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澄み切った空。 冬のどんよりと曇った重苦しい空ではなく、またここ数日の新政府軍の猛攻を全く感じさせない、五月の晴れ晴れとした蒼い空が、窓から見える。 その空を眺めるしか、することも無い男の部屋のドアが、コンコンとノックされた。 「失礼します」 掛け声と共に入ってきたのは、元新撰組隊士で、元陸軍隊隊長・春日左衛門の養子になり、榎本の小姓を務める田村銀之助である。彼はこの箱館政権の中でも群を抜いて幼く、今はこの男の身の回りの世話、いわゆる看護を任されていた。 その少年の背後から、髷を落とした姿も函館一、様になっている土方歳三が現れた。 「伊庭。どうだ。加減は?」 言いながら、銀之助に勧められた椅子に土方は腰掛けた。 こうして見る土方は、二股での猛攻を食い止めた闘将としての奮戦振りが信じられないほどに、穏やかだった。 「らしくねえ、な。お前が寝てるなんて」 土方の辛辣な言葉にも、江戸のときから一緒に吉原に行って馴染んでいた伊庭は、気にすることも無い。 だからこそ土方も、明け透けに言えるのだろう。これが大鳥辺りであったなら、煩いこと間違いない。 「ははっ、ちょいとしくじっちまって、ね」 包帯を捲かれ、痛々しい姿だが、存外元気なようだった。 先刻、この部屋に来る前に、伊庭の病状を語った医師の話では、相当悪く治癒の見込みも無い、とのことだったが……。 相当見栄っ張りなところがある伊庭の事だ。随分人の見ていない所で、辛抱しているに違いない。 「土方さんは、怪我も無く元気なようだねぇ」 「ああ、この通りピンシャンしている」 ベッドに横たわったまま、見上げてくる伊庭に、土方は笑いながら答えた。 「どうだえ? その後の様子は?」 寝たきりの伊庭の元へは、詳しい戦況は伝わってこない。が、聞こえてくる砲弾の音に、この男なりの判断はあるのだろう。 「思わしくは無いな」 土方は、隠すことなく告げた。 「善戦はしているが、それだけだ。いつまで持つか」 「ふーん。榎本たちは?」 榎本たちが、この状況下でどうするつもりなのか、気になっていた伊庭は、問い掛けた。 「あれは、もう駄目だろう。もともと徹底抗戦する気概が無い。しかも、海軍の力が無くなってしまってからは特にな」 「そんな男に良く付いて、蝦夷まで来たねぇ」 揶揄するような響きが、伊庭の口調には合った。 「ふん。俺はただ戦う場所が欲しかっただけさ。どうあっても俺は、薩長には頭を下げれないからな」 だが、と土方は続けた。 「あいつらは、篭城して、日を延ばして、いつ、如何に有利に、降伏するか。それを、もう考え始めているだろう」 「なるほどねぇ」 伊庭は、土方の冷静な判断力を、信頼していた。だからこそ、この時の土方の言葉に、偽りは無いだろうと思えた。榎本たちは、きっと新政府の元でも、上手く立ち回り、生き延びていくことだろう。しかし、この目の前にいる土方は……。 「で、歳さんは、如何するつもりだえ?」 つい伊庭は、土方を昔の呼び名で呼んだ。 「俺か? 俺は討って出る。何処からも、ただの一兵も来ない以上、篭城なんかしても仕方が無いさ」 確固とした信念を持って言う土方は、男の目で見て惚れ惚れするぐらいに、眩しかった。 それは確かだと伊庭は思う。この箱館軍は、世界で全く孤立している。既にフランスの軍事顧問団も箱館から脱出していた。 「榎本たちに、止められるんじゃないかえ?」 伊庭の言葉に土方は、片頬を歪め、皮肉な笑いを刻んだ。 「止めるだろうな。一応は。だがそれは建前さ。俺が居なくなって一番喜ぶのはあいつらだろう?」 皮肉なことに、味方の戦意を奮い立たせた箱館政府随一の闘将は、この最後の時にあって、同じ政権の人間からは、邪魔な存在になりつつあった。主戦派と目されている元新撰組副長は、薩長を主体とする新政府軍との交渉においては、全く無用の長物だった。 「ここでは、空を見るしかすることが無くてね。」 伊庭は土方を見ていた視線を外し、土方が来るまで眺めていた、窓から見える雲ひとつ無い空を見た。 「こんな空を見てると、ドンパチやっているのが嘘のように感じるよ」 「ああ、馬鹿馬鹿しいくらいにな」 伊庭の言い様に、土方は椅子から立ち、ベッドの反対側の窓に回って、外を眺めやって相槌を打った。 江戸では二人、馬鹿な真似事もした。