227様作■「姫君の憂鬱と王様の杞憂」環ハル // 1
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その日もハルヒは、いつものように使用済みの食器を洗っていた。
入部してからというもの洗い物はほぼ彼女の仕事になっているが、
家事には慣れているのであまり苦ではない。
最初の頃は高級な食器類を傷付けないかと少し緊張していたが、
今では部活中の第三音楽室の喧騒を離れて準備室で一人になれる一時が気に入っている。
「ハルヒ、手伝おうか?」
背後からの不意な声に振り向くと、環が戸口に立っていた。
環が片付けを手伝いたいと申し出たのは初めてのことではないが、実際に手伝わせたことはまだない。
以前からお坊ちゃん育ちの彼が家事など出来るわけがなかろうと思って断っていたが、
夏休みのペンション手伝いの一件で、
予想をはるかに上回るダメっぷりを確認してからは、特にそれを確信した。
もしも環が高級ティーセットを大量に粉砕したのを鏡夜に知られ、
連帯責任としてこれ以上借金を上乗せされたら…と考えると、軽く目眩がしてくる。
「別に大丈夫ですよ。それよりお客様が待っているんだから、先輩は戻ってください」
そんなわけで今日もやんわりと申し出を断ったが、環は諦めなかった。
「ハルヒがいないと、お父さんは寂しいんだよぅ…。早く終わるように手伝うのも、ダメなのか?」
そう言って、恒例のうるうる目で見つめてくる。
「…だって、環先輩こういう事苦手じゃないですか。ペンションの時とか…」
「そ…それはそうだが、もうあの時の俺ではないぞ!二度と同じ轍を踏まないよう、
あの後家でメイド達の手伝いをして、片付けの極意を教わったのだ!」
「そうですか…」
「うむ。シマに、充分だからもう手伝う必要はないと言われるほど上達したのだ。
だから、安心してお父さんに任せるがいい!…先ずは、このカップをしまえばいいのか?」
それって余計な仕事を増やすだけだからもう手伝うなという意味では…?
とハルヒが思う間もなく、環はカップを大量に載せたお盆を持って食器棚へと向かう。
「…た、環先輩、そんなに一度に運んだら危ないですってば!」
「大丈夫だ。もう、ハルヒは心配性だな…うわ…っ!」
運の悪いことに環の足元は、
洗い物の途中でハルヒが溢して後で拭き取ろうと思っていたシャボンで濡れていて、
よそ見をしていた彼は見事に足を捕られた。
ガシャ――――ン!!!
派手に転ぶ環と床に叩きつけられて割れる幾つものカップが、スローモーションで視界に入る。
―――マイセンのカップの弁償代だが、お前の分の35万円は借金に上乗せしておこう。
瞬間、陶器の割れる騒音に混じって、鏡夜の声が聞こえたような気がした。
「あー、もうっ!何やってるんですか、先輩!」
「うあぁぁぁ、ごめんよハルヒィィ!…いま、拾うから!」
涙目で慌てて破片を拾い集める環を横目に、ハルヒは泣きたいのはこっちだと思った。
こんな事になるのなら、何故彼の申し出を全力で阻止しなかったのかと悔やまれるが、既に後の祭りだ。
彼女は小さく溜息をついて、環の傍に座り込んだ。
「片付けは、後でいいです。それより環先輩、怪我してるじゃないですか。
…ほら、指出してください」
環の手を取り、カップの破片で傷ついた指を診てみる。
人差し指を少し切っているが、幸いたいしたことはないようだ。
自分の些細な切り傷の時にする要領で、とりあえずの止血のためにその指を口に含む。
「ハルヒ……」
「…んっ。もうだいたい血は止まったみたいです。絆創膏巻いておきますけど、
気になるなら、後でちゃんと消毒してください」
たしか食器棚の引き出しに、以前コーヒーのおまけに付いていた絆創膏があったはずだ。
それを取るために立ち上がろうとしたが、不意に腕を掴まれる。
「何ですか……?」
環は珍しく無言で、ハルヒを見つめていた。
真剣な、それでいてどこか熱に冒されたような表情だ。
ハルヒの胸の奥が、僅かに疼く。
いつからだろう、今のように環に見つめられているときや、
息がかかるほど傍にいるとき、原因不明の疼きを感じるようになったのは……。
