目隠しの国


これはもしかして体の良いイジメではないのだろうか?

着慣れないものを無理矢理着せられ、屈辱極まりない姿で碁を打たされながら塔矢
は何度もそう思った。


(大体、なんでぼくがこんなことを)

最低最悪な気分。
打つたびに石に引っかけてしまいそうになる袖を舌打ちして押さえながら、塔矢は一
刻も早く家に帰りたいと、密かにため息をついた。




「じゃあ、明後日の日曜日、山田と熊谷と…他一年は、全員城東に行くように」

ある日、いつものように部活が終わった後、部長の岸本が一年生にだけ残るように
言った。
何かと思えばその週末にある姉妹校の創立祭のことで、一年生は全員手伝いに行
かなければならないのだと言う。


「やることは客相手の指導碁だ。それに終わった後の片づけも少しはあるかもしれ
ない」


けれどそれほど大変な仕事ではないと、居並ぶ一年の顔を見渡しながら岸本は言
った。
海王と姉妹校になるという私立城東中学の創立祭に、毎年何人か手伝いに行くこ
とは入部した時に聞いていた。それが一年生の仕事になるということも聞いて知っ
ていたので皆文句を言うこともなく、ただ黙って頷いた。


「塔矢も…いいな?」

一人だけ別に言われた塔矢は、眉を動かすこともなく「はい」と言った。

退部を条件に出場した三将戦も終わり、近く部を辞めることを正式に岸本に話し
てあったのだ。けれど、どうやらいる間は部員としての勤めを果たせということら
しい。
わざわざそんなふうに念を押されなくても、塔矢もこんなことで波風を立てる気は無
かった。


「じゃあ皆、よろしく頼む。おれも後で様子を見に行くから」

そう言った時に何故かめったに笑わない岸本が、口元に笑みを浮かべたので、塔
矢は少しだけそれが引っかかった。




当日、すっきりと晴れ渡った空の下、塔矢は指定された時間に他の一年生と共に城
東学園に向かった。囲碁部の部室と言われた教室に行くと、そこには既に満面笑顔
で城東中囲碁部の面々が待ち受けていた。


「おはよう! 朝早くからご苦労様です」

部長だという三年生に手を差し出され、なんとなく全員が握手をする。

「あれ、キミ、塔矢アキラくんだね。そうか、まさかキミがこんなものに来てくれるとは
思わなかったなあ」


「ぼくも一年生ですから」

こんなものという響きが気になりながらも塔矢が言うのに、「いや、でも律儀だよね」と
更にわからないことを部長は言った。


「じゃあ、早速準備してもらおうかな」

そう言って連れていかれたのは校舎の端にある更衣室だった。なぜ更衣室などに用が
あるのだろうと思いつつ中に入った途端、塔矢も他の一年も全員が後ずさった。なぜな
らそこにはたくさんの女子部員がいたからだ。


「いらっしゃい♪」

にこやかに微笑む彼女たちは、塔矢たちを値踏みするように足先から頭のてっぺんま
でじろじろと見ると、いきなりひそひそ声で話し始めた。


「右端の子はカトリーヌで」
「2番目の子は、葵でいいでしょう」


わけがわからない会話に皆が不審そうに顔を見合わせている中、その視線はやがて塔
矢の所でも止まった。


「この子は…」

ぼそぼそと長い話し合いがもたれた後で決着がついたらしい、「じゃあ、ビクトリアで」と誰
かが言って皆頷きあった。


「さあ、それじゃあそれぞれ分担に別れて作業を行ってください」

その言葉に女子部員たちは、ぱっと二、三人のグループに別れた。そして海王の一年生
たちをカーテンで細かく区切って作ったスペースへと引っ張って行った。


「それでは今日一日、よろしくお願いいたします」

呆気にとられた塔矢の所に来たのは、三年生だという二人の女子部員だった。

「こちらこそよろしくお願いいたします」

まだ準備というものがなんなのかわからなくて、それでも不穏な空気を感じて、ためらいが
ちに挨拶を返す塔矢をスペースに連れて行くと、彼女たちはにこやかに着替えだと言っ
てスゴイ代物を見せた。


「塔矢くんは満場一致で『ビクトリア』に決定しました。ご了承の上、着替えとメイクをお願い
いたします」


「―――――えっ」と、思わず絶句する。

突き出されたそれは、生まれてから一度も見たことが無いようなもの。幾重にもレースが
重なり合いリボンで飾られている、ビスクドールが着るような豪奢な『ドレス』だったのだ。




