Der Vorleser  6






 階段を下りたジョミーは口をぱっかりと開ける。
「うわー…」
 天井の高い部屋には上の階と同じように陽が燦々と差し込んでおり、ゆったり座れるソファと、脚がくるりと巻いたテーブルがある。その上にティーセットが置いてあった。そしてここにも、ぎっしり中身の詰まった本棚が並んでいる。
「とにかく座るといい」
 ソファを示されたが、接待を受ける立場ではない。だが上手く言い返せずに、いいからと言うブルーに押し切られた形で腰掛ける。
(このひと、ぼくを買ったってこと、覚えてるのかなあ…)
 ジョミーは内心、溜息をつく。
 そもそも、買ったつもりもないとでも言いそうだ。大金をぽんと出しておきながら全く気に掛ける様子のないひとは、湯の入ったポットを手に訊ねてくる。
「ぼくが淹れたお茶でいいかな? 何なら、名人を呼ぶけど」
「名人?」
「リオの紅茶は絶品なんだよ。きみの好みも訊いておこうか。次には用意させる」
「えっと…好き嫌いは、ほとんどありませんから」
 ブルーは眼を丸くした。
「食べれない物がないのかい?」
「生で食べちゃいけない物が生だとか、そういうのじゃなければ」
「凄いな」
 本気でそう言っているのが表情で分かり、ジョミーはくすりと笑った。
「あなたは、好き嫌い多いんですね?」
「うん、どうもそうらしい。リオやハーレイがいつも怒るんだ。ところで先日から気になっていたんだが」
 ティーポットに湯を落としながら、紅い瞳がちらりとジョミーを見た。
「はい?」
「ぼくのことはブルーでいいよ。きちんと名乗っただろう?」
 ブルーはティーポットの蓋を閉めると、砂時計をひっくり返した。
「ぼく、あなたを何て呼んでました?」
「それだよ。『あなた』としか呼ばれてないな」
 特に意識してそうしたのではなかったので、ジョミーは思い返しながら首を傾げる。
「そうでしたっけ」
「そうだったよ」
 ブルーは砂時計の砂が落ちるのを見ながら言った。
「きみは、ぼくの血縁ではないし、仕事上での付き合いでもない。なのに隔意があるように話すのは…あまり、好きじゃないんだ」
 ジョミーは軽く目を瞠った。仕事に関わる人間、という所は分からないでもない。けれど、肉親や親戚なら隔たりがあるのは当たり前のように言うブルーに少し驚いた。
 これだけ大きな名家だと、色々あるのだろう。
 細い手が、静かに紅茶を注いでいる。紅茶の香りが漂ってきた。砂時計は膨れたガラスの上を空にして、机の隅にぽつんと置かれていた。
「きみの口に合うかな」
「合いますよ」
 苦笑して差し出された紅茶を受け取り、口を付ける。豊かな香りが肺に染みた。
「美味しいです」
「良かった」
 ブルーは微笑んだ。さながら、花の咲くように。
「…ジョミー? ぼくの顔に何か付いてるかい?」
 声を掛けられて我に返った。慌てて首をぶるぶると振る。
「いえ! なんでもないです!」
 強いて言うなら、透き通るような綺麗な瞳とすっと通った鼻と薄く形の良い唇が、ほっそりとした輪郭の中に付いていた。思いっきり、見蕩れていた。
「それで、その…今日読む本は」
「そうだったね。さて、どうしようかな」
 ブルーは考え込んだ。目線が中空に浮く。
「あまり長くない物の方がいいね。切りが悪いと先が気になって困るから」
 ジョミーは首を傾げた。
「でも、ここにある物は全部読んでるんですよね?」
「うん。でも、きみの朗読で聴くのは初めてだからね」
「それは…そうですけど」
 ブルーの言っていることが良く分からず、ジョミーは曖昧に頷いた。
 取り敢えずは自分のやることに集中しようと思い、ブルーの答えを待つ。
(長くないもの…短編小説か、詩か、短い戯曲辺りかな?)
 すぐにブルーは膝を打ち、一冊の本を持ってきてジョミーに差し出した。布張りの装丁で、ページには厚みのある紙が使われており、表紙にタイトルはない。なかなか分厚い本である。
「一つに付き二ページか四ページくらいだから、これにしよう。前文や目次は飛ばしてくれ」
「分かりました」
 受け取って本を開き、ジョミーの目が点になった。
「…本当にこれでいいんですか!?」
「うん。用意が出来たら言ってくれ」
 にっこり笑うと、ブルーはジョミーの隣に座り、紅茶を飲んだ。
 途方に暮れて、ジョミーは開いたページを見詰めた。カラフルな写真がふんだんに使われていて、言葉も難しくなく、端的な表現はむしろ読みやすいだろう。
(…いや、何か試されてるのかも知れないし!)
