The man with the thorn in his side〜
心に茨を持つ男
掲載サイト The Observer
記事原文のウェブアドレス http://observer.guardian.co.uk/magazine/story/0,11913,792189,00.html
長いこと音楽業界から無視された状態にありながら、未だにアルバート・ホールのチケットを完売させ、リン・バーバラをして彼の足にキスをしたいと言わしめる男……それがモリシーだ。我々はコロラドでインタビューを行い、有名人であること、モリシーを巡る不和、なぜ友人を作らないのかなど話を聞いた。
Augst 29, 2002 Music Hall, Colorado Springs, CO ここはコロラド・ミュージック・ホール。なんとも豪勢な響きじゃないか! こんなにも陰気な場所だというのに! 殺風景、コロラド・スプリングスから数マイルのコンクリートの剥がれたハイウェイ、あたかも元は牛小屋だったかのような建物。外壁に備えられたネオンサインも大した効果を上げていない。 MORRISYと、まばらな文字がぼんやり見えるだけ。ロビーでは、人々がポリエチレンのコップに入ったビールを争いバー・コーナーに長々と列を作っており、主に古いポスターや灰色のT-シャツ数種類といったモリシー・グッズが簡易テーブルに並べられている。誰も購入する気はなさそうだ。 舞台裏、モリシーの楽屋にはトイレ以外に殆ど何も無く、テーブルが無いため、スライスしたパンを入れたプラステック容器が床に置かれていた。 The Smithsの絶頂期だった80年代、楽屋には「ヴェジタリアン用の食事とワイン、フルーツ・ジュース、そしてグラジオラスを含む50ポンド分の花束(ただしバラと棘のある花は除外する)」以上の物を用意すべしとする契約があった。後に、花についての項目はモリシーによって「3フィート以上、5フィート以下の生木」へと取り替えられたが。用意された木が高すぎた場合に備えて、ツアー・マネージャーはブリーフケースに鋸(ノコギリ)を入れて持ち運んだものだった。しかし今夜、彼の楽屋には一本の木も無い。 モリッシーのショーは、詩人ジョン・ベッチマンによる“A Child Ill”の朗読テープから始った。これにはウルドゥ語と同じくらいのインパクトがあったかもしれない。 ぶらりとステージに現れたモリシーは、長めの茶色いカーデガンを着て恰幅良く見える。前列で数人のファンが声援を送っているが、殆どの観客はまだビール・バー周辺をうろついている。そしてモリシーが歌い始めると……私は突然に、自分にとって不可解な存在であったモリシーの本質を見ることになる。 モリシーは驚異的だった……歌詞と歌声、吠え声と悲鳴のみならず、ステージ上での動きが凄いのだ。まるで歌姫のように自分の体を愛撫し、床の上で身悶え、グレダ・ガルボさながらに喉を反らしてみせる。それは、むやみやたらにCamp(ゲイっぽい芝居がかった様子)であり、アメリカの片田舎においては正気の沙汰と思えないほど挑発的だ。自作のヴェジタリアン賛歌“Meat is Murder”を歌えば、観客の中にいる肉食カウボーイ達がステージに殺到し、息の根を止められても不思議はないのだから。パフォーマンスにおけるモリシーの威厳、純然たる勇気は、彼につきまとう薄汚さを完全に超越する。全くもって真剣に、私はステージへと駆け上り、モリシーの足にキスしたい誘惑に駆られる。 私はモリシーが気紛れで気難しいかもしれないと警告を受けていた。しかし本日早朝にインタビューをしたモリシーは格別に礼儀正しくフレンドリーで、私のポップ・ミュージックに対する無知さにも寛大だった。そして素晴らしい冗舌さでジャービス・コッカーがモリシーに遠く及ばない理由を説明してくれた。要するにコッカーは歌えないからだそうだ。そう言いつつも、同時にPulpなど聴いたこともないと主張していたが。 モリシーのジョークは自嘲ネタも含めて面白い。なぜ酒やドラックに対してそこまで厳しい姿勢をとるのか尋ねると、彼はこう言った。 「まさしく自制心の問題だからね、でしょ? 飲むのは構わないんだよ。