なぜあの時に岸本が笑みを浮かべたのかやっとわかった。一年生が手伝うという指導碁
は、女装してやる女装碁だったのだ。
城東学園の囲碁部の出し物は毎年それに決まっているらしく、それに姉妹校の海王が一
年生を差し出すのも伝統になっていることらしい。


ただ、塔矢を始め一年生はそれを知らされていなくて、当然更衣室の中は悲鳴と、とまど
ったような声であふれた。


「ちゃんと部長さんには説明してあります。それが出来ないという方はご退場下さってもか
まいませんが、名前を控えるようにと言われておりますので」


なんでこんなことをとくってかかった一人に、城東中の副部長だという三年生が言った。

「今後の活動にも影響が出てくるかもしれませんよ」と、やんわり脅しをかけられて、他に
文句を言っていた者たちも黙る。
塔矢はというと、あまりに自分の常識を越える事態に、思考がストップしてしまっていた。
女装碁などというものは見たことも聞いたことがないし、それを自分がやらなければならな
いということは想像力を超えていたからだ。


それでも「はい」とドレスを渡され、カーテンを閉められた時には、はっとした。

「あの…どうしてもこれに着替えなければならないでしょうか?」

おずおずと尋ねると、即答で「ええ」と返事が返った。

「他の衣装がいいようでしたら変更もできますけど、それが一番似合っていると思います
よ」


逃げ出すにも、まわりは女子部員で固められてしまっている。塔矢は手に持ってドレスを
嫌そうにしげしげと見つめると仕方なく着替えを始めたのだった。


「…着替えました」

着慣れないものに手間どいながらも、なんとか着終わってカーテンを引くと、きゃあと歓声
があがった。


「やっぱりビクトリアで良かったですよ、先輩!」
「そうね、今年は海王さんも随分サービスがいいわ」


鏡が無いので自分の姿は見えなかったけれど、さぞや滑稽なことになっているだろうと塔
矢は思った。


「じゃ、次はメイク、メイク」

はしゃいでいる彼女たちとは裏腹にどんどん落ち込んだ気分になりながら、塔矢は早くこ
の辛い勤めが終わることを祈った。




小一時間ほどが過ぎ『準備』が終わると、塔矢たちは最初に行った囲碁部の部室へもど
された。
すっかり小ぎれいに飾られた部室の入り口には、さっきまでは無かった看板が立ってい
て、それを見た途端に塔矢は脱力してしまった。


『仮装囲碁マスカレード』

看板にはそう書かれていたのだ。

『お好きなオンナノコを指名できます』と言ってずらりと張り出された名前に、さっきのわけ
のわからない会話がわかる。どうや服に合わせて源氏名のようなものがあるらしいのだ。
それで塔矢は『ビクトリア』になったらしい。


(信じられない)

こんな格好を父親が見たらどう思うだろうか? 緒方や芦原がもしこれを見たらと考えると
ぞっとした。
呆れ、軽蔑されるかもしれない。そう思うと今すぐにでも脱ぎ捨ててしまいたくなったけれど、
メイク終了間際に言われたことが釘のように刺さっていて出来なかった。


副部長だという三年生は、にっこりと笑うと塔矢に言ったのだ。

「ちょっと窮屈かもしれないけど、こんなことでもずっと培われてきた伝統だから我慢してね。
あの岸本さんだって一年の時はやったのよ」


そう言われて嫌だからと投げ出して帰ることは出来なくなった。
他のだれに何と言われても気にはならなかったが、あの人にだけは見下されたくないと半
ば意地のように思う気持ちがあったからだ。


「さ、それじゃ指導碁をお願いします」

そう言われて、塔矢たちは机を数個ずつ並べて作った対局場に座らされた。碁盤と碁笥が
置いてある所は普通の指導碁と変わらないが、その横に大きく『ビクトリア』と名札が置いて
ある所が普通とは違っていた。そして動くたびにさらさらと鳴る袖口のレースも、これが普通
では無いと塔矢に伝えている。


(暑いのに足もとは寒い)

ごちゃごちゃとしたレースと、頭にはロングのウィッグまでかぶせられたために腰から上は汗
ばむほどに暑いのだが、下は風が通って寒くて仕方なかった。


(女子はいつもこんなものを着ているんだ)

大変だなあと変な所で関心しつつ、早く脱いで帰りたいと思った。

あちこちに散っている海王の一年生たちは、皆金髪のウィッグをかぶせられたり、着物を着
せられたりすごいことになっていて、じゃあ自分もあんなお化けのようになっているのだと、
塔矢はしみじみ悲しい気分になった。


