Go West Young Man

掲載誌:Mojo, April 2001 
 1992年の英国では、モリシーは貶され無視されている。一方、アメリカでは、The Beatlesよりも早くスタジアムチケットを売り切る存在だ。当時の台風の目はどんな様子だったのか? マックス・デチャーン(Gallon Drunk)とボズ・ブーラー(Morrissey's Band)が回想する。

前文
 1992年4月。俺がドラマーをやっていた北ロンドンの4ピースバンドGallon Drunkは、キングス・クロスの有名なスカラ・シネマでギグを演った。良い夜だったぜ。大量のアルコールがバンドとファンによって消費された会場の、人混みのどこかにモリシーがいた。数日後、彼のスタッフが近づいて来て、この年一番の規模になるだろうモリシーの北米ツアーのサポートをやる気はないかと訊いてきた。勿論、俺らは「イエス」と答えた。

 その時期のモリシーは、かつてない程の人気だったようだ。特にアメリカでは。あの国で、The Smithsはなかなかのカルト・バンドとして通っていたが、本当の名声を獲得したのはソロ・レコードだ。Your Arsenalツアーのチケットはあっと言う間に売り切れた。2晩で計35,000席のハリウッド・ボウルが23分で売り切れ、それ以前のThe Beatlesのセールス記録を打ち破った。

 様々な関係者が麗しき北米行きのサポートバンドの座を狙っていたにも関わらず、Gallon Drunkはモリシーと同じアメリカのレコード会社に所属していたおかげで、アメリカ、カナダ合わせて37州を通り抜ける2ヶ月に及ぶツアーの正式契約をもらった。

 俺達が選び抜かれた野外ステージ、大学ホール、荘厳な劇場の何万という観客の前に立っていた期間、サポートバンドのことを気に留める客は殆どいなかったに違いない。何故なら皆、モリシーを観るために来ているのだから。贈り物を投げ、叫び、もし可能ならばステージによじ登り、モリシーその人に触れるために。楽屋口の場面は、しばしば「A Hard Day's Night(ビートルズがやって来る)」の映像を思わせた。俺がバックステージ・パスを身につけていると、どうしても控え室に入りたいというファンから物凄い値段で売ってくれと持ちかけられることもよくあった。

 花々が降り注ぎ、ギターが燃やされ、ドラムキットがボコボコにされ、座席の柵が破壊され、ある時なんか、グッズ売り場ごとひっくり返されて、ごっそり略奪されるなんてこともあった。もしちゃんと金を払ってTシャツ5種類とプログラムを全部揃えるとしたら、チケット代を含めて一晩の出費が150ドルを超える。けれど、別の方法で土産とお宝をもっと安く済まそうってんなら、戦う覚悟だけあれば良い。毎晩ショーの最後にモリシーがモッシュピットにラメシャツも 投げ入れると同時に戦う覚悟さ。シャツはあっと言う間に引き裂かれちまうからな。

 ショーがハネた後、モリシーのバンドが泊まっているホテルを見つけ出せた一部のファン達は、お目当ての人物がいつもとっくにベッドで休んでいるにもかかわらず、ホテルの外で夜明かしをしかねなかった。
 花形スターの定宿といえば、大抵その地域のリッツ・カルトン・ホテルだ。次の日からの移動が短距離の場合、彼らは銀色のバスを使う……フロントガラスの 下にSex Pistolsのお馴染みの字体で「Nowhere」と書かれていたのを懐かしく思い出した……長距離なら飛行機だ。俺らGallon Drunkは、当然ながらキツい予算で旅をした。要するに、安モーテルに泊まり、どこまでもどこまでも小さなヴァンで移動するという一連のあれだ。そして夕方になると、モリシーが人目を避けるため、わざとヴァンタスティック社の派遣した安っぽい車でサウンドチェック入りすると信じて待っているファン達を落 胆させるのが日課だった。

 自分達が一日の殆どを昨夜の二日酔いを引きずったまま狭いヴァンの中に閉じ込められて、フリーウェイの上で過ごすと気付いてから、俺は日記をつけようと決めた。
 俺達はネヴラスカだかアイダホだかの真ん中にある小さな町の給油所で珍しいポストカードを探してまごつき、そして「アメリカ畜産協会〜ひどく働き疲れした貴方の味方〜」と書かれた巨大な牛を模した看板だけが景気づけの、どこまでも続く大平原を突っ切って行った。洗濯物がはためくバーの窓には手書きで「正真正銘、本場の豹の小便(ビールのことだ)」と宣伝文句が書かれ、ブードゥーのお守りを売る商店では、雑草生い茂る近くの歩道に黒猫の骨が転がっていた。そして毎晩、どこにもかしこにもモリシー・ファンの群れがいた。
 俺達は全体の馬鹿騒ぎが始まる数日前にNYに着いた。関係者から口を揃えて教えられたのは、モリシーのファン層は多くが14歳で構成されているってことだ。「俺ら、モリシーのファンに嫌がられるんじゃないか?」と言うと、いつも「勿論、そうなるだろうな」と返された。

ORPHEUM THEATRE
Minneapolis, Minnesota. Saturday, Sept 12, 1992.


