Der Vorleser 5
ジョミーは見上げた。ぽっかりと空が青い。門を見上げたつもりだが、天辺までを視界に入れようとすると空を見上げるのと同じになってしまう。
勿論大きいのは門だけではない。
門の向こうには整えられた庭園、噴水、巨大な花壇がある。その奥に、窓がいくつあるのか数え切れない建物。尖塔が一つあり、屋敷と言うより最早城か宮殿かといった所だ。にもかかわらず、ミニチュアのような大きさに見える。
「うわー…遠そうだなあ」
乾いた笑いが漏れる。門の前に人は居ない。そして一人で開けられるような門にも見えない。インターホンがあったが、自分の事を何と説明すればいいのか分からない。考えた挙げ句、携帯電話を取り出す。
「ジョミー・マーキス・シンです。今、門の前なんですけど」
昨日連絡した時と同じように、電話口にはリオが出た。
『お待ちしておりました。今、そちらに参ります』
「あ、はい」
程なく、オープンカートに乗ったリオがやってきた。門の中で何かを操作すると、門がゆっくりと開いた。
「映画のセットみたいだなあ」
思わず呟く。
「こんにちは、ジョミー。ようこそいらっしゃいました」
「お邪魔します。もしかしなくても、それに乗って移動ですか」
「歩けない距離ではないのですが、二十分はかかるかと」
「広すぎて不便のような」
リオは苦笑して頷いた。
「ぼくもそう思いますが…警備の都合もありまして。間近が人家だと制約も大きいそうです」
「はあ…」
ここに来るまでの交通の便は、正直言って悪い。立地としては街からそう遠くもないのに、公共機関の類は一切通っていない。但し道路は広く、しっかり整備されている。大きな車で来るのが前提になっているということだろう。
ちなみにジョミーは一番近い駅からバスに、そこから更にタクシーに乗って、その先は車が入れないと言われ、仕方なく歩いてきた。前日、リオに車を出すと言われたのに断ったのをつくづく後悔した。
リオの話によると、周辺の道路は私道であるという。この辺りの土地もブルーの持ち物だと聞かされて、ぐったりとシートに沈み込んだ。
「来るだけで一仕事だ」
「次からは当方の車をお申し付け下さいね」
「…そうさせていただきます」
辺りを見回した。森林公園なみの広々とした緑。
「こんな土地、個人で持ってる人が本当にいるんですね…」
「こちらで仕事をしていて、つくづく思い知りました。どんな非常識も時間が経てば慣れます」
実感のこもった言葉に、ジョミーは一拍措いて笑い出した。
インパクトのある外観を、内装も裏切らなかった。何十人と入ってもゆとりがありそうなエントランスホール。床には凝ったデザインのタイルが敷き詰めてあり、天上を見上げれば大きなシャンデリア。見事な模様が織り込まれた絨毯の敷かれた、正面の大きな階段を登る。ふと足元を見ると、階段は白い大理石で出来ている。手すりは木製で優雅な曲線を多用したデザイン。磨き込まれた感触が手に馴染む。
回廊の先に立つリオに声を掛ける。
「これ、本当に慣れるんですか?」
諦観とも達観ともつかない笑みを、リオは浮かべた。
「ええ。暫くしたら、ここはこういうものだと思えるようになりますよ」
そう言うと、最奥のドアで立ち止まる。
「こちらです。ごゆっくりどうぞ」
「有り難う。でも、遊びに来たつもりじゃないんですけど…」
「そう肩肘張らずに。我が主人は、変わった所もございますがおおらかな方ですから」
確かに、彼は変わっている。ジョミーはちらりと笑って頷いた。リオも微笑み、一礼して一歩下がる。
「では、私はここで失礼します」
「はい。有り難うございました」
部屋に入ると、灼けた埃のような匂いがして、中の空気はひんやりとしていた。床は寄せ木張りで、凝った意匠のデザインが広い部屋一面に広がっている。正面には南に向かった大きな窓が幾つかあり、その向こうはバルコニーらしい。