「早く帰りたい」

ぽつりと聞こえないほど小さい声でつぶやいた時だった、放送が流れ、創立祭が始まったこ
とを告げた。




「そこは、はさむよりもツイだ方がいいですよ」

袖口のレースを気にしながら、塔矢は盤面に指を指した。

「ここに置きたくなるのはわかりますが、これでは黒は連絡を切られて右辺を白に明け渡すこ
とになってしまう」


相手は物理の教師だという年配の男で、趣味で碁をやっているのだという。

「じゃあ、ここでこう置いた方が」
「そうですね。強気で攻めてもいいかと思いますが、この時点では守った方がいいと思います」


ぱちりぱちりと石を置く、それはごく普通の光景なのに、嫌でも見えるレースが自分が女装して
いるのだということを思い出させる。


「いやあ、毎年この囲碁部の催しは楽しみにしているんだけどね、こんな美人にお相手してもら
えるとは思わなかったから得をした気分だよ」


しかも強いしと言われて、塔矢は喜んでいいのか悲しんでいいのかわからなかった。

「ありがとうございました」

終わった時には正直ほっとし、けれどすぐに次の相手が連れて来られた。



フザけた格好のままで、一体どれだけの相手と指導碁を打っただろうか、さすがに塔矢も疲
れてきた。休憩はまだだろうかと思った時だった。唐突にその声は聞こえた。


「えー? なに? 女装碁?」

廊下で聞こえた素っ頓狂なその声に、塔矢は思わず碁笥の蓋を落としてしまいそうになった。
今、聞こえた声は塔矢の知っている「誰か」にものすごくよく似ていたからだ。


(まさか…ね。こんな所に来ているはずが)

けれど続けて聞こえた声に、今度こそ本当に蓋を落とした。

「へー、おもしろそう。やって行こうぜ、三谷」
「じょうだんじゃねぇ、やってられっか」
「えー? おれは一人でもやっていくぜ」


そう言って中に入ってきたのは、紛れもない進藤ヒカルだった。
からーんと音をたてて落ちた蓋を慌てて拾いあげながら、塔矢はちらりと入り口を見た。


(間違いない、本当に進藤だ)

名簿に名前を書いている横顔を見た途端、忘れようとしていた怒りがこみ上げてきた。
自分を期待させて、そして裏切った。最低最悪の相手。
あの三将戦で失望して、二度と顔を見たくも無いと思っていた進藤がこんな所にふらりと
現れるとは思いもしなかった。


(気が付くだろうか?)

額に汗が浮いた。

(進藤はぼくに気が付くだろうか)

そう思いかけて、まさかと思う。海王の生徒が手伝いに来ていることは部員しか知らない
ことだ。しかも女装しているのだしと思いかけて、塔矢は更に悪いと思った。


こんな、こんな格好で顔を合わせることだけは避けたいと思った。自分のプライドにかけ
て、こんな格好で進藤に会うことだけは―と。


何人も部員はいるから自分に当たることは無いかもしれないが、それでも逃げようかと
塔矢が思った時だった、「じゃあ『ビクトリア』でいいですね。それでは指導碁と対局どちら
がいいですか?」と声が聞こえた。


どういう運命のいたずらか進藤は自分を指名してしまったようなのだ。

示されてこちらに歩いて来る姿を見た時に、塔矢は耐えきれず立ち上がった。

「あのぉ、こんにちは」

そう声をかけられて、思わず顔を背ける。と、塔矢は窓ガラスに自分の姿が映っていること
に気が付いた。
一瞬、だれかと思ったその顔は、驚いたことにまるで自分のそれでは無くなっていた。
造作を生かしてメイクされているのだが、キツさが和らげられていて、本当に女の子のよう
に見えたのだ。


(気持ちが悪い)

けれどこれなら進藤にはわからないかもしれないと塔矢は思った。

「あのー、おれ、ビクトリアって言われて来たんだけどここでいいんだよね」

再度聞かれて、塔矢は心を決めた。くるりと向き合った瞬間、進藤は驚いた顔をして、それ
からにこっと人懐こい笑顔になった。


「なんだ、オトコばっかって言うからどんなスゴイのかと思ったけど、ちゃんと女の子もまざ
ってんじゃん」


よかったよかったと言って、勧められてもいないのに椅子に座る。

「おれ、碁は打ちたいけど、気色悪いもん見たくなかったからさぁ」

そして機嫌良く碁笥の蓋を取る。

「どうする? おれが握る?」

緊張のあまり呆然としていた塔矢は、進藤が互い戦のつもりでいるのに気が付いてはっと
正気にもどった。


(冗談じゃない)

知らないとは言え、進藤が自分と対等だと思っているなどとは許せなかった。
塔矢は乱暴に椅子を引くと、どかっと座り、それから有無を言わさず黒石の入った碁笥を
進藤の目の前に置いた。