ただ、僕は常に酔っ払っていたりはしない。つまりね……僕は素晴らしい人間ってわけ。距離をおいて見る分にはね」 現在、モリシーは43歳で年相応に見える。やや胴回りが厚くなり、こめかみに灰色のものが混じっている。おそらく有名デザイナーのものと思われる、馬鹿みたいにピッチリしたピンタッグ付のデニムスーツを着ている以外は、ごく真っ当な人間に見える。マンチェスター訛りでマンチェ流のドライなウィットの持ち主であるが、同時にアイルランド系の両親から引き継いだらしい『Bejaysus!※』という言葉をよく口にする。 (※アイルランドの地方で使われる感嘆符「わあ!」とか「すごい!」「何てこと!」といった意味)。 今は3ヶ月に及ぶツアーの折り返し点で、アメリカの街々をまわり、それからイギリスに渡ってロイヤルアルバートホールでコンサートを2回した後、さらにオーストリアとパリにも行くそうだ。モリシーはツアーが好きだと言う。何故なら、観客の前で歌うのが好きだから……単純な理由だ。コロラド・スプリングスは少々辺鄙な場所だと認めながらも、 「これは、見通しのつかない市場を開拓する力が、自分にあるのか試すテストだと考えている」と、言う。 モリシーのキャリアは奇妙な地点に立っている。英国のプレスに対しては、常に「僕はアメリカではビッグだ」と言っているが、実際のところ私がアメリカで出会った人達は、モリシーの名前を聞いたことさえ無かった。 その一方、英国では来週行われる2回のアルバートホールのコンサートチケットを完売させており、現在も良いファンベースを持っていると伺える。とはいえ、未だ燃え尽きない旧The Smithsファン達がいるに過ぎないのだろうか? モリシーは違うと言う……The Smithsが活動していた頃にはまだ産まれたばかりだったティーンエイジャー達が、モリシーに惹き付けられているのだと言う。もしそうだとしたら、どうやって若いファンを獲得しているのか、ちょっとしたミステリーだ。何故なら、マーキュリー社と3枚のアルバム契約を結びながら最初の1枚きりで解雇された 96年以降、モリシーはレコード契約を持たないままなのだ そして未だに契約先レコード会社を物色中だ。 「だってね、レコード会社ときたら揃いもそろって、僕がどれだけ妥協するつもりか訊くわけだよ。そこで『何も』と答えると、ある会社は『いいでしょう、契約はしましょう。ただし、レディオヘッドと一緒にアルバムを作って頂きたい』……そんなの僕にとって何の意味があるの。いくつかのレーベルは、『いいでしょう、あなたとは契約したいのですが、あなたのバンドメンバーと契約するつもりはない』と言う。いつだって完全なナンセンスを作り出す馬鹿げた条件があるんだ。おまけにアメリカのレーベルが必ず言うのは、『アメリカのチャートで成功するような音楽を作りますか?』。僕は『Bejaysus! そんなのごめんだね!』って答える。そしたら直ちに路上に放りだされるのさ。そういったミーティングでの僕を見たら、君も本心から同情を禁じえないだろうよ」 要するに、その結果レコード契約が無いのだ。それはラジオで曲がかからないことを意味する。それは新しいファンがつかないことを意味する。それはキャリアが(ここコロラド・スプリングスでは、既にかなり危なく見えたが)先細っていく運命にあることを意味する。勿論現時点では、The Smithsの印税から相当な収入を得ているが…… 「これから先も転がり込み続けるかは分からない……僕の言うべきことじゃないけれど。何か事を起こそうと躍起になっちゃいないよ……何事も無理強いはしないのさ。自分がキャリアの真っ只中にいるとも、深い悲しみだとも感じないし、金を稼がなきゃとか……そういう気持ちになったことは一度もない。何事もなるようになるのさ。まるで背後に運命を導く見えない手があるようにね」 何だかんだ言っても、モリシーにはまだ快適な生活を送る余裕がある。モリシーはアイルランドに家を持っているが、ここ4年間はロサンジェルスのサンセット大通り外れにある邸宅に住んでいる。50年代にクラーク・ゲーブルがキャノン・ロンワードのために建てたとして知られる家だ。