鎮魂花



窓を開けたつもりは無いのに、部屋の中には花の香が漂っていた。

薄く目を開けた進藤は、締め切った窓の向こうから差し込んでくる弱い光に、今は朝なのだろうか
それとも夕方なのだろうかとぼんやりと思った。


風邪を患い、寝込むこと数日。食べも飲みもしないでいたために皮膚は乾ききり、口の中も貼り付
くようだった。


水が飲みたいと思い、でも立ち上がる体力はもう無かった。


今日は一体何日で何曜日だったか。

人との約束があったような気もするけれど、それももはやどうでもいいことのように思える。


一人暮らしは危ないよと、ずっと前大切な人と死に別れた時にそう言われた。

そう言った和谷も、もっと前に連れ合いを無くして一人暮らしをしていたのだけれど。

(和谷と住めば良かったか?)

思わないでも無いけれど、二人で暮らした思い出のあるこの部屋に、他の人間を立ち入らせるこ
とは出来なかったし、またこの部屋を引き払いどこか別の場所に行くということもできなかった。


(だってここにはまだあいつの気配が残っているから)


幽霊とは記憶の残像なのだと、ずっと昔誰かが言った。

その場所、光景、そこにある物。そしている人間の全てが、かつてそこにいた「誰か」を覚えていて
忘れないのだと。


その「誰か」がいなくなった後も無意識にその風景にその「誰か」を当てはめて見てしまう。それが
幽霊なのだとそう聞いた。


その意味ではこの部屋には幽霊がいると言って間違いは無かった。

西側の部屋の窓の前。いつもそこから夕日を見ていた姿や、台所の食器棚の前で皿や茶碗を取
り出している所。


一番強烈なのが玄関で、リアルに映像で見えるほど、ドアの前に立ち、鍵を開ける前にこちらを振
り返る姿が蘇る。


そんな幽霊が出る部屋からどうして離れることが出来るだろうか。

ずっと、ずっと愛している、そんな人の幻が見える所から離れて生きることなど出来るわけも無か
った。



けれど。


それもそろそろ終わりかなと思う。

引退して二十年余り。それでも碁盤と碁石から離れることの無かった人生が今ゆっくりと終わろう
としている。


(不思議と怖くはないもんだな)

つい昨日までは血を吐くのではないかと思うくらい咳が止まらず、体中も痛くてたまらなかったが、
今日は呼吸も元にもどり、痛みも無い。


ただ体が妙に冷えていくような気がするだけだった。

「ああ、そうだ、碁会所に…」

経営する碁会所の、今日は指導に行くのでは無かったか。

自分が行かなければ心配する者が出るだろう。それとも別の約束だったか? どのみち、誰かが
異変に気がついてここに来た時には全てが終わっているはずだった。


(夏じゃなくて良かった)

のんびりとそう思う自分に少しおかしくなる。

もう何も未練は無いのだけれど、やはり真夏で腐りきった体を人に面倒見させるのは心が痛む。

もっとも、腐っていてもいなくても死んだ者の体など、だれも嬉しがって触れたがりはしないだろう
が。


そう思った時、電話が鳴った。

静かな部屋中に響きわたるように呼び出し音が鳴り、はっとする。

もしあれに今出たら助かるかもしれないからだ。

這って行き、受話器をたたき落とすだけでも異変は察知してもらえるだろう。

そう思った時、生きても死んでもどうでもいいと思っていたはずの自分に微かに生への執着があ
ることを知って進藤は苦笑した。


(電話…誰からだろう、和谷か…それとも)