 無理矢理気合いを振り起こすと、ジョミーは深呼吸を一つした。
「それじゃ、始めます」
「うん」
 集中集中、と口の中で呟いてから、意を決して読み始めた。
「たらことバターのスパゲティー。材料二人分、スパゲティー二〇〇グラム、たらこ…」
 ブルーが選んだのは、初心者用の料理の本だった。
 からかわれているのかとも思ったが、ブルーは真剣な顔で聴き入っている。どう読めば伝わるかを考えながら読む。写真が豊富な本だけに、見れば分かる所は簡単な説明で終わっている。写真や図に添えられている短い文章をどこに差し挟むか、文章の区切りをどこに置けば聞きやすいかを考える。抑揚や速度に変化を付け、聞き飽きないように気を配る。ブルーの表情を見ながら、どう聞こえているかを推測しながら続ける。段々楽しくなってきた。
 パスタの章を終え、揚げ物の章に突入する。
「海老は背わたを取り、片栗粉を付けて水洗いします」
「ジョミー。途中で済まないが、背わたとは何だろう。少し調べてもいいかな」
「背わたって、アレです、えっと…」
 母の店やサムの店の手伝いもよくするので、背わたのこと自体は分かるが、それを説明するのはなかなか難しい。
「海老の殻を取って、背中の辺りにあるんですけど」
「うん」
「黒い筋があって、爪楊枝とかそういうので引っ掛けて抜くんです」
 紅い瞳が不思議そうに瞬く。
「海老料理は好きだが、見たことがない」
 ジョミーは笑いを堪える。先程はブルーが紅茶を淹れてくれたが、おそらく台所に立ったことはないだろう。
「下拵えの段階で取らなくちゃ駄目なんです。苦いし、じゃりってしてるので」
 ブルーは頷いた。
「そうなのか」
 スープの章の辺りで、文字が見えにくくなった。気が付くとすっかり日が暮れている。
 ジョミーは暗い誌面から顔を上げた。
「すみません、灯りは」
「ああ、もう暗いね。ジョミー、時間はまだいいのかな」
「はい。今日は一日空けてきたから」
「ご自宅で母上が待っているとか?」
「いえ、ないです。今は一人暮らしだし」
 ジョミーは両親のことを考えてくすりと笑った。
「今は二人で旅行に行ってます。父さんなんか、一年の四分の一は旅行に行ってますよ。国内でも国外でも」
「そんなに? 古本屋とは大変な仕事なのだね」
 ブルーは感心したように言ったが、ジョミーは笑って首を振る。
「違うんです。昔から、旅行が好きなんですよ」
「仕事でもないのにそんなに店を空けても大丈夫なのかい?」
「ま、仕入れもしてますからね。前からそういう人でしたけど、ここ最近は拍車が掛かってます。じいちゃんが航空会社や鉄道会社の株を、置き土産だって父に遺したんです。必要最小限で、会社数だけやたらとある」
「うん?」
「株主優待券と配当金で旅に出てるんです。古本屋のネットワークでめぼしい出品があれば買えるけど、やっぱり現物を見るに越したことはないそうです。掘り出し物もかなりあるんだって」
 お陰で店の品物は充実しているらしく、かなりの確率で店が閉まっていてもめげずに足を運ぶ好事家が多くなったそうだ。
「趣味と実益を兼ねている訳か」
「そうです」
「なるほど。話を戻すけど、きみはこの後予定も約束もない、ということだね?」
「ええ、特には」
 ブルーは頷いて立ち上がると、電話の受話器を上げた。
 後で訊いたところ、家があまりにも広い為、用がある時は内線で使用人を呼ぶそうだ。人によっては呼び出し用のPHSを持って仕事をしているという。
 ブルーは夕食のメニューについて注文を付け、客人が一人いると伝えた。電話を置いてからジョミーを振り返る。
「夕食を食べていくといい。支度にはもう少し時間が掛かるから、もう少し続きを読んで貰えるかな」
 どうもそういう気が全くしないが、これでも自分に対しての対価を労働で支払うという理由で来ている。その上ご馳走にはなれないと必死で断ったが、ブルーはジョミーの言い分を全て聞いてからにっこり微笑んだ。
「いいから。食べて行きなさい」
「………はい」
 何故か、逆らえなかった。