夜風がさわさわと木々を揺らす戌の刻で、すでに寝ている者も多々あったが、雑多な書面に追われる歳三は明かりを灯して仕事に勤しんでいた。
文机の脇にはてきぱきと処理されていっただろう書面が、それぞれ小分けされて置かれている。
新撰組の書面はその全てが、歳三の下へと集約されてきているが、それらの雑務にも等しいものを一手に引き受けて、新撰組を切り盛りしているのだから、歳三の処理能力の高さがそれだけで窺い知れるというものだ。
実際に局長の下へ上がる書面は、歳三によって完璧に処理されたものだけであるし、朝一番にはこれらの書面は待ち兼ねた者の元へと届けられ、また新たな書面が歳三の下へと届くという具合になってあった。
今日中にまとめ終えなければならない書面整理を終えた歳三の残る仕事は、巡察の報告を受けることのみである。
ただこれは、巡察の報告を直接受けるのは副長たる者の役目だと自分に課している歳三は、その刻限までぼーっと過ごせないから、どうしても目先にある仕事をすることになってしまうわけで、鶏が先か卵が先か、と似た話になってしまうのだが。
それでも、だらだらと仕事を続けても効率は上がらないことを歳三は知っているし、歳三の体を心配して煩い者もいるから、歳三も十二分に睡眠をとることを心がけてはいた。
だから、山崎も歳三の睡眠時間を割くことのないよう、できる限り気を配っていて、今夜も上番の報告が済んだ頃合を見計らって、飴屋に身を扮した山崎が副長室を訪れた。
「山崎です」
この時刻に訪れるのは、山崎の報告は内密なものが多く、他に人のいない可能性が一番高いからであり、山崎が副長室を訪れるのはよほどの緊急事態がない限り、この刻限か、朝日が昇る刻限であった。
そんな心遣いをしている山崎が飴屋に扮しているのは、近頃活発になった浪士たちの動きを探るためである。
廊下に跪いた山崎の声に、かさりと微かに紙を畳む音が答え、
「入れ」
と、歳三の許可を与える声がしたので、許可を得た山崎はするりと音もなく、室内に体を滑り込ませた。
室内は仄暗く、明かりは文机の傍に一つあるきりだった。
新撰組はまだまだ貧乏所帯で無駄に使える金はない。
それは副長といえども同じことで、歳三が夜通し仕事をしない理由の一つでもある。
その僅かばかりの明かりを手近な行灯に移し、歳三は山崎に向き直った。
山崎以外の監察の人間も、それぞれ異なる姿に身をやつして、各所に潜伏しているだろう浪士の探索を行っていて、尊皇攘夷の志士の大物・宮部鼎蔵の下僕を捕獲することに成功したりもしたが、その肝心な男の消息は掴めずに、監察は八方に手を伸ばしていた。
宮部の行方は依然闇の中ではあったが、新たな糸口になるかもしれぬ情報を山崎は掴んできていた。
「枡屋?」
「はい。以前、表戸に幕府を批判する張り紙を張られたことのある、あの枡屋です」
「ああ……。あの枡屋か。確か張り紙が張られたのは、三月頃だったか?」
記憶を手繰るように歳三の目が遠くを見遣る。
張り紙を張られた店を調べるのは、新撰組として当然のことである。
単に金目当ての脅しであっても、浪士捕獲の手がかりを得られるし、助ければ店に恩を売ることもできるという打算もある。
枡屋もそうした一連の思惑の中で、山崎が手の者を使い地道に調べていたのだ。
「はい。特に問題もないかと思っていたのですが、ある筋から怪しい話を耳にしまして、密かに内偵を進めておりました」
「ある筋?」
興味深げに歳三が聞くと、乗ってきてくれた歳三に対し、山崎はくすりと笑みを零した。
「実を言いますと、桝屋の番頭からです」
「ほう? 番頭から?」
自分の店の主人を売るのかと、口には出さないが歳三の蔑みの声が聞こえるようだ。
山崎も最初番頭から話しを聞いた時には、そう思ったのだから無理もない。
「番頭の話によりますと、どこの馬の骨とも知れぬ男が、前主人亡き後ぽっと現れて店を乗っ取ってしまったそうで。それが今の主人の喜右衛門なのです」
張り紙騒ぎのときに、出向いた桝屋で会った無骨そうな男の顔を、歳三は思い出していた。
確か手に竹刀胼胝があり、それに目を留めたのを覚えている。