窓が南向きなのに、部屋の温度が少し低い。ジョミーの実家程も床面積があるその広い部屋は、沢山の書棚で埋め尽くされていた。枠や、棚のない下部にはレリーフが施してある、本格的で重厚な書棚が並んでいる。どの書棚にもぎっしりと本が詰まっていた。棚に光は殆ど遮られ、入り口までは差し込んでこない。ただ、人が二人程通れる広さに真っ直ぐぽっかりと通路分のスペースが空いている。その向こうに窓が見えるという訳だ。ジョミーは学校の図書館のようだと思った。そして、埃の灼けたような匂いは、父の店や部屋でも嗅いだことがある。本の匂いだ。
「本が沢山あるのなんて、見慣れてると思ってたけどなあ」
父の書斎はこの部屋の半分もなかったが、本棚は当然のように本で溢れており、入りきらない本が床にはみ出しているような雑多な印象の部屋だ。店は流石に床にまで本が侵蝕してはいないが、本棚の間隔はとても狭い。人がすれ違うのも難しいくらいだ。それに比べると適度なゆとりがあり、整えられて品のいい印象の部屋だった。
窓のすぐ傍には大きな机があった。レトロなデザインの読書灯があり、何冊か本が積んである。大きな一人掛けの椅子が置いてあるが、屋敷の主の姿はない。
「誰かいませんか?」
部屋全体に聞こえるように何度か呼び掛けたが、返事はない。少し迷ったが、奥まで行ってみる。窓際で振り返ると、本棚の背にはやはりレリーフがあった。女神の図案で、端から何かの物語を辿っているらしい。
「誰か――って」
呼び掛けながら辺りを見回して、ジョミーは驚いた。部屋の中に下りの階段がある。更に奥には上りの階段もある。
「…これ、部屋…?」
乾いた笑いを漏らし、ジョミーは天井を仰いだ。その天井を彩るのは月や星などを描いたモザイクで、木片を使って落ち着いた色を基調にしたデザインは、静かな空間に良く馴染んでいた。所々に螺鈿細工の部分があり、僅かな光にもきらりと控えめに輝いている。そして、天空の下には神話と来ている。広さも相まって、壮大な光景だ。
「慣れるって言うか、驚き疲れた」
一人ごちて机に軽く寄りかかり、ジョミーは小さく溜息をついた。
と、上に向かう階段から足音が降りてきた。
隙なくスーツを着こなしていた先日とは違い、今日のブルーはラフにシャツをひっかけている。逢った時よりずっと華奢に見えた。その体がぐっと伸びをして、眠そうな目がふらりとさまよい、ジョミーを見た。紅い瞳が丸くなる。
「ジョミー! もう来ていたのか。済まない、待たせたね」
ブルーは早足に階段を下りると、もう一度ジョミーに詫びた。
「いえ。ついさっき来たばかりで、そんなに待ってないです。…凄い本ですね」
改めて周りを見回す。ブルーは苦笑した。
「必要なものや欲しい本を片っ端から集めていたら、いつの間にかこんなになってしまってね。ここだけで納まり切らなくなって、敷地内に書庫を造らせた。何年かは大丈夫だと思うよ」
「全部読んでるんですか?」
「ああ。読むために手元に置くのだからね。家人の為の本もあるから、ここにあるもの全てではないが」
「凄いなあ」
さらりと返った答えに感心してから、ジョミーはブルーに向き直った。
「で、何を読みましょうか」
「そうだなあ、取り敢えずお茶でも」
「え」
「下に支度をさせてある。おいで、ジョミー」
にこりと笑ってブルーはくるりと踵を返し、すたすたと階段を降りてゆく。ジョミーは呆気にとられたが、肩を軽く竦めて小さく笑うとブルーの後を追った。
どこまでもマイペースなひとらしい。
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