りを含んだ空気すら震わせ他者を圧倒した。
 ゆっくりと立ち上がる、…刀を元親に突き立てた当の相手は、うわっと叫んで手を束からはなし、よろめいて後ずさるとやがてぺたりと雨の溜まる泥の中に座り込んだ。立ち上がれば彼よりもはるかに巨体の元親から発せられる怒気は凄まじく、がくがくと震える姿は、どちらが刺されたのかわからないほどに惨めに見えた。
「…」
 元親は何も言わず、ぎろりと恐ろしい怒りを宿した片方だけの目で(相手から見えているかどうかはわからない、この暗がりだ)男を見下ろすと、一歩、前に足を踏み出した。それだけで地面が軋むように啼いた。座り込んでいた男からいよいよ悲鳴があがった。逃げようと這いずりながら元親に背を向け――
 次の瞬間、彼は背後から斬られた。元親が斬ったのである。片腕だけを容赦なく振り下ろした。纏う気迫に躊躇は無かった。
 部下たちは言葉を飲み込み微動だにせず元親を見る。斬り合った体勢のままの者も、敵にとどめを刺そうとしていた者も。切り取られた時間、しんと静まり返った中で元親は刀についた血飛沫を払い捨てると、よろりと身体を反転させた。
 毛利、と口の中で呟いた。
 胸に刺さったままの刀を鬱陶しそうに引き抜くと、雨の波紋がひっきりなしに円を描く地面に無造作に放り捨てた。胸元を押さえて、へへ、と小さく笑った。
「―――やっと…」
 駕籠の傍まで、一歩、また一歩と近づいていく。手を引き戸にかけたときほんの僅か躊躇した。
「…」
 元親は、引き戸を開け放った。
 …中にいる者は、暗がりの中で正座していた。動じない姿勢のまま、やがて顔だけを元親のほうへ向ける。真っ直ぐに見つめてくる。強い視線。女のように細い小さな身体。切り絵のように僅かの光に浮かびあがる影に、元親は安堵した。――間違いない。探し物に間違いない。
 毛利、としゃがれた声で呼び掛けて元親は手を伸ばし…口をふと噤んだ。
「――元、就」
 呼び直す。
 相手は…元就は相変わらずじっとこちらを見ているようだった。伝わる雰囲気は冷たい。以前と変わらない。
「元就…」
 呼びかける。相手の表情はくらがりで見えないが、僅かに呼気が漏れた気配がした。何かを言おうとしている…元親は耳を欹てた。
「…愚かな…」
 ようやく届いた言葉はそれだった。掠れた、震えた声。
 でも、…間違いない。ずっと求めていた声だ。
 元親は笑った。ほんのすこし涙が滲んだ。
「愚か者でかまわねぇよ、…なんて言われたってかまわねぇ。だから」
 ――俺と、行こう。


 元親は元就の手を取った。僅かな抵抗をものともせず、駕籠から強引に細い肢体を引き出してやる。
 …己の腕の中に、力いっぱい抱きしめた。

(3)