背中合わせで見上げる空



2(元親)


 そもそもの発端は、学園祭について、友人が元親に途方に暮れて相談してきたことだった。
 学園祭ではグラウンドに特設ステージが設けられる。此処で時間を決めて各団体がパフォーマンスをするのが例年の慣わしであった。特別な希望者がいない限りはある程度前年度に倣ってプログラムが組まれる。今年も概ねそうなるはずで、特に問題もなく諸々は決まっていた、…はずだった。
 元親が友人に相談されたのは生徒有志による舞台についてだった。友人は仲間数人とジャグリングをまじえた大道芸的なものを予定して委員会に申請したらしい。
 ところがメンバーが元々少ないうえに一人が骨折、一人が転校、という具合に面子が減ってしまい、どうがんばっても残ったメンバーで持ち時間を消化しきれなくなった。当然、舞台に穴が開く。元親の友人は学園祭主催でもある生徒会へ詫びに行ってなんとかその時間でOKをもらおうとしたのだが、どうにかしろとつっぱねられた、らしい。
 つっぱねた相手が、毛利元就だという。あと二週間も無い時期にそんなことを言ってくるのは非常識にもほどが在る、と。
 元親はそれを聞いて、確かに毛利の言うことには一理あるなと思ったが、しかし不可抗力的な理由で友人も仕方なく時間の短縮を願い出たのは違いなかった。どうにか前後の時間を調整して穴を埋めることはできなくもないはずだろうと元親は考えた。
結局ほだされて、生徒会室へ直談判に友人と一緒に行った。そうして初めて、毛利元就と直接話すことになった。


 顔は見たことがある、――というか、一度見たら忘れられないだろう。元親も特徴あるその髪や長身や片目の色からそう言われるが、毛利元就は仕草とか口調とか感情の見えない整った表情とか、完璧に近い成績とか――そういうもので忘れられない存在だった。彼は大抵いつも一人でいるが、それを寂しいと思うこともなさそうだった。もっと言えば、同い年の生徒たちと話すのは時間の無駄と思っているようにすら見受けられた。元親は遠目で彼を見、また噂話を聞くにつれ、間違いなく彼はそう思っているんだろう、嫌な奴だと信じていたのである。
 実際に話してみると、全くその元親の想像は当たっていたらしい、元就は二人の顔を見て、話を聞く前から事情を理解したのか、援軍を連れてこようが状況は変わらぬ、とそっけなく言った。
 元親はその一言でかなり腹立たしくなった。
「話を聞く前からどういうこった。あんただってコイツの言ってることが怠慢したからとかそういう理由でじゃないことくらいわかってんだろ」
 いつの間にか一歩前に踏み出し、ほとんど叫ぶように言っていた。元親はよほどでない限り人前であまり激昂することがないので、生徒会室にいたほかの生徒たちも吃驚してこちらを見ている。ちょうど部活に呼びに来た佐助も後ろにいたのだが、中に入ってくると、ちょっと旦那、何こんなとこで喧嘩売ってんのさ!と慌てて仲裁に入ってきたくらいである。
 けれど毛利元就はまったく表情を変えず、じっと元親を見つめた。
 しばらくして、ひとつ溜息を吐く。それから手元の資料をしばらく見た。
「…開いているのは一時間弱」
 やがてそう言った。元親は元就の顔と手元の資料を交互に見た。
「すでに今年は、夏休み以前に2団体からキャンセルが出ていたのだ。今更前後調整をしても、もはやこの穴は埋められぬ。次の演目を前に持ってきたいところだが、確認したがどこもその時間帯は無理だと言っていた」
 元親はそれを聞いて、はっとした。
 今の発言は、すなわち元親の友人の話を一度聞いてから、時間調整を考えていたことになる。だから他の団体に確認もしているのだ。元親は少しばかり驚きと困惑の混じった顔で元就を見つめた。友人の顔をちらりと見ると、彼も複雑な表情をしている。
(なんだ、…こいつ、口だけじゃなくて、ちゃんとやることはやるんじゃねぇか)
 元親はそう思った。
「なぁ。他の誰かに入ってもらえねぇのか、その時間帯に。誰か希望者いねぇのか」
「…すでに色々なところに聞いてみたが、希望はなかった。仕方あるまい、この慌しい時期だ。今から演目を決めて練習なぞ、よほどでないと無理だろう」
「そ…そっか…」
「さてどうしたものか…」
 元就はほっそりした指先を口元にあてて考え込む。元親はじっと彼を見つめていた。


