Der Vorleser  8






 その次に屋敷に行った時、ジョミーは運転席のリオに思い切って切り出した。
「あの、夕食なんですが」
「はい?」
「今日も用意されてるんでしょうか」
「はい、言いつかっておりますよ」
 ジョミーは深い溜息をついた。
「参ったなあ。毎回あんなご馳走のご相伴に与ってちゃ、何しに来てるんだか分かんなくなっちゃうよ。どうやって断ればいいんだろう」
 頭の後ろで腕を組み、どさりとシートに凭れるジョミーをちらりと見て、リオはくすりと笑った。
「あの方との食事は、楽しくないですか?」
「そんなことないです。でも」
「お口に合いませんか?」
「とんでもないです。凄く美味しいです。けど」
 リオは遮るように畳み掛ける。
「でしたら、私たちを助けると思ってお付き合い願えませんか」
 ジョミーは首を傾げた。
「…助ける?」
「多忙な方です。なのに、食事をきちんと摂ろうとはなさらないので、いつも困っていまして…食べたとしてもごく少しだったりするのですが」
 にこにこと笑顔でリオは続けた。
「あなたをもてなすのは楽しみのようで、食がいつもより進んでおられるようなんです」
「そうなんですか?」
 ジョミーから見れば、ブルーはそれでも小食だ。
「ええ。ですので、宜しければ是非」
「うーん…そういう事なら…」
 困り顔のまま、ジョミーは取り敢えず納得して頷いた。
「それから、もう一つ気になってることがあるんですけど」
「私でお答え出来ることでしたら」
「ブルーって、やっぱり忙しいひとですよね?」
「ええ」
「ぼくの都合に合わせるより、あのひとの都合に合わせる方がいいんじゃないかと思うんだけど…」
 リオは軽く首を振った。
「あの方の都合に合わせていたら、いつまで経っても時間が空きません」
「…え、でも」
「はい、着きましたよ」
「あ。有り難うございました」
 カートから降りると、直ぐにドアが戻って閉まる。
「いつもの部屋ですので、そのままお進み下さい。ぼくはこれで」
 笑顔のまま若干早口でそう言い終わると、呼び止める間もなくリオはカートを出して行ってしまった。
「なんか悪い事訊いたのかな…? てかあの人、地は『ぼく』なんだ」
 表情には全然出ていなかったが、よほど慌てたのだろうかとジョミーは一人で首を捻る。首を一振りして、図書室に向かった。