プレスお決まりの質問として、もしジョニー・ディップが隣に住んでいたらどうします? と尋ねたところ、モリシーは私を正して、 「いや、実際に隣に住んでいるんだ」 ロサンジェルスはモリシーの肌に合っている。何故なら、 「とりわけセックスレスな街だからね。人々の体はとても衛生的で、ありとあらゆる種類のエクスフォーリエイション(角質ケア剤)、ムース、コロンで身を固め、どんなセクシュアリティの形跡もとどめていない。浮世離れしているよ。だからこそ、上手く僕が溶け込んでいる!」 最近では、モリシーは滅多にマンチェスターに帰らない--航空券を買うのはそこで暮らしている母親、姉、父親に会うためだけで、決して長居はしない※。 ※モリシーはソロになってから04年まで一度もマンチェスターでコンサートを開かなかった。
「僕にそっぽを向き、それから非常に特異な状況下で僕を受け入れた街……マンチェスターに行くと、とても奇妙な感情のオンパレードに見舞われるんだ。ティーンエイジャーだった頃、僕はいつも困難な状況にいた。12歳の時に、デヴィット・ボウイやロキシー・ミュージックを観に行こうとしたが、マンチェスターの辺りを独りでうろつき回るにはまだ幼すぎた。当時の重要なコンサートは全て観たけれど、遊び仲間も、友情も、どんな種類の集団にも属していなかったから、全く独りきりで経験したんだ。僕が好きだった音楽を、ちゃんと理解する人は一人もいなかった。皆、70年代初頭がどれほど厳格だったか覚えていないね。デヴィッド・ボウイが好きだと認める人間は多くなかったし、ニューヨークドールズに至っては言うまでもない……屈強なマンチェスター人とは相容れないのさ」 モリシーはベッドルームでスターへの思いを募らす典型的なポップスター・オタクだったが、勿論、そんじょそこらのオタクではなかった。10歳から全ての音楽雑誌を講読し、どれか一冊でも失くそうものなら、慰めようもなく落ち込んだ。それだけでなく、NMEを始めとする各音楽雑誌へ宛て、重箱の隅を突くように記事のミスを指摘し見解をこき下ろす手紙を、延々と時には日に30通も書いた。13歳にならずして、既にポップミュージックの生き字引だったのだ。 「僕は今まで一度も人や場所に恋をしたことがないんだ。僕が恋するのは、いつだって7インチ・シングルだった。僕はポップミュージックをとても真剣に捉えていた。全ての中心、全ての人達に影響を与え、突き動かすものだと考えた。僕の人生はそこから出発した。子供の頃、隣から苦情が来ようとも毎晩のように歌ったものさ……歌いたくて気が狂いそうだったから。ヴォーカル・メロディにとり憑れていたのさ……うん、今もそうだね。実際、人生における最大の関心事になった。他のこと、ありとあらゆることを犠牲にしてね」 ただしThe Nosebleedsというバンドに在籍した短い期間を除いて、モリシーはずっとベッドルームの壁に向かって歌い続けていたのかもしれない。1982年、ジョニー・マーが彼の人生に踏み込んでくるまでは。 マーはモリシーより4歳年下だったが、既にマンチェスターの音楽シーンに良いコネクションを持っていた。モリシーが書いた詞を見せ、マーがそれに音楽をつけた。それから二人のミュージシャンを雇い、The Smithsと名乗った。(バンドメンバーの殆どがアイリッシュ系の両親を持つことを考えると、奇妙な名前を選んだものだ)。バンドは瞬く間に有名になった。 「まさに一夜にして成功したんだ」 と、モリシーは同意する。 「そして内気で縮こまった人生から踏み出すために……ううん、人生なんて呼べるものじゃなかった……銀行口座も車も持ったことが無かったのだから……そこから前へ進むために、自分の頭の中にだけ存在した壮大なゲーム・プランを明かしていくのは、最高の学習プロセスだった」 5年間の活動でThe Smithsは5枚のベストセラー・アルバムと、14枚のヒットシングルを生み出した。モリシーが言う通り「正に、まさに純粋なサクセス・ストーリー」だった。 しかし1987年、ジョニー・マーのバンド脱退宣言がThe Smithsの終焉となった。モリシーは打ちのめされた。モリシーにとっては青天の霹靂だったのだ。