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夜半になって、雨がしとしとと降り出してきた。 先程まで少し顔を覗かせていた月も、雲間にすっかりと隠れてしまっている。 「濡れるよ」 窓を開け放ったまま、眺めるとはなしに、外を眺めていた歳三に、雨は降り掛かりそうな気配で、部屋を訪れた総司は、前に廻り込み障子を閉めた。 けれど、歳三は微動だにせず、文机に肘を突いたまま、虚ろな視線を投げかけていた。 「ねぇ、酒を飲みませんか?」 総司は、持ってきた酒を、杯に注ぎ、歳三に差し出した。 歳三はその杯に眼を移し、そこに描かれている文様に眼を引かれた。 ことりと、総司が文机に置いた杯には、白地に青い線で三日月と、花びらが描かれていたのだ。 こんな杯を、今までここで眼にしたことがない。 そう思って、歳三が問うと、 「総司、これは……」 「あの人から、歳さんへの贈り物です」 と、なんでもないことのように言われ、歳三の体がぴくりと無意識に揺れた。 それに気付かぬわけもないのに、総司は気にする風もなく、大津の焼き物だそうですよ、と付け加えた。 「なんで……」 問い返す歳三の声が、微かに震える。 「一緒に酒を酌み交わそうと思って、買ったそうです」 彼に大津で渡された杯で、彼の死を悼んで酒を飲む、これが最上の別れ方だと思った。 本当は、二人で酒を酌み交わして欲しかったけれど。それはもう叶わないことだから。 さあ、飲んで、と言って徳利を、総司は捧げ持った。 歳三は促されるように、杯を手に持ったが、微かに震える手を、総司はどう思ったろうか。 屯所の中は静まり返っているようだ。 さすがに今夜、浮かれ騒ぐ馬鹿は、いないということか。 いや、中には供養だと称して、島原などの花街に繰り出して行った者もいる。 屯所にいるのも、気まずいのだろう。 歳三と総司、二人を包むのは、雨の降る音だけ。 二人それほど飲むほうではないが、今宵は随分と飲んでいた。 歳三が杯を干せば、総司が注ぐ。総司自身は、手酌であった。 ここが屯所であるにも拘らず、行儀悪く片膝を立て、いつもの副長らしからぬ崩した姿は、歳三の冷徹な采配に似合わぬ心の乱れを、表しているかのようだ。 十分にあったはずの酒が、底をつきかけ、総司は漸う歳三に言った。 「泣けばいいじゃない。だって歳さんは、あの人のことが、好きだったでしょう?」 総司は敢えて、今日逝った人の名を言わず。 「…………」 ちらっと、総司の方へ視線を投げ掛けたが、歳三はまた視線を逸らして、酒に口を付ける。 「歳さん」 総司が呼び掛ければ、 「そんな訳、あるか」 歳三は渋々といった風情で、反論を口にした。 「そう? でも、そうでもなきゃ、句に読まないでしょう?」 大好きな句に詠むぐらい、好きだったでしょう、と総司は言うのだ。 総司が言っているのは、歳三が前に見せたことのある句のことだ。 その時も、別にそんなつもりじゃないと、歳三は否定したのだが、無意識にせよ詠むぐらいなんだから、好きなんですよと、総司は取り合わなかった覚えがある。 「お前は、泣いてないだろうが……」 総司に遣り込められて面白くないのか、歳三は反撃をしようとした。 歳三が彼に下した処分を、淡々と受け入れた総司の心情は、如何ばかりか。 表面上は、何事もなく見えても、嘆き悲しんでいるのは、歳三の比ではなかろう。 歳三や、近藤に対するのとはまた別に、総司は彼を慕っていたのだ。 総司にとって、彼がどういう存在だったのか。 歳三は分かっていながら、彼の元へ一人行かせ連れ戻させて、本人の望みとはいえ、総司は介錯までしたのだ。 「なのに、俺が……」 けれど、総司には、 「俺? 俺は泣きましたよ。あの人と過ごした昨夜」 だから、もう泣かないと、あっさり言われてしまった。 しかし、それは嘘だと、歳三は思う。 総司がそんな場で、涙を見せるはずがない。 意地っ張りな総司が、そんな場で泣くはずがないのだ。 が、それを言っても、きっと否定するだろう。歳三のために。 「副長として総長を悼むのではなく、ただの歳さんが昔馴染みのあの人を、悼むぐらいはいいでしょう?」 どうとでも、総司は歳三から涙を引き出したいようだ。 「歳さんには、多摩のバラガキのままで、いいんですよ。私の前では、繕う必要などないから……」 きっと、表に出さない悲しみは、心の奥底に降り積もって、いずれ身動きが出来なくなると、思っているのだろう。 「俺が泣いても、あいつは喜ばん」 「そんなこと、ない。自分の好きな人には、自分の死を涙して貰いたいものですよ」 あいつは、俺のことなど好いてはいない、と歳三が言えば、いいえ、と総司は否定した。 「あの人も、歳さんのことが好きでしたよ」 総司はそっと、歳三の後ろから抱き締めて、 「でなければ、こんなの買わないよ」 諭すように、歳三の手の内の杯を、上から包み込むように手を重ねた。 「ただ、あの人の勤皇であるという節は、最後の拠り所だったんですよ。剣が持てなくなったあの人の、唯一の」 怪我をし、それが癒えたと思ったら、今度は病に罹ってしまった彼の、失う訳にはいかぬものだったのだ。 総司にとって、歳三がそうである様に。 「それに殉じられただけ、幸せかもしれない」 自分も歳三を失うぐらいなら、何でも出来ると、総司は思う。 例え、それが自分の生を、縮めることになろうとも。 「でも、昨日までそこに居た人が、この世の何処にも居なくなる。それは悲しいと思っても、いいでしょう?」 歳三の首に顔を埋めるように抱きついて、 「だから、ね。泣いて、歳さん」 耳朶を愛撫するように総司が囁けば、やっと歳三の眦から、一粒の雫が零れ落ちた。 それと引き換えのように、霧雨のように降っていた雨が上がり、下弦の月が冴え冴えとした姿を見せ始めていた。 |
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この句は、やっぱり山南さんを絡めるしかない! と思って書きました。 時期的にも、今だし。 これの前後も、そのうち書きたいです。 |
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