マーク・ネヴィン、モリシーとの思い出を語る

掲載サイト http://www.marknevin.com/
記事原文のウェブアドレス http://www.marknevin.com/collaborations/morrissey.html
* ネヴィンの公式サイトに掲載されている文章を要約(したがって翻訳ではありません)。
 色字は私の勝手なコメント。
・ある日の午後、ネヴィンがShepherds Bushにあるタウンハウス・スタジオでカースティ・マッコールのアルバム「Electric Landlady」をレコーディングしていると事務所から電話がかかってきた。何でも、当時モリシーのマネージメントをしていたFiachna O'Kellyから連絡があり、「何か話し」があるのだという。

・モリシーとの仕事に大変興味をそそられたネヴィンは、もちろん折り返しモリシーのマネージャーに電話をかける。ネヴィンはThe Smithsの大ファンだった。モリシーに曲を提供するなんて、ゾクゾクするし、本当に嬉しく思う。

・曲を書くにあたって、通常はミーティングを行い、座ってギターを弾き、曲をメモし、テープに録音する……(そこにはコーヒーポットと煙草もある……つまり社交もあるということ)……といったスケジュールを組むものだ。

・モリシーとの仕事では、そういうことはあまりない。ドラマーのAndy Paresiから電話があり、チェシャーにあるモリシーの住所と「モリシーに何か曲を送るように」と告げられる。何だか狐につままれているようだ。
ネヴィンはカムデンにある自宅のベッドルームに録音機材をセットし、数ヶ月かけて「何か曲を」作り始める。そして出来たものをカセットテープに入れ、チェシャーに送るのだ(ちなみに、宛名は"ロバート・レイノルズ"とするよう、モリシーから指定されていた)。

・モリシーは葉書で返事を寄こし、そこには誰にも真似できない彼独特のコメントや、ウィットに富んだ言葉が書かれていた。たとえば、一言「Perfect」といった具合である。

・そんなこんなで数ヶ月経ったが、未だに誰とも会わず、電話もない状態が続く。ネヴィンは、出来上がったばかりの曲をポストに投函する日々。しかも宛名は"バート・レイノルズ"……。
しかし、そんなある日、たまたまブラついていたモリシーと遭遇。なんという偶然。
ネヴィン 「モリシーだね、僕はマーク・ネヴィンだ」。
モリシーは恥ずかしさに顔を真っ赤にした(he turn beetroot red)。二人は握手をし、2〜3言葉を交わした。喋った内容についてはもう思い出せない。

・次にネヴィンとモリシーが会ったのは、Hook End Manorスタジオでだった。
(Alan Winstanleyの豪勢な個人スタジオ。Henly On Thamesホテルのすぐ傍にある)

・最初にレコーディングされたのは「Our Frank」。他参加者は、ドラマーのアンディとマッドネスのベーシストでもあるマーク・ベッドフォードである。演奏陣が録音を済ませると、ようやくモリシーがヴォーカル・ブースに入った。アラン・ウィンスタンレーがマイクロフォンにエルヴィス風のスラップ・バック・エコーをかけた。そしてモリシーが歌い始めると、ベッダーズとネヴィンは吹き出してしまう。スタジオに充満していた神経質なエネルギーと、本当にモリッシーとスタジオにいるんだという実感とが、歌詞とない交ぜになり可笑しかくて仕方がなかったのだ。

'Give us a drink
And make it quick
Or else I'm gonna be sick
Sick all over
your frankly vulgar
Red pullover
Now see how the colours blend'

僕らに1杯おくれよ
あっという間に酔わせておくれ
さもなきゃ、どうにかなっちまいそう
そこらじゅうに吐いちまうよ
お前のあからさまな下品さにはうんざり
真っ赤なプルオーバー
ほら その色合わせときたらごらんよ

これにはたまらない。モリシーが歌い終わるまでに、笑いすぎて涙がこぼれた。

・レコーディングのクライマックスは「Asian Rut」だった。沢山の楽器が揃えられ、演奏陣にはブリリアントなヴァイオリン奏者Nawazish Ali Khanが加わった。モリシーはこの曲に異人種間の暴力をテーマにした身も凍るような詞をのせ、ネヴィンにとって「Asian Rut」は特に思い入れの深い一曲となる。

・これら数ヶ月の間に、モリシーはCamden Workers Social Clubに出入りするようになった(「Sing Your Life」のビデオが撮影された場所でもある)。ここにはロカビリー・クラブがあり、モリシーはロカビリーの髪型と服装が好きだった。モリシーは次の作品をロカビリーにしたいと思っていた。それはシングル「Pregnant for the Last Time」で実現する。1990〜91年にかけての冬のことで、Hook End Manorスタジオは雪に覆われていた。

・その後、ハマースミスにあるウェストサイド・スタジオに場所を移し、「Skin Storm」と「My Love Life」のレコーディングをした。(「My Love Life」のB面になった「I've Changed My Plea To Guilty」は、「Pregnant for the Last Time」と一緒にレコーディングされた)。