別に苦しいわけでもなく直ぐに治まるので普段は気にしないことにしているが、
それでもその瞬間だけはどうしても意識してしまう。
以前、熱を出した環のお見舞いに行ったとき額にキスをされたことがある。
その後暫くの間、彼の傍に寄ると何故だか疼きが強くなるのと、
額にキスしたことを彼がすっかり忘れていたことが何となく腑に落ちない気がしたのとで、
距離を置くようにしていた。
結局、キスの件をなかった事にして気にしないようにすることで、
以前の関係に戻れたと思っていたが、それでもこうして見つめられていると、
あの時の事が頭を過ぎる。
……本当に、何故だろう。
自分にとって環は、庶民とかけ離れた感覚やお父さんだからと言って
過剰に世話を焼いてくるところが暑苦しくてウザいと感じることもあるが、基本的には尊敬に値する先輩で、
それ以上でもそれ以下でもないはずだ。
それなのに時々こんな気持ちになるのが、分からない。
今だって環の顔が近付くにつれて、胸の奥の疼きが次第に大きくなって……。
「……ぇ…?」
気が付いたときには、もう遅かった。
熱い吐息がかかるのを感じた直後、ハルヒの唇は環のそれに塞がれていた。
―――自分は今、環先輩にキスされている。
そう自覚した瞬間、ハルヒの胸の疼きが痛いほどに強くなった。
「…やっ…やめて下さい……っ!!」
渾身の力で彼を突き放し、自身の唇を手の甲で覆う。
おそらく実際に唇が触れ合ったのは、ほんの一瞬なのだろう。
しかし、僅かに残る存在感のある温もりが、今もハルヒの胸を騒がせていた。
「…ハ、ハルヒ……?」
ふと見れば、環は拒絶された意味が理解できないという顔をしている。
「…どうして、こんなことするんですか?」
「…だ、だってハルヒが可愛いから。我慢できなくて、つい……」
「そんな理由で、勝手にキスしていいと思ってるんですかっ?!」
「…い、いいんだ!」
徐々に激しくなるハルヒの剣幕に些か気圧されながらも、環は反論する。
それは、普通の人間が思いもしない理由だった。
「俺はハルヒのお父さんだから、いいんだっ!お父さんが可愛い娘にちゅーするのは、
変態じゃなくて当然の父性愛なんだ!!」
「…それ、本気で言ってるんですか?」
「勿論だとも!」
自信ありげに頷いて、彼は更にお父さんだからアレだコレだと続けた。
別に彼が自分のお父さん気取りで家族ごっこに興じるのは昨日や今日に始まったことではないので
慣れっこだったが、ここまでズレていると流石に頭が痛くなってくる。
このままいつものように押し切られて納得してしまえば、
いつか今回のキスもなかったことになるのだろうか。
…いや、それはどうかと思う。
物事にあまり執着しないハルヒでも、流石にそれではいけないと思った。
だからこそ、環に疑問を投げかける。
「…お父さん以外の男の人とは、ダメなんですか?」
小さな、しかしはっきりとした声音。
見開かれた双眸は、しっかり正面から環を見据えている。
「そうだ。だから、女の子はお嫁に行くまで他の男とちゅーしてはいかん」
「前から言おうと思っていたんですけれど、
自分は環先輩をお父さんだと思ったことありませんよ。
そりゃ、うちのお父さんと性質は似てると思うけど、違うんです」
「な…何ぃぃぃぃっ?!!」
環は大袈裟に仰け反り、やがて力なくその場にへたり込んだ。
その表情から察するに、彼なりに多大なショックを受けたらしい。
「…で、では仮に…仮に俺がハルヒのお父さんではないとして、
お前にとって俺の存在は何なのだ?教えてくれ、ハルヒィィィッ!!」
「先輩は、男の人ですよ。だから自分にとって先程のアレは、
お父さんとのコミュニケーションとは違います。だから、ダメなんです」
ここまで言えば、いくら彼でも分かってくれるだろう。
どうせ、いつか家族ごっこには終わりが来るのだ。曖昧に終わるよりも、
はっきりさせたほうがいいのかもしれない。
「…つまり、お父さんではない男はちゅーしてはいけないと?」
「先程、自分でもそう言っていたじゃないですか。先輩は自分にとっては男の人だから、
平気じゃないんです」
「それでは、お父さんでもないのにハルヒにちゅーしたいと思う俺は、何なのだ?