 そのとき生徒会室に学園理事長秘書の斉藤帰蝶が入ってきた。
 妙齢ながら生徒たちから「姫」と呼ばれている彼女は、室内のぴりぴりした様子に、どうしたの?と問うた。元就が簡単に事情を説明すると、
「毛利君、あなたバイオリン弾けたわよね」
 すかさずそんなふうに言う。
「…はい」
「じゃあ、あなた、演奏なさいな。腕前的には問題ないでしょうに」
「…さすがに一人では間が持ちません」
 極めて冷静に元就が言った。姫は、それもそうねぇ、ピアノとあわせるとかできるといいんだけど、と言った。
「でも、あと2週間も無いんじゃ、あわせるのは無理かしらね。誰かしら弾ける子はいたと思うけど――アンサンブルとなると」
「、――俺、弾けるぜ。やります、毛利と」
 いつの間にか、元親は手を挙げて名乗っていた。

 *

「…で、アンタと毛利サンでアンサンブル?こりゃいい、絶対見に行くぜ」
 部活の終わったあとの帰り道、朝のバスの話の続きで事情を聞いた政宗は笑った。元親はぶすっと俯いている。
「ほんとさ。なんであんとき手ぇ挙げちまったんだろうなぁ…やめときゃよかったぜ」
 それも友人のためだったのだろう。政宗は、やっぱこいつおひとよしだがいいやつだな、と思った。そういえば昨日、リビングに、珍しくバイオリンのケースが出しっぱなしだったな、と政宗は思い出した。元就は元親との練習のことなど当然政宗には一言も言ってなかったが。
「アンタ、ピアノ上手いもんな。前弾いてくれたの聴いた限りじゃ」
「うーん…いや、まぁ、多少自信あるから言っちまった、てのもあるんだが」
「なんだ、腕が鈍ったかよ?」
「いや、そういうわけじゃ。…アイツ、とんでもねぇよ」
「とんでもない?何が」
「…滅茶苦茶、上手いんだよ」
 元親は額に手をあてて呻いている、政宗は、へぇと目を瞠った。
 元親の母親が生前仕込んだため、元親と、彼の姉はどちらも小規模のコンクールでは勝てる程度に弾けると聞いていた。その元親が上手いというからには、相当レベルが高いのだろう。何度か聴いて弾けることは知っていても、音楽にあまり詳しくない政宗はそこまで元就が上手いのだとは知らなかったので、一人小さく口笛を吹いた。
(さすが、毛利サン)


 練習初日で元親は頭を抱えた。
 元就の要求は非常にレベルが高かった。少しでもテンポが遅れたり元親が楽譜と違う勝手な解釈をしようものならば、即座に「違う!」と罵声が飛ぶ。
 同時に、ぴしゃりと鍵盤の上の手の甲をひっぱたかれること、すでに数回。
「…俺、最近ねーちゃんにだって、ピアノ弾いててあんないきなり叩かれたこたねぇよ。なんなんだよアイツ」
 政宗はそれを聞いて飲んでいたジュースにむせるほど笑った。元就らしいとしか言いようがない。
「まァ、せいぜい頑張るこった、言い出したからには」
「ちぇっ。へいへい、頑張るとするさ、…あぁ、そういや」
 元親は真顔で政宗を覗き込む。
「毛利の笑った顔、見たことあるとか言ってたけど、その話の続きは?」
 政宗は、ふんと鼻で哂った。
「また今度な。機会があったら教えてやるさ、無事に毛利サンとの共演が終わったらな」