 呼びかけても返答が無く、しかしリオの口振りだとこの部屋の何処かには居るだろうと当たりを付ける。二階には居らず、いつも通される一階にも居ない。
「三階、かな?」
 入ったことはないが、少し待ってもブルーが現れる様子がないので、ジョミーは二階に戻った。部屋の奥の上り階段で、上に声を掛ける。返事がないので、そろそろと階段を上がった。
「ブルー? 居ませんか?」
 言ってから、しまったと小さく舌を出した。
「敬語禁止、敬語禁止っと」
 階段を上りきって、辺りを見回す。下の階と違って暗い。本棚の造りも違う。重厚な木の棚にぎっしり詰まっているのは辞典や百科事典、総覧の類だ。随分古い造りの本も目に止まる。皮に押された金箔が薄くなっており、アルファベットは英語ではないようだ。
「凄いな…」
 それがどこまでも続く景色を横目に進む。圧迫感を感じさせるほど密集してはいないが、長い時間を感じさせ、威厳を醸し出している。
「ブルー?」
 一度足を止めて、また呼びかけてみる。耳を澄ませば微かに空気を振るわせる音が聞こえてきた。寝息のようだ。目を遣ると、部屋の奥に長椅子の背が見えた。肘掛けの辺りに銀髪が覗いている。足音を忍ばせて、起こさないように近付く。
「…寝てるの?」
 覗き込んで、思わず息を止める。
 机の上に、ロングコートが無造作に投げ出されている。靴も脱ぎ捨ててあり、スラックスから素足が覗いて肘掛けの上に乗っている。ニスで磨かれた木の色と、白い足の対比にどきりとした。シンプルだが上質なシャツの襟元が開いていて、鎖骨と細い首が曝されている。ネクタイを中途半端に緩め、手がそこで止まっている。僅かに上下する胸元から目をそらす。しどけなく開いた口からは細い呼気が漏れて、整った容貌に乱れた銀髪が掛かっている。
 何かに誘われるようにふらふらと、指先で髪を払う。肌の柔らかさが指に触れる。
「う…ん」
 小さな寝返りと共に零れた声は、艶やかな色を纏ってジョミーの耳に滑り込んできた。ごくりと唾を飲み込んだ。
「…じゃなくてー!」
 我に返り、ジョミーはくるりと後ろを向いてぶんぶんと頭を振った。
(待て待て待て待て――! おおお落ち着け落ち着け落ち着け!)
「…ジョミー…?」
 寝起きの気怠さで名を呼ばれ、ジョミーはびくっとして振り返った。何とか笑顔を取り繕う。
「あ…の、勝手に入ってすみません。お早うございます」
 混乱していたがともかく。
(何もしてないし! セーフ!)
 ぼんやりした顔で、ブルーは欠伸を一つした。ゆっくりと起き上がる。細い腕が背もたれに乗る。
「今、何時?」
「えっと、その、三時過ぎ…」
 ちなみに、約束は二時である。
「三時…」
 ブルーは紅い眼をぱしぱしと瞬かせて、ことりと首を傾げた。
「…三時?」
「はい」
 ブルーの瞳の焦点が急速に合う。
「三時!? すまない、待たせた!」
「いいんです、ぼくなら大丈夫ですから!」
 ブルーはわたわたと立ち上がり、ジョミーはあわあわと両手を振った。
「ブルー、疲れてるならまだ寝てても」
「冗談だろう? 折角きみが来てくれてるのに。ああ、それから敬語は」
「あ、ごめんなさい。ちょっと…驚いて」
 すっかり頭から飛んでいた。深呼吸を二度して、ジョミーは心を落ち着けた。
「ブルー、帰ってきたのって何時?」
「確か、朝の六時くらいかな。時差がちょっとね。本当にすまなかった。着替えても構わないかな」
「あ、はい。下で待ってればいい、かな」
 簡単に敬語は抜けないな、と思いながら言葉を遣う。
「そうして貰えると有り難い」
 こくこくと頷くと、ブルーは直ぐ傍にあったドアをくぐった。ちらりと見えた部屋の中は簡単な応接間のようだった。自分にはそう見えるという事は、おそらく普段遣いの部屋なんだろうと、ぼんやり考えた。
 階段を下りて二階に着いた所で、ジョミーは深々と息を吐き出す。
「綺麗な人だとは思ってたけどさあ…ちょっと冷静になれ、ぼく」
 それにしても何あの色気、と半分泣きが入りながら、一階に降りた。
 座って待っていても落ち着かない。考えないようにしているのに、着替えている様子をつい想像してしまう。
(駄目だ、心を無にするんだ。じゃないと)
 基本的に、ブルーと逢う時は二人きりだ。ジョミーは深くため息をついた。
(…やばいよなあ…)
 色々な意味で、頭を抱えた。

 着替えて降りてきたブルーは、もう一度謝罪を繰り返した。ジョミーは大袈裟なくらいに手を振る。
「ほんと気にしてないから」
「有り難う。…ところで、ぼくは何か言っていなかった?」
「何かって?」
 ブルーはふっと表情を和らげた。
「寝言を時々言っているようなんだ。きみがそう言うなら、大丈夫だったんだな。良かった」
「寝言? ブルーが?」
 ジョミーは目をぱちくりさせて、それから盛大に吹き出した。
「えー! 意外だなあ!」
「意外? そうかな」
「うん、なんかブルーって、そういう感じに見えないから」
 ブルーは小首を傾げた。
「どういう風に見えてるのかな?」
「なんかこう、ちょっと人間離れしてるっていうか」
 薄い唇に微苦笑が浮く。
「あまり嬉しくないな」
「いい意味で。凄く、綺麗だし」
 言ってから、ぽろっと零れた本心に内心慌て、そろりとブルーの表情を伺う。
 紅い瞳を瞠って、彼はひどく驚いているようだった。
「…ぼくが?」
「うん。…あ、そういう風に言われるの、もしかして嫌だった?」
 普通に考えて、男に綺麗とはあまり言わないな、と思い当たる。ブルーくらいの造作なら、そう言われ続けて嫌になっていたとしても不思議ではない。
 少し時間を措いて、ブルーは緩く首を振った。
「いや…構わないよ。きみに褒められるなら、嬉しいね」
 ブルーは、さながら大輪の薔薇が咲くようにふわりと微笑んだ。目が釘付けになった。頬が熱くなる。
 その日も大層な料理を食べた筈だが、ジョミーは何を食べたか碌に覚えていなかった。