…や、やっぱり変態なのか?!そ、それはダメだ!今からでも考え直して、
俺をお父さんと思ってくれないか、ハルヒッ!!」
必死の形相で懇願する環を見ているうちに、何とも複雑な気持ちになってくる。
何だってこの人は、こんなにも自分のお父さんであることに拘るのだろう。
まるで、そうでなければ自分とコミュニケーションがとれないかのような必死さだ。
このまま否定しきれば、恐らく二人の関係は変わるだろう。
それが良いことなのか悪いことなのかは、まだ分からない。
娘でなくなったハルヒに、お父さんでなくなった彼はどのように接するつもりなのか。
他の女の子達と同じに?或いは、避けるようになる?それとも……?
それを考えると、何故かより一層胸の奥がズキリと疼いた。
「…そ、そう言えばこの前光と馨に頬にちゅーされた時は、平然としていたじゃないか。
それが良くて、どうして俺はダメなのだ?!」
「だってあの二人は友達だし。…ともかく、そろそろ割れたカップを片付けたいんで、
話はこれでおしまいでいいですか?」
なおも食い下がる環を遮り、ハルヒは片付けを始めた。
箒とちり取りで破片を集めながらも、
時折捨てられた子犬のような目でこちらの様子を伺う彼が視界に入る度に、苛立ちを覚える。
……どうして分かってくれないのか。
簡単なことじゃないのか、友達がふざけ合っているのと彼が自分にしたこととは違うのだ。
だって、彼は自分にとって明らかに異性の先輩なのだから……。
そこまで考えて、ふと気が付く。
あくまで異性として考えれば、自分を除くホスト部員は皆そうだ。
光と馨ほどではないにしろ、ハニーが無邪気に抱きついてくることもある。
モリに抱き抱えられたことだってあるし、それこそ吐息が掛かるかと思うほど近くで、鏡夜と話すこともある。
それなのに、どうして環が相手だと身構えてしまうのか。
それに気付いたのがいつだったかは忘れてしまったが、何故か彼だけを意識してしまい、
単なる先輩とのコミュニケーションと割り切ることが出来ずにいる。
そして、彼を意識している自分を感じるとき、彼が接触してきたとき、
いつからか決まって少し胸の奥が疼く。
だが、どうしてもそれが何故なのか分からない。
いっそのこと、本当に彼をお父さんだと思えば楽になれるのかもしれないが、
どうしても自分にとって環はお父さんではないのだ。
……結局、環と自分への苛立ちが治まることはなく、
それから一言も彼と言葉を交わすこともなく、部活が終わると同時に帰路についた。
翌日もその次の日も、ハルヒは彼を避けたままだった。
幸いティーカップの弁償だけは免れたが、それでも彼女の心にかかる霧を晴らすには至らない。
話し掛けようとする環を素っ気なくかわすとき些か胸が痛んだが、ここで徹底しなければと自分に言い聞かせる。
そうしているうちに、いつか時が解決してくれるだろう、きっと……。
ただ頑なにそう思うだけで、精一杯だった。
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