水の底照る春の月
ばしんっ、と派手な音が響き、儀助は足を止めた。
何事かと、手にしていた籠を抱え持ち直して、おそるおそる音のした方へと歩いていくと、ぐるりと回りこんだ木の陰に二人の侍がいた。
藤堂と、沖田である。
激昂した藤堂が、沖田に何か言い募っていて、それで手が出たようだ。
儀助が身を潜めて、よくよく聞いていれば、『山南さん』との言葉が、端々に聞こえてくる。
先々月に死んだ山南のことを、言っているのだろう。
きっと、他の人たちも言っていたように、山南を屯所へ連れ帰ってきた沖田に、あたっているのだ。
藤堂は山南と同じ流派を修めただけに、試衛館の中でも山南と親しかったほうだ。
それが、自分が江戸にいる間に、山南が切腹させられたと聞いて、衝撃を受けたらしかった。
帰営して永倉らに経緯を聞き、沖田を呼び出したのだろう。


沖田が山南を連れて戻ったその時に、永倉たちですら何故連れ帰ったと言ったのを、その場で聞いたときには、儀助のほうこそ涙が出た。
他にも、山南を逃がしもせず、連れ帰ってくるなど、沖田は情け知らずだと、山南を慕っていた連中は、影でこそこそと言いあっていた。
儀助の耳にも、それらはよく入ってきた。
面と向かって言うだけの度量もないくせにと、その時儀助は思ったものだ。
処断を決めた局長や副長ではなしに、その命令に従った者を非難するなど。


沖田の表情は、儀助には背を向けられていて伺う事ができないが、藤堂は興奮しているのか、真っ赤な顔をしていた。
静かにただ藤堂の言い分を聞いているだけだった沖田が、何か言ったようだ。
興奮した藤堂の声とは違い、低く静かな沖田の声は、儀助の耳には届かなかったが、藤堂の怒りを更に煽ってしまったようだ。
再度振るわれた平手を、避けることもせず、沖田は受け止めた。
その上で、更に一言何かを言い、沖田は藤堂に背を向けた。
儀助の方とは逆のほうへと、沖田は去って行ったが、その思いっきり殴られた頬の後も赤く、痛々しかった。
沖田の心情の知らず罵るなど、儀助には許せなかった。
沖田には、沖田の思いがあるものを。
でなければ、沖田が山南を連れ戻しに行く前日、わざわざその旨を告げに、儀助を使いに出すことなどなかっただろうと思う。


立ち去った沖田の背を、親の敵のように睨み付ける藤堂に、儀助は近づき声を掛けた。
「藤堂さん」
沖田に意識を集中していた藤堂は、儀助が歩み寄るのにも気付かず、声を掛けられて初めて気付き、びくりと体を揺らした。
「儀助、か」
振り向き、取り繕うようにぎこちなく藤堂は哂った。
「へぇ」
「見ていたのか?」
「お声が聞こえましたよって」
「…………」
「もっとも、何をお話なさってたかは、よう聞こえしまへん」
儀助は腰を低くしながら、首を竦めた。
「けど、山南さんのことやとは、わかりました」
ぎろっと、藤堂は睨んだが、儀助は意に介さず、言いたい事を言おうとした。
藤堂のひと睨みで怯むようなら、新撰組にいる価値はなかろう。
「差し出がましいことやけど、ひとつだけ言わしてもろても、構しまへんか」
「何だ?」
睨みにも怖気ずにいる儀助に、藤堂は渋々聞き返した。
「へぇ、沖田様には沖田様の考えや、情がございます」
沖田が、近藤や土方に対するのとは別に、山南を敬愛していたのは、誰もが知っている。
だからこその、沖田への非難である。
「沖田様が山南さんの元へ行く前日、あっしを呼んで、わざわざ山南さんの元へ伝言を言付けられたんでさ」
「なに?」
思わず、藤堂の声が上擦った。
「『明日、沖田が迎えに上がります』と。きっと、山南さんならその言葉の意味を、判じられたんやないでっしゃろか?」
儀助は、山南ならば、沖田の意図を汲めたと思っている。
それは、沖田が先触れをして山南の元を訪れる以上、再三再四断っていた屯所への帰営のためだということを。
帰営すればどういう処断が待っているかも、すべて承知していたと思う。
だからこそ、沖田と共に甘受として、帰途に着いたのだ。
「その上で、沖田様をお待ちしてたんやないやろかと、あっしは思うんですが……」
そして、沖田が儀助を差し向けたもう一つの意図も、きっとわかっていた筈だ。
新撰組を脱するなら、これが最後の機会だということを。
儀助が大津に着いたのは、すっかり日も暮れた時分だったが、翌日沖田が昼過ぎに現れるまでに、姿を晦まそうと思えばできた。
沖田はそうする機会を、わざわざ与えたのだ。
副長である土方の意向に逆らってまでも。
沖田にとっては、これが精一杯の譲歩だったろうと思う。
だが、もし山南に対するこの行為が、知られたとき沖田はすべての責任を取らざるを得ず、山南もそれを判り、沖田のその責を負わすことを、潔しとしなかったのだ。
その二人の、互いを思いやった心情を、沖田と同じく山南に心酔していた藤堂には理解してもらいたかった。
藤堂は声もなく、儀助を見詰め、儀助の言葉を反芻しているかのようだ。
だが、その目に儀助は映っておらず、別の人間を思い浮かべているような色があった。
「山南さんの元へ行ったときも、今宵のような雨で……」
月が顔を覗かせていながら、霧雨のような雨が降り濡って、琵琶湖の湖面に水紋と、幾つもの月が浮かんでは消えていた。
その時とは違う暖かい雨が降る今も、井戸の奥、月がゆらゆらと映っていた。
言うだけのことは言ったと、藤堂に頭を下げて、儀助がその場を去る間際、藤堂の頬に見たものは、雨とは違う雫の一流れであった。
これで、山南さんの一連の話は終了です。
山南さんの切腹自体の話は、今のところ書く予定は無しですから。
順番としては、『壱輪咲いても』→『薄ら氷(1)』→『山の南』→『水の底照る』→『薄ら氷(2)』です。



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