「冴木さんだよ」

ふいに耳元で懐かしい声が響いた。

「キミ、忘れてしまっているみたいだけど、アマ本因坊戦で挨拶をすることになっていたんだよ。進
藤元名人」


自分以外だれもいないはずの部屋。けれどゆっくりと首をめぐらせると、枕元にきっちりと膝を揃
えて座る姿があった。


忘れもしない涼やかな顔がのぞき込むように近づくと、肩で切りそろえた髪がさらりと音をたてた。

遠い昔に見た、でも今でも鮮明に記憶に残っている制服姿で塔矢がそこに座っていた。

一瞬これはいつも見る記憶の残像なのかと思い、けれど語りかける声を聞いて違うと悟った。

「幽霊だよ」

自分で言ったことに失笑するかのように、静かに塔矢は笑っている。

「懐かしいな」

「うん、少し恥ずかしい」

この姿を望んだのは自分なのか、それとも塔矢自身がこの頃の自分に一番愛着を持っているか
らなのか、それはどちらなのかわからなかった。


でも久方ぶりに見る恋人の昔の姿は純粋に進藤に喜びをもたらした。


「待っていればいいのにね、嬉しくて来てしまった」

キミに会いたくて来てしまったと、塔矢ははにかむように言う。すると同時に花の香が強くなり、こ
れはなんだったかなと思った。


「木犀」

心の中を見透かしたように塔矢が言う。

「うん、おまえ好きだったよな」

知らず口調も昔に戻る。

「だからおれ、これだけはちゃんと覚えてんだ」

花なんて桜とひまわりとタンポポしか区別がつかない進藤が、唯一覚えているのは、塔矢がそれ
を好んだからだった。


「今、季節だからね。あちこちで咲いているんだよ」

長いこと鳴り続けていた電話は気がつけばいつの間にかやんでいて、部屋の中は進藤と塔矢の
二人きりになった。


「おれ、おまえが来ると思ってた」

花の香の中、進藤は横を向くと、揃えられた恋人の膝に手を置いた。

「こういう時はきっとお前が来るんだって、来てくれるんだって、ずっと前から思ってたんだ」

その手に自分の手を重ね、塔矢が少しだけ切なそうに眉を寄せる。

「キミはまだ、こちらに必要な存在なのにね」

「そんなの、おれよかおまえの方がそうだった」

渇いていたはずの口の中、すらすらと声が出るのは何故だろうと思う。

「おまえのが、おれなんかよりずっとずっと必要だった」

なのに肺炎なんかで死んじまいやがってバカヤロウと。その時のことを思い出したのか、進藤の
声に苦渋が滲む。


「あん時からずっとずっと、いつまで生きていなくちゃなんねぇのかなって思ってた。おまえがいな
いこの世の中で」


「ごめん…進藤」

本当にごめん。でも迎えに来たのだから許してほしいなと、少しだけ甘えたような声で塔矢が言う

ああ、この声だ、この顔だと進藤は胸元が暖かくなるのを感じた。


ずっとずっと会いたくてたまらなかった、唯一無二の人。

「キミに会いたがっている人がいたよ」

「うん、知ってる」

「その人とぼくは話しをしたよ」

どんな話とは進藤も聞かなかったし、塔矢もまた言わなかった。言わなくてもどちらにもわかるこ
とだったから。


「キミが望むなら、ぼくはこのまま帰るけれど…」

どうする? というように小首を傾げる顔を見て、進藤は微かに笑った。

「一人で帰る気なんか無いくせに」

おれを縛れよ、欲しがれよ。永遠に永遠に誰にも渡さずに自分だけのものにしてしまえよと進藤
は言った。


生きていた時、そうしたようにと。


「まだ生きているうちにちゃんと言っておこうかな」

塔矢の顔を見つめながら進藤がぽつりと言った。

「なに?」

「んー、大したことじゃないんだけど、もう一回お前に会えたら絶対言おうと思っていたから」


愛してると。本当に幸せそうに微笑みながら進藤は言った。
お前が好き。大好きと。



「ぼくもキミが好きだよ、キミだけが好きだった」

返す塔矢もこれ以上無いくらい優しい笑みを浮かべ、そして二人、そっと触れるようにキスをした。

愛してる、大好きと繰り返し、もう一度唇を重ねようとした時に再び電話が鳴り始めた。

「今度は和谷くん」

冴木さんに言われて心配してかけてきたのだと塔矢は言った。じきにここへ来るよと。

どうする? と塔矢が問いかける前に、進藤がぎゅっと塔矢の手を強く握りしめた。

「おまえと打つの…すげぇ久しぶり」

塔矢は一瞬驚いたような顔をして、それからふいに泣きそうな顔をした。

「連れて行くよ」

握っていた手を更に強く握り返し、塔矢が言う。

きっぱりとした物言いは死んでもかわらないものなんだなと変な所で感心して、進藤はゆっくりと立
ち上がった。


「塔矢、大好き、愛してる」

言って塔矢を抱きしめて、塔矢もまたそれを抱き返す。

「ずっと、ずっと永遠に」

おまえが

キミが

好きだよと。


むせるほど強くなった木犀の香りが消えた頃、締め切られた部屋には、主を失った抜け殻が、骸
となって取り残されていた。




※すみません、死ぬ話というのはどちらが死ぬのでも嫌だなあと思っていたのですが、金木犀の香りを毎日嗅いでいたら
こんな話が出てきてしまって。嫌ーな気持ちになったり、気分落ち込まれたりしましたらお許しください。
ところで実は私はヒカルの方が先に死ぬんじゃないかと本当は思っています。あっさりと潔く死んでしまいそうな気がして、
アキラの方が色々と頸木を捨てられずに残ってしまうんじゃないかなって。でもどちらが死んでも必ず先に逝った方が迎えに
来ると思います。単なる願望ではありますが、死んでもずっと二人で碁を打って欲しいなあと思うので。


落ち込みやすい方は読まない方がいいと思います。