 *

 そんなわけでかれこれ二週間、元親は元就と放課後音楽室で練習をすることになってしまっていた。
 最初の三日間は苦痛で仕方なかった。いっそサボってやろうかと思ったこともある。30分程度とはいえバスケの時間を割いているのも、自業自得ではあったが元親には不満だったから。
 けれど練習を重ねるうちに、面白くなってきた。
 演奏そのものではない、毛利元就が、である。
 何度目か、元親自身もとても気持ちよく音が重なったとき、演奏後に元親が、なぁ今のよかったよな?と言って思わず顔を上げると、元就が首を傾げてこちらを見ていた。怒られるのかととっさに首を竦めてたが、かえってきたのは罵声ではなく、ほんのわずかだったが、元就の“笑顔”で、元親は呆気にとられた。
 けれどすぐにその笑顔は消えて、まぁまぁだな、といういつもどおりの抑揚のない冷静な言葉がかえってきて、元親は少しばかりがっかりした。
(…もっかい、見てぇな)
 そんなふうに思うのは我ながら意外だったが、それから俄然元親は練習に力を入れるようになった。


 学園祭の当日が来た。
 本番が近づくとさすがに元親は緊張してきた。ここ何年か、舞台の上でピアノを弾いたことはない。客席には友人たちと一般客、父兄たちが意外にも多く陣取っていて、たかが学園祭とはいえ、バスケの試合とは全く違う緊張感に固まってしまう。
 すると元就がいつもどおりの表情でやってきた。黙ってじっと元親を見上げる。元親は、なんだよ、と訊いた。
「…これが終われば貴様の役目も終わりだ」
 流石に少しばかりカチンときた。
「そんな言い方無いだろうが」
 ぶっきらぼうに言うと、元就は首を傾げた。どうやらそれは考え込むときの彼のクセらしい、最近元親は気づいた。やがて元就は、考え考え、言葉を継いだ。
「ふむ。…今日までご苦労」
 ――それだけ。
 けれどその言葉を聞いて、先ほどの言葉が元就の労わりだったのだと元親は気づいた。
(あぁ、…なるほど)
 彼は、言葉を…コミュニケーションの言葉や方法を知らないのだと、そのとき初めて元親は気づいたのである。
 元就だって、実行委員の仕事が忙しい中、元親の友人のために時間を割くことになって、けれど文句ひとつ言わなかったことにも気づいた。そうすると、肩の力が抜けるのがわかった。気負うことはない。いつもどおりの制服、いつも練習しているとおりに。いつもどおりに背筋を伸ばした元就。なにもかもいつもどおりに――だが、うまくできれば、いつもとは違う彼の表情が見られると元親は確信した。
 司会が、二人の演目の説明を始めた。元親は自分より頭ひとつ分以上低い元就を見た。
「じゃ、行くか。よろしくな、毛利」
 元就はこくりと無言で頷いた。


 演奏は滞りなく済んだ。練習のとき以上にうまくいったと元親は満足した。
 盛大な拍手をうけて、二人は役目を終えて舞台を下りた。学生のつくる舞台である、次の準備のために、袖に下りたらすぐにシャツの腕をまくって、二人は他の裏方と一緒にピアノを移動したり次の演目の道具を設置する手伝いをした。落ち着いて座れたのはさらに30分後だった。
 舞台の裏で実行委員会から支給された紙パックのジュースを二人で飲んだ。
「…なぁ。俺ら、うまくいったよな?」
 元親が言うと、元就は、思ったとおり首を傾げた。元親は固唾を呑んで彼の表情を見つめた。
 やがて、期待したとおりに、ごくわずかな微笑がこぼれた。よかったと思う、という言葉とともに。
元親はほっと息を吐き出した。
 それから唐突に、元就の肩をがしりと抱いて、揺さぶって、声をあげて笑った。元就は、なんだ貴様、と驚いている。
「あぁ、すまねぇ!なんか、嬉しくてよ、」
 笑いながら、けれど元親は寂しいと思った。不思議な話だ。二週間前には考えられなかったことだ。けれど確かに寂しいのである、先ほどの元就の言葉が蘇る。これが終われば貴様の役目も終わりだ、と言った――
「…なぁ、あんた」
 笑いをおさめて、面食らっている元就に、話しかけた。
「俺と友達に、なってくれねぇか?」
 元就が、見たこともないぽかんとした表情で元親を見つめた。元親はまた笑った。あんた、ほんと面白いぜ!と言うと、意味がわからぬ、と返された。今にわかるさ、と言い返して、なぁ、友達になってくれるか?ともう一度訊いた。
 きっちり20秒後。
「――好きにせよ」
 元親には、十分な返答であった。


(3)