「え? ああ、そっか。おまえ強いんだ」

驚いたような顔をしたけれど、進藤は別に怒ったふうも無く塔矢を見る。

「どうしよう、じゃあ石、置かせてもらった方がいい?」

答えようとして、塔矢は言葉を飲み込んだ。喋ればいくらなんでも声で進藤にわかってしま
うと思ったからだ。
黙ったまま、こくりとうなずくと、進藤は不思議そうに言った。


「ねぇ、なんでしゃべんないの?」

鈍いくせにこういう時だけ突っこんでくるなと思いながら、塔矢は喉を指さし、それから咳を
するまねをした。


「そっか、風邪ひいたんだ」

それで納得したようだった。

(進藤が単純で良かった)

「じゃあ、三子置きくらいでいいかな」

進藤が言って置くのに塔矢は更に石を足して九子置きにした。
さすがにこれには進藤もむっとしたようで、「そんなに弱くない」と口をとがらせた。


(よくそんなことが言える)

キミの実力はもうわかっているのだと言ってやりたくなった。
自分をあれほど失望させたひどい碁を打っておいて、よくもそんなことが言えるものだと。


(九子置いたって、キミなんかぼくの相手にはならない)

「おねがいします」

ぺこりと頭を下げる進藤に、塔矢は思い知らせてやると思った。
そして――。




結果は思った通り、進藤の惨敗でザマミロと塔矢は思った。
この間より少しはマシな打ち筋だったけれど、こんな弱くては海王の囲碁部に一週間
もいられはしないだろう。


(所詮、進藤はこの程度なんだ)

勝ち誇ったように思い、けれど塔矢は同時に自分が、がっかりしていることにも気が
付いた。


(まさか、まだぼくは進藤に期待しているのだろうか)

初めて打った時の、あの奇跡のような一手をまだ心のどこかで期待してしまうのかと。

(―こんな、こんな情けない奴に)

女に負けたとさぞ悔しがっているだろうと、塔矢は顔を上げて少し驚いた。進藤は盤面
を見ながらなぜか嬉しそうだったのだ。


「はー、マジでおまえ強いんだなぁ」

しばらくたって言ったのは、素直な感嘆の言葉だった。

「最初九子置きって言われた時は腹立ったけど、当たり前だよな。こんな強いんだもん。
おれ打っててすげーおもしろかった」


意外な反応に呆気にとられる。

「ここでさ、おまえが打った時、まさか次にこう生かすつもりだとは思わなくてさ」

ぱちりと石を置いて進藤が言う。

「おれ、こっちに置けば良かったんだよな。でも焦って自爆しちゃって」

ぱちり、ぱちりと。
それを見ていた塔矢は思わず進藤が置いた石を改めて置き直した。そこは自分も一瞬
だけどひやりとした所でもあったからだ。


(でも進藤がこっちに飛んだから、まぐれだったかと思ったんだけど)

「あ、そうか。そっちに持って行けばよかったのか。でもさ」

また進藤が石を置く。
それはいつの間にか検討になってしまっていたのだが、二人ともそれに気が付かない。
どれだけそうしていただろうか、ふと進藤が手を止めた。


「あれ…」と。
「今の…前に…」


はっと塔矢は手を止めた。左隅の攻防、黒と白のせめぎ合いは、以前碁会所で進藤と
打った時と同じパターンになっていたのだ。もちろんあれはもっと高度な戦いであったの
だけれど、似た展開につい同じように打ってしまった。


じっと進藤が自分の顔を見る。

「あのさー…すげー変なこと言うかもだけど」

ドキリと心臓が音をたてる。

「おまえ、男兄弟とかいる? イトコとか親戚に、すげー碁が強いヤツっている?」

動揺を悟られないように、無表情に首を横に振る。

「そ、そうだよな。そんな偶然あるはずないもんな」

けれど、それでもまだ納得出来ないように進藤は自分の顔を見つめるので、塔矢は思わ
ず顔を背けた。


「ごめん、間違ってたら本当にごめんだけど、おまえ…もしかして」

とうやと、進藤の口が動く前に塔矢はがたんと音をたてて立ち上がった。
そして教室中のだれもが呆気にとられている中、急ぎ足で廊下に出た。


(進藤なんかに)

