生年月日:
1969年1月31日
出身地:
ロンドン郊外
担当:
ドラム 作曲

在籍時期
1991 Kill Uncle tour
1992 Your Arsenal tour
1995 Boxers (In Person) & Southpaw Grammer tours
1997 Maladjusted tour

参加アルバム
Your Arsenal (92)
Southpaw Grammer (95)
Maladjusted (96)

モリシー関係以外の活動
・Born Bad
Alain Whyte - vocals/guitar
Spencer Cobrin - drums
Guy Bolton
Ian Arrow
(担当楽器は推測)

・The Memphis Sinners
Alain Whyte - vocals/guitar
Gary Day - bass
Spencer Cobrin - drums
Johnny Nitro - guitar

・Lorca* (Spencer wasn't involved in)
Uncut誌の記事Manchester's Answer To The H-Bomb(98)にて、このバンド名でアランと活動していたという記述があるが、後にスペンサー本人は、ジョニー・ブリッグウッドが(Lorcaという名前で)何かをしていたかもしれないが、バンドではなかったし、自分がメンバーだったこともなく、何も知らないと答えている。

・Elva Snow
Spencer Cobrin - guitar/drums/piano
Scott Matthew - vocals
Paul Jenkins - guitar
Tim Bright - guitar/bass
Peter Gingerrich - guitar/bass
98年にNYで共通の友人を介して知り合ったスコティ・マシューと結成したバンド。スペンサーが作曲、マシューが作詞と歌メロを担当している。00年1stアルバム「Elva Snow」をリリースした。このアルバムから2曲が、それぞれ映画のサウンドトラックに採用された。05年現在、マシューは他バンドでも活動しているが、Elva Snowは解散していないようである。さらにスペンサーは映画・TVショー用の作曲へと活動の場を広げている。
Spencer James Cobrin スペンサー・ジェームズ・コブリン
 スペンサーの音楽キャリアは、ベーシストの友人らと結成したサイコビリーバンドから始った。幼少期は内気で人見知りな子供であり、成長してロンドンに出てからも常によそ者のように感じていたというスペンサーにとって、音楽は避難所であり、感情を開放する大切な手段だった。「とても真剣に練習した。執拗にね。それしか、したいことがなかったんだ」。彼らはハマースミスにあるKlub Footのようなライブハウスで演奏していた。

 その後、友人関係にあった他のロカビリーバンドのメンバー(アラン・ホワイトと他2名)とともにBorn Badを結成。このバンドが解散した後もアラン、The Nitrosのギャリー”ギャズ”・デイと共にThe Memphis Sinnersを結成、アランがモリシーとコネクションを作ったことをきっかけにモリシー・バンドのドラマーに抜擢される。この時、若干22歳。数週間前まで小さなライブハウスやパブで演奏していた彼は、アリーナ・クラスの会場をも回るワールド・ツアーのステージに立つこととなる。ドラムを破壊する勢いで叩きまくりながら、時おり楽しそうな笑みを浮かべる様子に、観ている側も気持ちが良くなる。

 しかし、スペンサー自身は葛藤を抱えていたようだ。当時をこう回顧している。

「(Kill UncleツアーとYour Arsenalツアーは)、カオス、アドレナリン、興奮、何もかもがゾクゾクした」

 だがステージの熱狂は24時間永遠に続くものではない。

「ショーを終えてツアーバスに戻ると凄く気分が沈むんだけれど、それにパフォーマンスから得た高揚感が入り混じって複雑な気持ちだった。汗だくのまま、虚脱状態になっていたのさ。ツアーの初期からそんな感じだった」

 スペンサーはパフォーマンスの興奮を求めて生きていた。

「けれど悲しいことに、そういった高揚感を求める刹那的な生活と経験のせいで、ツアーをしていない時間を拷問だと感じるようになった。休みの時期は、本当に酷い鬱状態で、まっすぐ考えることはおろか、まともに機能することもできなかった」

 93年、Your Arsenalツアーが終了し、Ladsメンバーが「Vauxhall and I」のリハーサルに取り掛かる中、スペンサーは解雇を言い渡される。(同時期にギャズも解雇されている)。アルバムは新ドラマー、ウッディ・タイラーを迎え収録された。従って、「Vauxhall and I」のクレジットにスペンサーは含まれていない。

 翌94年、スペンサーは再雇用され、同じく再雇用されたギャズとともに同年4月から5月に行われたシングル「Sunny」「Hold on to Your Friends」のレコーディングに参加する。(94年5月発売に発売された「Vauxhall and I」のライナーにモリシーからスペンサーへの謝辞が記載されているのは、この為と思われる)。しかし、数ヵ月後に再びギャズとともに解雇される。やはりギャズ同様に、解雇通知は直接モリシーの口からは伝えられず、第三者を通してのものだった。

 94年10月に行われたBoxers EPのレコーディング後(ドラマーはタイラーである)、スペンサーは再雇用され、95年のBoxers ツアーに参加する。このツアー終了後、アルバム「Southpaw Grammer」のドラムも勤めている。「Southpaw Grammer」は、モリシーのアルバムの中でも最もアグレッシブであり、ハード・ロック的な作品となっているが、これはスペンサーのドラムに依るところが大きいだろう。

 Southpaw Grammerのロック性について、スペンサー自身は、 「(95年2月のBoxers)ツアーが終わってすぐにレコーディングに突入したため、興奮の余韻、アドレナリンが残っていた。また結構な時間をアメリカで過ごしていて、ニルヴァーナのようなバンドをよく聴いた。ちょうどそういう音を吸収していたんだ。(ドラミングに)ちょっと違うアプローチを適用してみたのさ。ただし、それは技術的なことで、スピリチュアルな面においては”マッチョ・ロック”とは全く違う」といった旨を語っている。