・そのまま直ぐに次アルバムの制作(「Your Arsenal」)に取りかかりたいと考えていたモリシーは、ネヴィンに良いプロデューサーの心当たりはないかと尋ねた。ネヴィンは殆ど冗談でミック・ロンソンの名を提案する。ミックは、ネヴィンが10代の頃から憧れているギターヒーローであり、心酔するあまり実在の人物としては捉えがたい程だった。

・モリシーから「それは凄いアイデアだ。君、彼を捕まえられる?」と言われ、ネヴィンはミックの連絡先を探り出すという仕事を担うことになった。
モリシーのマネージメントでもないネヴィンが、何故そんな「仕事」まで引き受けることになるのか……(笑)。ネヴィン本人がミックと仕事をしたかったというのもあるのだろうが、それ以上に彼の人の好さが伝わってくる。それともモリシーのお願いは叶えてあげたくなる、モリシーからはそんなオーラがただ漏れているのかもしれない。ネヴィンの前にモリシーと仕事をしたヴィニ・ライリーも、かなりメロっていたようだし。

・ネヴィンは世界中の様々な人達にツテはないか尋ねまわり、ついにミックを捕まえられそうな人物を絞り出す。カースティ・マックールのギタリスト、ピート・グレンスターである。グレンスターのマネージャーは、かつてミックのマネージメントをしていたのだ。(そのツテを使って)連絡をした翌日、ネヴィンのカムデン・スタジオの電話が鳴った。ニューヨークからの電話。受話器から聞こえてきたのは北部訛りの声だった。
「マーク・ネヴィンかい?……こちらはミック・ロンソンだ」

1974年に、こんなことが起こると予言されても、とてもじゃないが信じなかっただろう。ネヴィンはモリシーがニュー・アルバムのプロデュースを依頼したがっている旨を説明した。

ミック 「モリシーってどんな感じだ?」
ネヴィン 「えーと、とてもシャイだけど、びっくりするくらいチャーミングですよ」
ミック 「いや、音楽について訊いているんだ
ネヴィン 「えーと、The Smithsにいた男です」
ミック 「The Smithsってどんな感じだ?


明らかに、ミックは本気で浮世離れしていた。
何にしろ、モリシーからネヴィンの自宅*で顔合わせをする段取りをつけるよう頼まれている。ミックが一週間後にロンドンに戻ると言うので、会う日取りを提案してみた。
(ミーティング場所までネヴィンの自宅である)。

ネ 「モリシーが金曜の夜にお会いしたいと言っています」
ミ 「金曜は駄目だ。妹/姉の子供の子守りを引き受けているから」

ミックの妹/姉が別のベビーシッターを見つけてくれ、ミーティングが実現することとなった。モリシーはアシスタントのPeter Hoggを伴い、ハートランド・ロードにあるネヴィン宅に現れた。

・その夜は、ネヴィンにとって忘れがたいものとなった。モリシーはレコード・スレーブそのままに前髪を立て、メガネをかけた出で立ちでネヴィン宅のソファーに座っている。ミックは1974年にボウイと演奏していた時*と同様の脱色した70年代風マレット(両サイドを剃りあげ後ろ髪を伸ばした髪形)でそこにいる。ネヴィンは14年ものの安っぽいシートに座りながら畏敬の念に打たれていた。
(ネヴィンの原文には、ボウイのAladdin SaneツアーのBristol、Colston Hallでの公演だ、と細かく書いてある。ネヴィンとモズの間にある共通点を発見した気がする。オタク気質……?)。

・お互い、何と言えば良いのか誰にも分からなかった。それから……
「で、ミック」 と、口火をきったのはモリシーのアシスタント、ピーター・ホッグだった。「デヴィット(ボウイ)が、あんたをヤろうとした(try to shag) ことはあるのか?
「何回か血眼んなってたよ。一度だって、やらせやしなかったがな」 とミックは答えた。
(このパーソナル・アシスタントは、なかなかの猛者だと思う。でもモリシーが「君、訊いてみてよ」と言わせていたとしたら面白い)。

・ミックはネヴィン作の2曲('You're Gonna Need Someone On Your Side' and 'I Know It's Gonna Happen Someday' )を含む「Your Arsenal」をプロデュースしたが、悲しいことに、そのすぐ後に癌によって急逝した。彼は人柄の好い男で、信じられないほど素晴らしいミュージシャンだった。後にボウイによって「I Know It's Gonna Happen Someday」がカバーされたことについても一番に感謝すべきは、おそらくミックに対してだろう。

・ネヴィンはモリッシーからツアーにも同行して欲しいと言われていたが、ネヴィン自身がまだRCAと契約中であり、Brian Kennedyとのアルバム「Sweetmouth」の制作等で忙しかったため、モリシーとの仕事はお終いになった。いっぺんに全てをこなす時間がなかったからだ。

・ネヴィンがモリシーと共作したレコードは決してモリシーの最高傑作とされたことはないが、それでもネヴィン自身は気に入っている。英国で一番偉大でユニークな作詞家の一人として、必ず心に思い浮かぶ人物と仕事をする機会を持ったことはとても素晴らしかった。