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歳三が書き物をしているその後ろで、ぱちりぱちりと音がする。 総司が爪を切っている音であった。 今日はどんよりと曇っていた空が、途中からみぞれ交じりの雨に変わった。 ここしばらくは、よい天気が続いていただけに、生憎の天気に巡察に出る隊士の意気も上がらない有様だった。 ただこんな日には、浪士たちも出歩かないのか、何事もなく巡察の済み帰営することが出来た。 もっとも、隊士の体は濡れそぼり冷え切って、このままでは風邪をひくという有様だったが。 そして本来ならば巡察後は、副長である歳三に報告しに、すぐに行かなければならないのだ。 が、帰ってきた総司は風邪をひいたら堪らぬと、門番の隊士に何事もなかったと、とりあえず先に報告をさせて、冷え切った体を暖めるために風呂に入った。 そういう特権的なことが出来るのも、総司ならではだろう。 そうして一息ついて衣服を改めてから、こざっぱりとした風情で、総司は副長室へ報告に出向いた。 簡単に報告を済ませ、総司は歳三の淹れてくれた茶を啜り、火鉢の前に陣取ってぬくぬくと暖まっていた。 春は間近とはいえ、京の町は冷える。 ほとんど出歩かず、部屋で過ごす歳三には、火鉢は必需品だ。 さて、出て行く素振りも見せない総司に歳三も心得たもので、特に気にする素振りも見せず、報告を聞くために途中で放っておいた書類に再び向き直った。 茶を飲み菓子を食べ終え、立ち上がった総司が出て行くのかと思ったら、違い棚に近づきそこに置かれている小箱からなにやら取り出すのを、気配で察した歳三は思わず頬を緩めた。 小箱には身嗜みを整えるための道具が揃っていて、爪切り鋏もその一つだ。 総司は風呂の後に爪を切るのが好きだった。 爪が柔らかく切りやすいからだったが、切る場所は自室ではなく、湯上り後にここを訪れたときに切ることが多かった。 そんな総司の爪切りの音を耳に心地よく聞きながら、歳三は早く仕事を片付けるべく精を出していた。 総司が後ろにいることがいつものことだとは言え、どうせならゆっくりと二人っきりという実感のある時間を過ごしたいと思うのも、情を交わしていれば当たり前の感情で。 ようやく書類を書き終え筆を置いて、歳三は爪切りの音が止んでいるのに気づいた。 気付きつつも使い終わった筆洗を片付け、総司の方へ振り向こうとしたら、後ろから総司に抱きつかれた。 「おい、総司」 どこか甘えた仕草の総司に、叱り付ける様に声を掛けると、気にした風もなく、甘えた総司の声が強請った。 「ねぇ、切ってよ?」 そう言って、差し出されたものは、総司の右手と爪切り鋏。 「おい、またか? いい加減、自分で出来るだろ」 何度この台詞を言ったことかと思い、歳三は呆れながらも今日もまた繰り返した。 もっとも、総司には甘いと自覚のある歳三だけに、きっと今夜も押し切られるのは見えていたのだが、一応の抵抗と言ったところか。 「他の爪はいいけど、右手は苦手なんだ」 知ってるでしょう? と、総司は歳三の耳元で呟くと、耳元で喋られるくすぐったさに、歳三は肩を竦めてしまう。 「一番隊の隊長が、爪を切ってて怪我なんかしたら、笑いものでしょ?」 確かに、そんなことが広まれば、笑い話にもなるまいと、歳三も思うのだが。 歳三がいつもいつも、素直に総司の爪を切ってやらないのには、大きな理由が一つあった。 それはこの体勢だった。 歳三が、総司の爪を切ってやる切っ掛けとなったのは、総司と出会ってまもなくのことだ。 熱を出して寝込んでいた宗次郎の上掛けを握る小さな手を、布団の中に入れてやろうとして、その爪の長さが少し長いと気になったからだ。 熱で熱くなっていた宗次郎の手を布団の上に出させて、歳三は丁寧に切り揃えてやった。 その後も、宗次郎が寝込むと爪を切る癖が、何故か歳三についてしまった。 すると、歳三に構われるのが好きな宗次郎は、寝込まなくても爪切りを強請るようになり、我ながら甘いと思いつつも歳三はその都度切ってやって、今に至ると言うわけである。 が、今とたった一つ違うことがある。 それは爪を切る時の、体勢だった。 最初は、寝ている宗次郎の手を布団の上に出させて、切ってやっていた。 寝込んでいる宗次郎の爪を切るのだから、寝かしたままだったのだが、どうにも向かい合った状態で切るのは、思ったより難しかった。 それに、寝込んでいない時も切るようになったから、いつしか宗次郎を胡坐を掻いた上に座らせ、後から抱きかかえる姿勢で切るようになっていた。 小さな宗次郎の可愛らしくて紅葉のようだった手は、今では竹刀胼胝のある包み込むような大きな大人の男の手になっていた。 しかも、膝の上に座らせていた小さな体も、鍛え上げられて逞しくなり、逆に歳三を抱き込んで離さない。 だが、総司の幼い記憶がある身には、この体勢は承服しがたいものがあり、歳三に溜息を吐かせるのだが、総司は頓着なくくっ付いてくる。 いや、総司にはこういう体勢になれるようになったことが、嬉しいのだ。 子供の頃の歳三の膝の上も、とても気持ちよかったけれど。 だから、歳三があんまりこの体勢に抵抗感があることを知っていても、どうしてもしたくなってしまう。 で、したくなればそうもって来やすいように、爪切りを強請ってしまうという訳で。 後から抱き締められた姿勢は不本意だったが、諦めたように総司の手から鋏を受け取り、歳三はぱちりぱちりと爪を切ってやる。 後からその様を覗き込み、ごろごろと猫が喉を鳴らすように、総司は歳三に頭を凭れて懐ききっていた。 風呂に入り、なおかつ火鉢の前で陣取っていた所為で、総司の体はぽかぽかと暖かい。 まるで、湯たんぽのようだ。 暖かい部屋の中に居たとはいえ、火鉢から少し遠い位置にいて手先が冷たくなっていた歳三には、なんとも心地よい温もりだった。 引っ掛からないように両手の爪をやすりで研ぎ終えた頃、後から歳三の腰を抱いている総司の片腕が、さらに歳三を引き寄せて、 「ありがと」 と、囁くように唇が歳三の項を這った。 それだけで、歳三の白い項が染まり、総司の目を楽しませる。 「ねぇ、好きだよ」 歳三の切った総司の爪のような三日月が、二人の戯れを眺めていた。 |
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