それ以来、法廷を除いて、二人は会っていない。モリシーはマーに会いたくないと主張する。 「自分を悪く言う人間に会いたい奴なんかいる? まさかいないだろ。彼は僕のソロ作を誉めた試しがない。それにThe Smithsの最後に僕が酷い欝状態にいたことを……バンドの崩壊が僕を殺しかねなかったと知っていたくせに……。けれど、結局は僕の大勝ちさ……だって彼は今まで一度だって良くやったと言われたことがないからね」 ソロキャリアのスタートが成功した時、「誰よりも一番驚いたのは僕自身だ」と、モリシーは主張する。1stアルバム「Viva Hate」はヒットした。しかし続くアルバムはどれも芳しくなかった。最後の一枚「Maladjusted」は殆ど売れなかった。マネージャーを代え続けたことや、95年にデヴィット・ボウイのツアー・サポートを降板したのも良くなかった。当時アシスタントだったジョー・スリーが降板理由を語っている「モリシーは重度の鬱病で、今にもバラバラにほどけてしまいそうだった」。だが、モリシーはボウイ本人からボウイの曲を歌えとしつこくせがまれたせいだと言う。 それから裁判沙汰があった。The Smithsの元ドラマー、マイク・ジョイスとの長期に渡る裁判だ。ケリがついていようがいまいが、この話題を質問事項に挙げたのは失敗だった……。モリシーは突然に沈込み、次第に雲行きが怪しくなる独言へと突入していった。彼はジョン・ウィークス判事ほど邪悪な人間には初めて会ったと言い、ジョン・ウィークスという名をまるで呪詛か怨念のように口にする。 その裁判は、1987年にThe Smithsが解散し、モリシーとマーが途を違えた後、他の元The Smithsメンバー、マイク・ジョイスとアンディ・ロークの二人がバンドの所得から25%どころか10%※しか貰っておらず、薄給だったと考え始めたことから端を発した。(※これはクレジットがモリシー&マーになっている著作権料ではなく、あくまで演奏料についての話だ)。ジョイスとロークが実質的、法的な契約をしていなかったことから状況は複雑だった。とにかく、彼らはモリシーとマーに対して利益の返還を訴えた。ロークは直ぐに示談に応じたが、ジョイスはあくまで訴えを退けず、1996年には高等裁判所まで持ち越された。最終陳述はジョイスに味方し、判事はモリシーを『反抗的で心根が曲がっており信頼できない』と断じ、モリシーとマーに1億2500万ポンドの支払いを命じた。マーは支払ったが、モリシーは控訴し……棄却された。 明らかに痛手を被ったには違いない……しかし6年前の出来事だ。今はもう立ち直ったと考えるだろう。いやいや! とんでもない! 「あれは、とんでもない誤審だ」と、モリシーは吐き捨てる。「この裁判のポイントは、『死にそうなほど金に困って哀れなほど取り乱したMr.ジョイスは、かつてモリシーとマーから酷い扱いを受けていた―』なんて言われたけれど、演奏におけるジョイスの小っぽけな貢献度を考えれば、実際にはとても寛大な待遇を受けていたんだ。あいつは楽器を弾いて、後はとっとと家に帰っていた。いつだって女漁りに余念がなかったよ。The Smithsの歴史を通して、ジョニー・マーと僕自身は決して誰とも寝なかったし、The Smithsをとても真剣に受取っていた。僕らは全てを完璧に仕上げようと深夜まで働いたが、ジョイスは全く正反対だった。義務感が欠如していた。そんな人間だからこそ、バンドが解散して10年も経ってから1億ポンドを要求したりするんだろうね」 モリシーとマーは共に出廷したが、弁護士を通してしか言葉を交わさなかった。最終的に、マーは判決を受け入れ、モリシーは見込みの無い控訴を申し立てた。 「控訴審に行くとね、君が泣きつく判事として、同じ年頃、人柄、バックグランド、物腰をした3人に出くわすんだよ。しかも彼らの態度ときたら『よくも我々の友人に反抗してくれたな』といったものさ」 といったことから、モリシーは異議申し立てを行った。相手はブレア首相、女王、(首相は全く関心を示さず、女王はとても丁重だった)、上院議長、行政監察委員、事務弁護士会、法廷弁護士協議会だ。 「けれど、連中ときたら判事達を守るための申し立てしか採用しないのさ」 その間にもジョイスがモリシーの母親の家と姉の家※を差し押え、訴訟の決着がつく前に家を売却できないようにした。 ※なぜ彼女らの家なのかは、おそらくモリシーが英国内に資産らしい資産を所有していないためと思われる。
