Der Vorleser  7






 次に行った時に料理の本の続きを読んだ。この本は初心者向けではあったが、簡単に作ろうという趣旨ではなく基本を身に付けるスタンスだったので、読んでいるジョミーも興味深く読んでいた。
 ここにある本にしては例外的に、ブルーが未読の本だったようだ。一切料理をした事がないらしいブルーには発見が多かったようで、読み終わると思慮深げに顎に指を宛てた。
「食に対しての理解が深まった気がするよ」
「うん。面白かった」
「きみにも面白かったのか?」
「本格料理ってこうなんだ、って。こんなに手間が掛かるものだったんですねー」
「そうだねえ。物によっては何日も掛かって支度をしていたんだな」
 ブルーが食べる物はそうだろうな、とジョミーは苦笑した。先日ご馳走になった夕食も、その前に夕食を相伴したレストランにも劣らないフルコースがごく普通に並べられ、内心驚きっぱなしだった。部屋自体もジョミーの常識ではあり得ないほど広くて立派で、夕飯をご馳走になっていると言うよりこれまた一流レストランに呼ばれたかのようだった。
 そういう環境に対して、まだまだリオのような境地には至れない。しかし、ブルーは気さくで話しやすい。価値観や育った環境の違いにはかなりギャップがあるけれど、それも面白い。
 ジョミーの祖父は身の回りは簡素にしておくのが常で、自然を身体一つで進んでゆくのが好きな人だった。けれど立場的にはそうも行かない部分もあったようだ。来賓用に、やたら凝った造りの屋敷を持っていた。ここ程ではないが、洗練された調度が沢山揃っていて、あれこれ触りまくったことを覚えている。
(…って、よく物壊してたような…)
 そういう屋敷で悪戯盛りの孫を好き放題に遊ばせるのだから、大した心臓だったんだなとジョミーは今更ながらに背筋が寒くなった。
 ブルーと話していると、祖父のことをよく思い出す。似た環境に身を置いているひとだからだろうか。
「次は何を読みましょうか」
「そうだなあ」
 ブルーは視線を巡らせると、本棚の森に入っていく。ジョミーはソファに腰掛けたままで頬杖をついた。何を持ってくるのかまるで見当がつかない。楽しみだった。
 白い姿がちらちらと見え隠れし、時々、絨毯の上のささやかな足音が立ち止まる。
 紅茶の湯気は既に消えていた。お茶受けにと出されたクッキーを食べる。甘みは抑え目で、さくりと割れる感触が軽い。思わず、もう一枚と手を伸ばしていた。先日のお茶受けも甘さは控えめだった。ブルーの味の好みなのかもしれない。
 ブルーは本を一冊手に取り、じっくりと眺めている。少し俯いているせいで、襟足から項が覗いていた。白いシャツよりも、ずっと白く見えた。伏せ目がちの紅い瞳に、銀色の睫がけぶる。ゆっくり瞬きをしながら文字を追う目が、その集中の度合いを表している。呼吸の度に、薄い唇が微かに動く。
 美しい立ち姿がそこに留まっているのは、映画のワンシーンのように見える。
 不意に、細い手に支えられていた本がぱたりと閉じた。ブルーは顔を上げる。ずっとブルーを見ていたジョミーと視線が合って、繊細な美貌がにこりと笑った。
「次はこれを。いいかな」
 立ち上がって受け取り、タイトルを浚う。
「ジュリアス・シーザー。シェイクスピアですね」
「うん。台詞だけ読んでくれればいい。長いから、何回かに分けて」
 登場人物の一覧を見た。メインの登場人物に端役、結構な人数だ。
 面白い、と思った。
「一度、目を通したいんだけど、いいですか」
 内容とキャラクターを把握したい。台詞だけなら尚更、演じ分けが必要になる。学校でいくつかシェイクスピアを演ったことはあるが、これは未読だ。
 ブルーは頷いた。
「なら、持って帰るといい」
「有り難う。それじゃ、お借りします」
「その代わり」
 ブルーは悪戯っぽく微笑んで、指を一本立てた。
「敬語、禁止」
「え、でも」
 ブルーは年上で、その上大変世話を掛けた相手だ。
「駄目かな?」
 眉尻を下げて訊き返すブルーが、少ししょんぼりしているように見える。名前で呼んでほしいと言われた時の事を思い出す。ジョミーは慌てて首を横にふるふると振った。
「駄目じゃないです。…駄目じゃない、よ」
 言い直すと、ブルーは嬉しそうに笑った。子どものように素直な笑顔に、鼓動が早くなる。窓の外を見ると、陽が少し傾いている。辞するのには適当な時間だ。
「…っと、じゃあこれは次に読むことにして、取り敢えず今日は」
 帰りますと言いかけた先で、ブルーはにっこりと頷いた。
「夕食の支度をさせてある。すまないが、少し待っていてくれるかい?」
「え。でもそんな訳には」
 今度こそと断った。が、結局また、押し切られた。