こんな空を見てると、そんな馬鹿なことも、良い想い出として蘇って来る。 「それに、こんな空を見てると、思い出すのは総さんのことさね」 沖田と同じ年の伊庭は、とても同じ年には見えないほど、世慣れていて、色事にも疎い沖田とは対照的で、土方でさえ感心するほど女あしらいが上手かった。ここ蝦夷の地を伊庭が踏むことが出来たのも、馴染みの遊女の金があったからだと、土方は聞いていた。 「総司か」 確かに、この空は総司を思い出させると、土方は思った。あの晴れやかな笑顔が、何よりもこの空に似合う男だった。自分よりも余程若く、そして剣もたつ男たちが、こうやって傷つき、または病魔に冒されている姿を見るのは辛かった。 その空気を読んだ様に、伊庭が問い掛けた。 「歳さん、死に別れは、先がいいかい? それとも後かい?」 「伊庭」 急に何を言い出すのかと、窓の外を眺めていた土方は伊庭を振り返った。 「江戸に帰ってきたときに、一度だけ総さんを見舞ったんだけどねぇ」 歳三には、その話は初耳だった。が、元々同じ年で剣の腕前も認め合っていた二人だ、病になった沖田がいると聞いて、見舞ったのだろう。 「久方振りに会う総さんは、とても冴え冴えとして怖かったよ」 沖田は、元々一途なところがあったが、病に倒れてから、ますます純化されていったようだった。 その沖田を見詰め続けていた土方が、抱いていた恐れにも似た思いを、伊庭も剣士としての直感で見抜いたのだろうか。 「その時に、総さんが言ったんだよ」 伊庭が見舞った沖田の部屋から見える、庭に植わる今を盛りと咲き誇る花々を共に見ながら、沖田は告げた。 『死が確実な病人の私よりも、健康な人の方が、早く死んでいく』 伊庭の鋭い感に訴え掛けて来る、沖田の研ぎ澄まされた感覚。 『置いて行くと思っていた人よりも、私の方が長く生きている』 この男は、誰よりも死に囲まれ、死を撒き散らしながら、死を胸に飼い、その全ての死を純化し昇華してゆく。死に最も近い場所にいた男。 『それは、とても辛い事だとずっと思ってた。だけど、今はそれが私に与えられた天命かな、って』 沖田は、伊庭に透明な陽に透ける笑みを見せた。 『歳さんにも言われたんだ。お前は置いていくというが、お前よりも俺のほうが早く戦場で死ぬかもしれないぞ、って』 ずっと、新撰組になってから土方さんと呼んでいた名が、昔懐かしい伊庭と会って、元に戻っていた。 『でも、それでも。私は、先生と歳さんの死だけは、知りたくないなぁ』 そう、沖田が呟いたときも、今この空と同じぐらい澄み切った蒼い空だった。 「そうか。総司がそんなことを……」 「うん。総さんが、一番見たくも、知りたくも無かったのは、きっと二人の最後さね」 伊庭が、沖田が伊庭以外に決して洩らさなかった胸のうちを、今この時になって漸く語れたと笑う。 「もっとも。そう言いながら、知っても耐えるだけの強さを持っちゃいたがね、総さんは」 「そうだな。俺も覚悟はしていたが、近藤さんと総司の死の知らせだけは、聞きたくは無かったな」 沖田が宿痾を抱えてから、そして近藤を流山で投降させてから、いつも覚悟をしていたとはいえ、実際それを聞いたときの身の崩れ去るような喪失感は、未だに思い出すだけでも土方の体を震わせた。 それを吹っ切るように、誰に言い聞かすというのではなく、淡々と土方は伊庭に告げた。 「明日、俺は出る」 「ああ、行って来ればいい。俺もすぐに行くよ」 伊庭も、この時期に自分を見舞った土方の心情を察していたのだろう、驚きもせずに頷いた。 「俺は、あんたとの、死に別れは後がいい」 だから、あんたの生き様を胸に納めてからいくよ、と伊庭は闊達に笑った。 「総司が待っている向こうで、逢おう」 にっ、と土方が不適な笑みを見せ、伊庭に背を向けた。 「総さんは、きっと首を長くして待ってるさね」 土方の総てを飲み込んだ背に、伊庭は土方の男気を見た。 「また……、な」 この幕末と後に呼ばれる時代を、自分の思いのままに生き終えた、二人の男のそれが別れであった。 |
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すみませ〜〜ん。伊庭の知識がうろ覚えで中途半端なんで、こんな風になっちゃいました。言葉使いも変だし〜。江戸弁分かりません(涙)。大目に見てやってください。 |
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