 初日の夜。
 俺達はモリシーが選んだサポート・バンドだから、ファンがある程度は興味を持つだろうと思ったらしく、Morri'Zineというファンジンの編集者3人からインタビューを受けた。ファンジンってのは、後ろに『この寒々しい部屋の壁を飾る言葉を捜して絶望的な気持ちになっています。あなたのポエム、詞、意見、お笑いネタを求む。Girl Afraidより』なんて広告が載ってるあれだ。

 俺ら全員がサウンドチェックにビールを持ち込んでいたが、ステージの上でだけは、どこであろうと禁酒だと言われた。こっちはGallon Drunkなんて呼ばれているバンドだぜ。殆どのショーで男4人が酔っ払ったままフラフラすることで成り立っているバンドなのに、ステージで飲んじゃいけないなんてショックだ。
 サウンドチェックの間に、モリシー・バンドのギャリー・デイ(ベース)、アラン・ホワイト(ギター)、そしてボズ・ブーラー(ギター)と顔を合わせる。彼らと俺達の楽屋で少し飲んでから、とてもフレンドリーな観客の前で演奏をした。

 自分達の機材を片付けてケータリング室に行き、そこでモリシーとスペンサー・コブリン(ドラム)に会う。その後、一階席からモリシーのショーを観る。観客達のリアクションといったらマジで見ものだ。文字通りに、モリシーの足元にキスしようとステージによじ登ってやがる。まずモリシーは、でかいエルヴィスの写真をあしらったバックドロップの前で歌い始める。途中、このバックドロップが、南ロンドンのギャングのボス、チャーリー・リチャードソンなど様々な画像に切り替わり、終いにはバックステージ・パスと同じ2人のスキンヘッド・ガールになる。ショーの終わりに差し掛かると、モリシーは着ていた金色のシャツを客席に放り投げる……ツアー中に全く同じシャツを40着は買っているんだろうな……アンコールのWe Hate It When Our Friends Become Successfulの最中に観客がステージへなだれ込む。モリシーは40人近い人波の中に消え、ショーが投げ出される。

POPLAR CREEK MUSIC THEATRE
Chicago, Illinois. Sunday, Sept 13, 1992.


 今日の会場はシカゴから45分のところにあった……キャパ18,000人のでかい野外アリーナで、'sheds'というタイプとして知られているものだ。これと同じ外観をした会場がアメリカ中にある。

 サウンドチェックに到着したところ、沢山のモリシー・ファンがゲートの外をブラついている。俺達がベルを鳴らすと、渋々楽屋口にから現れた20人近い会場スタッフ達が最初にこっちを見て笑った(『なんだありゃ? 男モデルか? それともダンサーか?』とでも思ったんだろう)。そして俺らをサポート・バンドだと思い直し、機材を運ぶのを手伝てくれた。

 この夜、モリシーのショーは、The Girl Least Likely Toの演奏中に、あまりにも多くのファンがモリシーの間近に、より親密な場所に辿り着こうとしたせいで、なかなかスンナリとは進まない。結局ショーは打ち切られずに続けられ、アンコールでスペンサーがメチャクチャにドラムを叩きまくる。

ボズ・ブーラー(以下BB)「観客達のステージ侵入が最初に起こった時、俺達はどうすれば良いのか分からず、それで演奏を続けたんだ(1991年のLive In Dallasのヴィデオで見られるとおり)。後でセキュリティと話し合ったところ、『次にこれが起こった時には、セキュリティがモリシーをステージから連れ出すから、君達も演奏を止めてステージを降りるんだ。あの状況を収める方法は、それしかない』と言われた。
通常、モリシーは自分で2人のボディガードを雇い、彼らが会場側のセキュリティ達にどうすれば良いのかを指導していた。厳重にやり過ぎるなと言い渡していた。もし彼らが手荒な真似をしたなら、モリシーはその夜を棒に振るだろうね。荒々しくステージを立ち去り、会場側のセキュリティ達が全員退去し、モリシー 側の人間に場が委ねられるまで戻らないだろう」

PARAMOUNT THEATRE, MADISON SQUARE GARDEN
New York, New York. Friday, Sept 18, 1992.