 Southpaw Grammer発売後、95年11月からアルバムのプロモーションと、デビット・ボウイのOutsideツアーのサポートを兼ねたSouthpaw Grammerツアーに参加する。しかし、このツアーはモリシーがボウイのサポートの途中降板を決めたため日程を残したまま終了してしまった。

 97年8月、アルバム「Maladjusted」リリース。スペンサーはドラム演奏と、「Wide to Receive」の楽曲を提供した。「Wide to Receive」はアルバム全体の中でもメロディの美しさが傑出した良作である。

 同年9月から12月の間に敢行されたMaladjustedツアーに参加。

 97年12月、スペンサー作曲「Lost」がシングル「Roy's Keen」のB面曲としてリリースされる。「Lost」もまた叙情を湛えた佳曲である。続いて98年1月、スペンサー作曲「Now I am a Was」が「Satan Rejected My Soul」のB面曲としてリリースされる。

 スペンサーといえば、前述した通りの激しく叩きまくるドラムが印象的であったため、これらの曲が彼の作曲であると知ったときには非常に驚いたものだが、スペンサー本人は、まるっきりのロックというよりも、ロマンティックでエモーショナル、悲しげなものが自身の作曲スタイルであると語っている。

 ここで少しスペンサーの音楽経験について05年のインタビュー記事を元に記しておこう。彼が初めて買ったレコードは、ハイドンのトランペット・コンチェルトだった。14歳だったときに、彼の世界を一変させたのがMadnessのアルバム「One Step Beyond」だった。それからモッズに傾倒し、続いてパンク、ビー・バップ(40年代初期に革新性をもって登場したジャスの形態)、クラッシク音楽と興味の幅を広げていったそうだ。

 98年、スペンサーはThe Ladsを辞職した。
辞職理由については、最終的に「旅立つ時が来たからだ」とだけ言葉にしている。

 今でもThe Ladsのドラマー交代がある度に、ファンの間から「スペンサーは戻って来ないのか」という声があがる。キレの効いたドラムと、「Lost」で聴かせてくれた作曲能力を懐かしんでのことだろう。インタビュー記事等から受けた私の印象としては、彼自身の音楽活動のために旅立ったスペンサーがLadsに復帰することは無いと思う。しかしながら、20代の殆どをThe Ladsのメンバーとして過ごし、モリシーと仕事をした経験は素晴らしかったと語るスペンサーの今後を陰ながら応援したい。

More Memo
今もファンの心に残るスペンサー三大伝説
1)「We Hate It When Our Friends Become Successful」のPV
 アイスクリーム舐め。モリシーも思わず吹き出す(これ、マジ笑いだと思う)。

2)TVインタビュー中にXXX
 91年、アメリカでのThe Lads4人が揃った(モリシーはいない)TVインタビューの収録中、ずっとズボンの中に手を突っ込んでモゾモゾさせていたスペンス。かなり生々しい動きだったとのこと。本人曰く、
「だって痒かったから。本当にインタビューの間中やっていた? 細かいところは覚えてないな。そのテープ、もう一度観てみたい。凄い面白いだろうな」
 キャプチャ画像だけ見たが、本当に思いっきりやってる。収録中くらい我慢しなさいな。

3)恥ずかしい写真
 morrisseytour.comが99年に送った質問状の答えがこれだ。(書面回答。morrisseytour.comのサイトで直筆が見られた)。

Nostalgia: My most memorable moment- Texas '91my most memorable moment with Morrissey was in a hotel room as we rolled around in bed (naked of course) for a private photo shoot. A lot of fun. Shame the pics will never see the light of day.

『ノスタルジア: 俺の最も思い出深いモリシーとの瞬間は、ホテルのベッドルームで、プライベートな写真撮影のためにベッドの上で一緒に転ろげ回ったこと(勿論、裸でね)。とても楽しかった。あの恥ずかしい写真の数々は絶対に日の目をみないだろうね』

 その後、morrisseytour.comが00年に行ったインタビューで「これ、マジなんですか?」と再度質問をぶつけたところ、

「めちゃくちゃ思い出深いな……」
 モリシーとあなたのようなヘテロ男性が二人だけ(+カメラマン)で裸でベッドを転げ回った?
別のお愉しみってところさ。凄く面白かった
 その写真はどうなったんでしょう?
「モリシーが燃やしたに違いない(笑)」
スペンサーだけで、あえて他のメンバーが参加していないことの方が気になる。

どんな下着を穿いているか?
「夏は穿かない(00 morrisseytour.com)
 この斜め45度な回答っぷりが好き。

スペンサーが小っちゃいってことは
「It's Hard To Walk Tall When You're Small (チビだと堂々と歩くのは難しいよね)」は、スペンサーについての歌だという噂に関して、
「ふーん、もしそうなら、偉大なる文筆家の作品の中で生き続けるなんて何よりじゃないか(05 Pretty Petty Thieves)

ブリルクリームは使えない?
 ロカビリーバンドで演奏するからには、ヘアスタイルをビシッとキメねばならない。しかしスペンサーは定番のブリルクリーム*を使っていなかった。何故なら
「違うメーカーの製品を使っていたんだ。いかしたクイッフ・スタイルにしたくても髪のヴォリュームが足りないって奴が使う種類の。ロカビリーバンドで演奏するようになって使い始めたんだけど、他の連中みたいに恰好良いクイッフができた試しは無かった(05 Pretty Petty Thieves)
 そいうえば一番初めはスペンサーもクイッフつきだった。後からベリー・ショートにしたのは髪のボリュームが足りなかったからなのか。
*英国・欧州で有名なヘアクリーム。スタイリング、グロス効果抜群らしい)