「それでも商売熱心ならばまだしも、店のことは一切合財人任せで、と憤慨しておりました」
「なるほど。番頭にとっては、それは確かに面白くなかろうな」
番頭が新撰組に店の内情をぺらぺらと喋った、そのしたたかな胸算用を歳三は鼻で嗤った。
跡を継ぐ者がおらぬので前主人亡き後に、店が転がり込んでくると思っていた番頭にしてみれば、横から掻っ攫っていった盗人猫の化けの皮を新撰組の手で剥がして貰おうとの魂胆だという訳だ。
「はい。ですが、それより問題なのが、人相風体の怪しそうな人間が、その主人の元へ足繁く出入りしているということで……」
商人の人を見る目というのに外れはないと、山崎は思っている。
それがなければ、騙されて路頭に迷うことにもなりかねないからだ。
「喜右衛門を気に入らぬ番頭の戯言かとは思いましたが、あながち思い違いではないかも知れぬと探っておりました」
気に入らぬ主人を追い出したい一心の狂言ということもあるが、番頭の言葉を信じ、喜右衛門を疑ってみる価値はあると、山崎は踏んだのだ。
「それで?」
興味を持った歳三が、山崎に先を促す。
「どうやら浪士たちとの結びつきがあるようで……」
「浪士たちと、か?」
肝心の話へと移り、歳三は身を乗り出してきた。
ここまで興味をもたれると、山崎としても頑張った甲斐があるというものだ。
「桝屋への出入りを見張らせましたところ、身のこなしから町人に身をやつしている武士が多く混じっていて、その後をつけさせましたが、幾人かは浪士の潜伏先では、と目星をつけておりました旅籠に入っていきました」
結果を淡々と告げて、
「宮部らの動きと、一連の関係があるかもしれません。特にここ数日は動きが活発ですから」
と、そこから考えられる推測も交えて話した。
話を聞き終えた歳三は、しばし黙考に入った。
「――――」
どうやって浪士たちを燻りだそうか、目まぐるしく考えを巡らしているに違いない。
「やはり、先手必勝だな。疑わしきは調べてみないとならんな」
考え込んでいた割りには、短絡的な歳三の言葉に、
「先手必勝ですか?」
と、つい山崎は問い返してしまった。
「ぐずぐずしていて逃げられても敵わんし、先を制するのが一番だろう」
にっと嗤った顔が新撰組の副長というより、近所の悪餓鬼といった感じである。
その落差が新鮮で、山崎はつい目を奪われる。
喧嘩っ早いとは聞いていたが、さもありなんといった風情だ。
歳三にとっては餓鬼の喧嘩も、浪士たちとの斬り合いも、同列な代物なのだろうか。
瞳をきらきらと輝かせ、血を静かに滾らせている様は、人の目を縫いとめるように美しい。
だからであろうか。
局長である近藤に対するのとは、一味違った慕い方ではあるが、歳三に魅せられ惹かれ虜になって、歳三の手足のように動く男たちの多いのは。
それほど、歳三が見せる焔は美しく狂おしい。
もっとも、実際にその焔に触れられるのは、たった一人だけだ。
それ以外のその他大勢は、身を焼け爛らせ地に落ちるか、燃え尽きるか、はたまたその熱さに恐れ戦くのみか。
その上、そんな人間の姿は、歳三の目には見向きどころか、全く入っていないだろう。
山崎ですら女房のいる身でありながら、その焔に触れてみたいと思うのだから、実際にとち狂う者がいたとしても驚きはしないし、命を差し出したくなるのも判る。
歳三の姿を目にしながら、そんなことを山崎が思っていると、
「明日にでも踏み込もう。それまで見張っていてくれ」
と、指示を出された。
我に返った山崎が、
「承知しました」
と、恭しく頭を下げ退出し廊下を歩きかけると、手拭いで頭を拭きながらやって来る総司と出くわした。
ほかほかと湯気が上がっている様子から、どうやら湯上り直後らしいと、山崎は察した。
「あ、山崎さん。お疲れ様です」
にこにこと温かい笑顔を振りまく総司に、山崎が軽く頭を下げすれ違って振り返ると、歳三の部屋に遠慮もなく入っていくのが見えた。
つい一瞬立ち止まって、ふと心に沸き起こった羨ましいと思ってしまった感情に蓋をして、山崎は静かに闇の中へと消えていった。








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