 深夜、NYでやるビック・ショーの会場、マジソン・スクエア・ガーデンとペンシルバニア駅の前で、俺と並んで歩き始めた男がいた。「あんた、イギリスから来たんじゃねぇかい? ロンドンだろ? な、当たりだ?」。当たってるよ。「何で分かったか知りてぇか? あんたの服だよ。60年代にここへ来たThe Beatlesも、あんたみたいな格好をしていたよ……そんな上着に、そんな靴さ。個性を主張してるってわけだ。それで分かるぜ、あんた葉っぱやるだろ……女の子も用意できるよ?」

 今夜の会場はマジソン・スクエア・ガーデン総合施設の一部だ。より大きなホールの下にあって、エルヴィスが公演したこともある上品な会場だ。キャパは5,500人。ギグは満員。かなりのシートが破壊され、あちこちでファンとセキュリティのやり合いが勃発する。The National Front Discoの演奏中、スペンサーはマイク・スタンドを使って繰り返しドラムをシバキ倒している。
 今夜はミック・ロンソンがショーを観に来ていたらしいが、俺達は会えなかった。彼はアルバムYour Arsenalを手がけたものの、最近じゃかなり体を悪くしている。

 ショーの後、グリニッジ・ビレッジのバーに行ったところ、そこを仕切っていた男がThe Dictatorsのハンサム・ディック・マニトバだってことが分かる。彼はかなり強い酒を注ぎながら、夜更けにGoodfellasの一節を諳んじる。

BB「俺にとって、ミックが来たあの夜は特別な思い出だ。彼がギグを観に来たのは、あの時だけだった。病気のことは、Your Arsenalをプロデュースすると決まった後から分かったんだ。とても物腰が柔らかい人で、そして重病だった。一緒に過ごした日々は楽しかったよ。皆で小額を賭けてスポーツ賭博をやったりしてね。モズはミックの傍で凄く自然にしていた。
 Utopia Studiosで一緒に仕事を始めた最初の頃、俺がスタジオに入ると、大きなツリーバーク(樹皮)・ジュースのボトルがあったんだ。それで俺は『ツリーバーク・ジュース! こんなクソ不味いもんを誰が飲むんだ?』って言った。そうしたら、ミックが『俺だよ』と答えた。『何だってこんなものを?』と訊き返すと、『癌に効くって言われているからさ』って……ああ、何てことだろう」

PUBLIC HALL
Cleveland, Ohio. Friday, Sept 25, 1992.


 えらい昔(1916年)に建てられた会場での一夜は、特に荒れた。俺は舞台袖から、人々が叫び、そこかしこによじ登り、モリシーが投げた金色のラメシャツの切れ端をめぐって争う様子を観察する。
 ショーの後、バンド連中から飲みに誘われる。彼らと一緒に舞台裏ドアから出ようとしたが、そこにはファンがたむろっていて、俺たちはその猛アタックをくぐり抜け走って逃げなきゃならない。20フィート先に停めてあったツアーバスまで何とか辿り着いたところで、アランとギャリーが首にかけていた銀のネックレスがもぎ取られていることに気付く。リッツ・カルトン・ホテルへ向かう数マイルの間も、後をついて来たファン達がバスの横をバンバン叩いたりする。ホテ ルに着くと、そこにはまた別のファンの一群がいる。それをくぐり抜けロビーに駆け込む。ファンの何人かが俺たちと一緒にエレベーターに乗り込もうとするが、モリシーのパーソナルセキュリティであるティムにつまみ出される。
 バンドが宿泊している階へ行くには、エレベーターに乗るだけでも特別なキーが必要なのだが、俺たちがそこに到着すると、既に何人かのファンがウロウロしている。アランとギャリーはそいつらにサインをしてやりながらも、即刻立ち去らなくてはいけないと告げた。サインをもらった連中がとてもすまなそうに立ち去る。彼らがどうやって忍び込んだのかは誰にも分からない。

BB「パスを盗む、楽屋に隠れる、何でもやるさ。以前、会場から出てきたモリシーの写真を撮って、そこに写っていたセキュリティのパス部分を引き伸ばして偽造した奴がいたよ」

HUNTSMAN CENTRE
Salt Lake City, Utah. Friday, Oct 2, 1992.