進藤なんかに気づかれたくは無い。
軽蔑し、二度と顔も見たくないと思っている相手にこんな情けない姿を知られることは、
耐えられないことだった。


「待てよ」

黙ったまま、人混みの中を更衣室に向かう、その背中を進藤の声が追い掛けてきた。

「ごめん、おれが変なこと言ったから?」

無視し続けていたのに、人気の無い階段でとうとう追いつかれてしまった。ぎゅっと右手
を掴まれて、仕方なく塔矢は立ち止まる。


「おまえ、おれの知ってるやつにすげー似てたんだ。だから」

そうだよな、こんな所にいるはずないのにと、つぶやくように言うのを聞いたとたん、心
臓がどくんと音をたてた。


「そいつ、すげー碁が強くてさ、おれ、いつか絶対にそいつに追いついてやるって思って
て―いつもいつもそいつのことばっか考えてるから」


だからつい変なことを考えてしまったのだと、進藤は言った。

「ごめん、オンナの子に失礼だよな。オトコと間違えたなんて」

どくん、どくんと心臓が鳴る。何故だろう、進藤が話すことを聞いていたら鼓動が早くなっ
て苦しくなってきてしまった。


「びっくりさせちゃって本当にごめんな」

そう言って、進藤は塔矢の手を引っ張った。

「おれ、もう帰るから、だから教室にもどっても大丈夫だから。えーと…名前なんだった
っけ?」


エリザベスじゃなくて、キャロラインじゃなくて、えーとーと進藤は考え込んでいる。

「ベスじゃなくて、ポチでもタマでもなくて」

いつまでも進藤が手を離してくれないので、塔矢は苛々してつい怒鳴ってしまった。

「ビクトリアだっ!」

その瞬間、塔矢はしまったと思った。

「え? 今の」

本当にぎょっとしたように進藤が言った。

「おまえ、まさか―」

ぐいと驚くほど強く腕が引かれ、塔矢は無理矢理振り向かされてしまった。

「ちゃんと…顔、見せて」

のぞき込もうとする進藤から必死で逃れようとして、けれど廊下の壁に押しつけられて、
とうとう目が合ってしまった。
真正面から見つめられた瞬間、心臓は今までと比べものにならないほど大きく鳴り、塔
矢はかっと顔が赤くなるのを感じた。


「なっ…」

それを見た進藤もみるみる真っ赤になっていく。

足もとから震えるような不思議な感触。今まで味わったことの無い息苦しさに、塔矢は思
わず目を閉じた。
苦しくて、苦しくてどうにかなってしまいそうだったのだ。


と、次の瞬間、唇に温かいものが触れて塔矢は驚いて目を開いた。
すると驚くほど近くに進藤の顔があって…。


キスをされたのだと気がつくのに、しばらくかかった。

唇が離れて、初めてそうだとわかって、塔矢は思い切り進藤を突き飛ばしていた。

ふいうちをくらって尻餅をつく進藤が追い掛けてくるよりも早く廊下を走り、脱兎のごとく
更衣室に駆け込む。


ドアを閉めて鍵をかけると、塔矢は急いでドレスを脱ぎ捨てて、制服に着替えた。
後で岸本になんと言われるかとか、他の一年の部員のこととかはもうどうでもよくなって
いた。


(逃げなくちゃ)

ただひたすら、進藤がいるこの場所から逃げなければいけないとそう思った。
ウィッグも投げ捨てるように外して、でも化粧はどうしたらとれるのかわからないので、
顔を伏せて逃げるように家に帰った。


その間、ずっと心臓は鳴りっぱなしで、あまりの苦しさに死ぬのでは無いかと思った。

(なんで、進藤は)

あんなことをしたんだろうか――?

考えても考えてもわからない。

自分だとわかっていてしたのだろうか? それともわからずに女の子だと思ってした
のだろうか?


そのことも考えると何故か胸を苦しくさせた。

なぜ、なぜ、なぜと結論が出ないまま眠れない日々を過ごす。



いつか自分の全てを縛るとはその時は知る術も無かったけれど。
まだ形にすらならない、それは―恋の予感だった。



※同名のタイトルのコミックスが白泉社から出ていたりしますが、別にそれのパロではありません。というか読んでないので
内容わからないですが。ついでに目隠し碁の話でもありません。そうしたらぴったりだったのかな?なぜこのタイトルになっ
たかというと、なんとなく恋以前という状態が目隠しされた状態と似ているかなと思ったので。触れられてドキドキして相手
が誰かわかるつもりになるんだけど、違うかもしれないって不安になる。そんな話を書きたくて書いて、そうしたら自然にこ
のタイトルになっていました。そうそう、数日前に日記に書いたバカな女名前は、この話のせいなんです。岸本さんは一体
どんな格好をさせられたんだろうかと考えると笑えます。本当はアキラ、三将戦の後結構すぐに部をやめてしまっています
が、その短い間にこういうことがあったと思ってやってください。おまけも読む?