現在、モリシーは莫大な費用がかかると分かっていながら欧州人権裁判所に訴訟を持ち込んでいる。 「だって新しく雇った事務弁護士ときたら、どいつもこいつも、とんでもない状況だと思った途端、何もしないうちから10万ドルの請求書を叩きつけてくるんだよ」 自身の健康と正気と、費用の損失を止めるために、もう手を引くべきではないだろうか? 「嫌だ。絶対に降伏しないぞ。体がバラバラになるまで戦うとも。沈み行く船と運命を共にしようともね。母も同じだよ。僕らは決してへこたれないんだ。全然ね。だって正しいのはこっちの方なんだから」 そうは言っても、この裁判が人生を腐らせている気がしてならない。 「いや、それは違う。お陰で不屈の意志を強めた。僕はちっぽけなマンチェスターでビールの空き瓶に囲まれて縮こまってる人間とは違うんだ。僕を引きずり降ろすつもりなら、長くハードな戦いを強いられるハメになるぞ」 ふぅ……この話題を振ったばかりに、このような殆ど純然たる毒に満ちた1時間半となってしまい残念だ。後で気付いたことだが、モリシーのアシスタント(当時)のブロッサムから何を話したのか尋ねられ、「裁判の話をだいぶ」と答えたところ、彼女は顔を曇らせた。きっとモリシーの友人達(モリシー自身は友人などいないと言っているが)は、この話題が“押してはいけないスイッチ”だと知っているのだ。とにもかくにも、常にモリシーが喜んで議論すると思しき「存在しない性生活」に喜んで話題を変えるとしよう。 今まで親密な関係を築いたことは? 「肉体関係を伴うものは無いね、ノーだ。つまりね、この地球上にもセックスに囚われない人達が存在し、その一人がこの僕ってことさ。興味が無いんだ。僕は隠し立てしたり、夜闇に紛れて何処か秘密のいかがわしい場所に出没したりしない。17歳の頃も興味なく、27歳の頃も興味なく、37歳になる頃には更に興味を失い、今ではもっと興味を失くした。自分の無交際ぶりを至極楽しんでいるから、胸に穴が開いたようには感じない。夜は家に篭り、そして誰の食事の世話をするでもなく、話を聞いてやることも、我慢することもないことを心の底から名誉だと感じる。独りで生きる甚大なる恩恵だね」 親友はいますか? そう尋ねると、モリシーは嘲笑し、 「親友だって? 43のこの歳で? 親友はクレジットカードさ!」 猫でさえない? 「いいや、自分自身が親友だね。僕は自分の面倒を本当に本当に良くみるよ。自分を落胆させることは決してないと断言できる。夜眠る間際に傍にいて欲しいのも、朝目覚めて最初に見たいのもこの僕さ。尽きない魅力、夜の8時だろうと、朝の8時だろうと、魅了されっぱなしさ。離婚なんか有り得ない終生の契りだ。どうしてって、さっきも言った通り恩恵だからね。それが正直な答え」 モリシーは嘘をついてはいないだろう。しかしモリシーの自覚的な自己への執着を考えると、有名であることや、他者とのコミュニケーションが必要だと定義されるポップミュージックのような業界に身を置くのはおかしいように見える。 「そうだね」と、モリシーは同意する。 「本当に全くもって矛盾しているよ。けれど僕がここにいる理由は、ポップミュージックのスターダム……君がそう言いたいなら、スターダムの不明瞭な要素からじゃない。基本的に僕は書き言葉とポップミュージックにおける詞の展望を変えることに大きな関心があって、それをやり遂げてきたと思う。The Smithsでは、今までに無かった辛辣なロマンティシズムを取入れて多くの人達に受け入れられた。それに英国ポップミュージック史の面白い逸話になるのは素敵なことさ。おまけに従順でも、微笑みに満ちても、退屈でもないっていうんだから」 そう言って、微笑みを浮かべながら、モリシーはコンサートのためコロラド・ミュージックホールに消えて行った。私が遅まきながら、突然にモリシーという男のポイントを発見するあの場所へ。 |