 1960年代に建てられたハンツマンセンターと呼ばれる大きな銀色のドーム型会場は、あたかもローラーボール・コンテストのために作られたかのようだ。俺たちの内何人かで、もっとよくショーを見ようとミキシング・デスクから出て前へ行った。数分後、総立ちになっていた観客達がステージに向かって突進する。俺たちの後ろには高さ4.5メートルのバルコニー席があった。大勢の奴らがそこから飛び降り始める。人数が多すぎてセキュリティーも止めきれない。モリシーが群集の中にラメシャツを投げると、3人のファンがシャツの切れ端をめぐって争っている。歯で生地を引き裂く様は、まるで『One Million Years B.C(邦題:恐竜100万年)』のオーディション風景だ。スペンサーがドラムキットの大半を破壊し、そして最後にステージに残ったギャリーがドライアイスとストロボ・ライトの中央で繰り返しベースを叩いてからステージを去り、ショーが終わりを告げる。

BB「曲が順調に進めば、November Spawned A Monsterはいつも良いデキになったね。特に中盤のブレイク・ダウンの部分が良いんだ。
 本当に熱心なファンになると、朝から待って会場のドアが開くと同時に前列に走り込むから、ギグの最後の方になると、ちょっとばかしりクタクタだろうと思うよ。彼らは、そんなことをツアーの全日程でやるんだ。
 凄い光景を目の当たりにすることもある。去年(00年)のブラジルでのことだ。盲目の少女がステージに登ってモッザーの顔に触れ始め、彼を抱きしめた。白い杖を持った彼女がステージに上がるのをファンの皆で助けたんだ……驚くような光景だった」

 楽屋裏、最後に俺達はラジオ局の人間に連れられて、モリシーバンドの連中と一緒に地元のクラブに行くことになる。外に停めた中継車から夜のラジオ番組を放送をしているからだ。バーで俺の隣にいるモリシーファンが、注文したギネスを電子レンジで温めてくれとバーテンに言っている。バーテンはひどくビックリしているが、その男が言ってきかないものだから、ギネスは電子レンジの中へ……そこで俺は思い切って訊いてみた「ギネスを電子レンジに入れるのかい?」

「当然さ。だってイギリスじゃそうするんだろ……」

PNE FORUM
Vancouver, British Columbia. Monday, Oct 5, 1992.


 アランがアンコールの時に燃やすギターは、安いギターをそれ専用に買っていると教えてくれる。そりゃそうだよな。アランがステージでライターを取り出すと、ベースを持ったギャリーが近付いて来る。ギターとベースに火を点けた二人は、そのままスウィングし始め、そして頭の上まで大きく振りかぶってからステージに叩きつけるのだ。

 アランとギャズがギターを破壊している間、ボズはA.E.ハウスマンの『シュロップシャー・ラッド』の数節を朗読する。

BB「National Front Discoの終わりは最後の最後で盛り上がるところだから、いつも何か違うことをやろうと試みていた。客席からステージに投げ入れられた『シュロップシャー・ラッド』を読んで、また投げ返したりね。
 街に早く着くことがあったら、俺達は安売り店に行って40ドルのギターを買い、最後の曲に合うようにチューニングしておいた。アランは如才なく、その晩自分が使うギターのコピーを買っていたけど、ギャリーはそういったことを安物のベースギターでやろうとはしなかった……あいつは自分のフェンダー・プレシジョンでやったのさ。あいつのベースには、どれも傷跡と焼け焦げがついているんだ。
 俺達がまだステージの上で演奏している間にも、モズは舞台袖に消え、既に車に乗って会場を後にしていただろうね」

CENTRE ARENA
Seattle, Washington. Tuesday, Oct 6, 1992.


 今度のコンサートは、市のランドマークの一つであるスペース・ニードルの足元で開催される。この会場は、ミキシングデスクとステージの間でスタッフがファイブ・ア・サイド・フットボールの試合をできるほど大きい。今夜の客は友好的とは程遠い。シアトル中のshoe-throwers(靴を投げる人間)が大挙してやって来たんじゃねぇのか。Seasick, Yet Still Dockedの演奏中に、ボズはエアボーン・フットウェアの靴を当てられても全く動じなかったが、モリシーは観客に向かって言った「物を投げている奴を見かけたら……いいかい、そいつを殺せ」。

BB「シアトルだったっけ? コロラドのボルダーだと思っていたよ。あの美しいアコースティック・ナンバーを演奏していた時に、馬鹿デカい運動靴が飛んで きてギターを落としちまったのさ。マシン・ヘッドにがっつり当たったせいでギターが手から落ちて、ぶつりと演奏が止まったんだ。まるで俺が馬鹿みたいに見えただろうな。片足しか靴を履いてない奴がいないか、帰る客全員をチェックしたかったよ。両足揃って投げる奴はいないからね」

HOLLYWOOD BOWL
Los Angeles, California, Saturday, Oct 10, 1992 and Sunday, Oct 11, 1992.


 ここに至って、俺らのマネージメントは、シアトルからロサンゼルスまで車で行き、そこから飛行機でロンドン、さらに車で真っ直ぐULU(ロンドン大学組 合)に向かってステージをこなし、7時間の睡眠をはさみ、再び飛行機でロサンジェルスに戻り、車でハリウッド・ボウルまで行き、速攻でサウンドチェックに入るよう命じた。もし行きの飛行機が遅れたら英国のショーに出られねぇし、帰りの飛行機が遅れたら、モリシーのキャリア史上最も輝かしいステージを前座無しでやらせたとして数千ドルの罰金を払わされることになる。
 フライトに関してはラッキーだったけれど、とんでもない時差ボケで、とにかく感覚を麻痺させようと帰りの飛行機でドライ・マティーニを飲み、ウィスキーボトルを数本空けた。ロサンゼルスに着いた頃には、喋るのがやっとの有様だ。過去最高のステージだったとは言えないね。
 その晩、俺達はハリウッド大通りにあるルーズベルトホテルの大きなロビーのバーで、しかめっ面をしたボディーガードを伴い独りきりで座っていた男に「あっ」と思う。リトル・リチャーズだ。本当に気さくな彼は、想像よりも20歳若く見え、大量の香水を身に纏っていた。

「君達はイギリスから来たのかい? バンドをやっているの? 今夜はどこで演奏したんだい?」

「ハリウッド・ボウルです。俺ら、モリシーのサポートをやってるんです」

「ヴァン・モリソン?」

「いえ、ちょっと違います……」

BB「ハリウッド・ボウルは二晩やったんだ。一晩目のショーは最悪で、二晩目のショーは最高だった。一晩目の後に音響係りをクビにしたよ。ツアーが進むご とに次第に音が悪くなっていたからさ。ハリウッド・ボウルの時は本当に酷くて、俺が50年台物のギブソン・ギターを叩き壊しちまったくらいだよ。新しい音響係りが入ってからは、みんなとてもにハッピーになったよ」

EVENT CENTRE, SJSU
San Jose, California. Thursday, Oct 15, 1992.


 サンフランシスコ地域の二晩目のショーの間は、ロックンローラーの溜まり場に相応しいフェニックスという名の豪勢なホテルに数日間泊まった。ここは、Sex Pistolsが最後のUSツアーで滞在したのと同じホテルだったと思う。ホテルの建物は、「Dive In, Big Boy」といったスローガンとアンディ・ウォーホールの絵が描かれたプールを備えた中庭に囲まれていた。
 モリシーの出番の最中に靴が何足か投げ入れられたが、幾晩か前のショーでモリシーに投げつけられたペンギンの死体らしきものよりマシだ。
 俺らの楽屋に顔を出したモリシーに、この晩のチケットを見せた。チケットは封筒に入って売られていて、その裏には「このチケットを見せた人にはサーロインステーキ・サンドウィッチを75セント割引」とレストラン「Jack In The Box」の宣伝があった。彼は、この昔ながらのイカした商売っ気に悲しげな微笑を浮かべた。

BB「モリシーは怒りまくっていたな。こんな事があった場合、モリシーは二度とその会場でギグをやらないと丁重に決心するまでさ。彼は物凄い記憶力の持ち 主だからね」

PACIFIC AMPHITHEATRE
Costa Mesa, California. Saturday, October 17, 1992.


 Gallon Drunkにとって最後のショーだ。モリシーのツアーは、この後も一ヶ月、主にディープサウスで続いていくが、金を使い果たした俺達はここで放免となる。モリシーと彼のバンド、俺達は楽屋に並んで最後の写真を撮った。このツアーで一番大きな19000人収容の会場パシフィック・アンフィシアターでは、観客達が楽しもうと心に決めている。ファン達はバックスステージ・パスに100ドル出すと言っていた。

 ハリウッド・ボウルのショーがあった週末、ロサンジェルスのラジオ局KROQのDJがモリシーのサポートバンドの選別についてご親切にもオンエアでだいぶ文句を垂れていたらしい。俺らは信じられないくらい酷いそうだ。幸運なことに、このラジオ局はモリシーCDのチャリティ・セールを開催していて、今夜のショーの前にモリシー本人への取材のため、同じDJがケータリングルームに連れてこられた。俺達はちょうど座って夕飯を食べているところだった。このDJが番組でGallon Drunkをこき下ろした奴だと知っていたモリシーは、自ら俺達を紹介してくれた。それは凄く良い気分だった。

BB「モリシーはそういう人なんだ。良い感じだろ」



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