ようやくイベントが終わり、虎徹はイワンとともに待合室へ引っ込んだ。
 あとはファンたちが帰るのを待ってから、企業側が用意する車に乗って帰ればいいだけだ。今日はこのまま自宅へ戻っていいという許可を受けていた。
「おつかれさん」
 イワンに声をかけると、バーナビー姿のままの彼はじっと虎徹を見てくる。強張った表情である。
「僕、変じゃありませんでしたか?」
 真剣にそんなことを言うのを聞いて、虎徹は驚いた。
「彼らしく振舞ったつもりなんですけど、あれでよかったんでしょうか」
 あれほど完璧に演じてみせながら、その実内心は不安で仕方なかったらしい。虎徹は、きっぱりと言った。
「変じゃなかったぞ、バニーちゃんそっくりだった」
「本当ですか?」
「コンビ組んでる俺が言うんだから、間違いないって」
 そうですか、とイワンがほっと肩の力を抜く。その様子が可愛らしくて思わず手を伸ばして、その頭をがしがしと撫でてしまう。
 バーナビーならば即座に振り払われるところだが、相手はイワンだ。少し恥ずかしそうにしながら、虎徹に大人しく撫でられる。
「お前演技うまいなあ。役者になれるぜ」
 本心から褒めれば、イワンは何度か瞬きをする。
「そうですか?」
「うん、営業中のバニーちゃん、あれ俺でも見分けがつかないかも」
 等とバーナビーが聞いたら確実に怒りそうなことを、虎徹はさらりと口にする。実際見分けをつける自信はない。
 イワンはどう反応したらいいのかわからない、という様子で虎徹を見るばかりだ。
 ヒーロー姿のときと、普段のときとのテンションがまったく違うイワンは、どうやら擬態化中は素のほうに近いらしい。
「元の姿に戻らねぇの?」
 もうイベントは終わったのだから、バーナビーの姿でいる必要はないはずだ。イワンは、いえ、と首を振った。
「会社に帰るまではこのままで、という命令なので」
 なるほど、と納得して虎徹は同情的にイワンを見た。
「念には念をいれてるわけか。お前も大変だなあ」
「虎徹さんの役にたてたならよかったです」
 生真面目にそんなことを言うバーナビーは、いかにも健気な後輩そのものだ。
 見慣れない姿に、なんだかむずむずしてしまう。
 初対面のときから思い出しても、バーナビーがこれほど可愛かったことなどない。
「うん、まあお前がいてくれて助かったよ」
 ならいいんです、とイワンは頷いてはにかむように笑った。
 素直そのもののその表情を、虎徹はじいっと見つめてから、思わず言ってしまう。
「なんか面白いな」
 イワンが首を傾げた。
「何がですか?」
「バニーちゃんの顔なのに、表情が全然違うからさ」
 中身が違うから、当たり前なのだが。
 なんとなく手を伸ばして、頬に触れればびくりと体が揺れた。これも決してバーナビーならばしない反応だ。本物のバーナビーならば、平然と虎徹の手を掴んで口付けるくらいはやってくるだろう。そういう可愛くない後輩なのである。
「へ、変ですか?」
 突然の接触に驚いたのか、イワンがうろたえたようにする。
「変っていうか、面白い。……なんだか色々悪戯したくなるよなあ」
 物騒な台詞に、イワンがびくりと跳ねる。
「えっ!?」
 にやりと笑って、虎徹はイワンとの間の距離を詰めた。
 ますますうろたえた顔になるイワンに、虎徹は楽しくなってくる。
「なあ、イワン」
 虎徹の雰囲気が変わったのがわかったのだろう。 囁くように言えば、かわいそうなイワンはどうしたらいいのかわからないという顔をする。
 虎徹は問うた。
「お前、俺のこと好き?」
 バーナビーの目が−−イワンの目が、丸くなる。面白いくらいにうろたえている。
 それはそうだろう。突然こんなことを聞けば、誰だって面食らう。
「……嫌いか?」
 悲しげに装って問えば、ぶんぶんと首が左右に振られた。そんなに勢いよくふったら、頭痛がしそうだと思いつつ、かわいいなあ、と内心思う。
 にっこり笑って、虎徹は言った。
「じゃあ、キスでもするか」
「き、きす!?」
「大丈夫大丈夫怖くねぇから」
 目閉じてればあっという間に終わるし。等と言いながら、虎徹はイワンへとゆっくり顔を近づける。
 イワンはといえば既に顔は真っ赤で、なのに逃げようとはしないから、このまましちゃおうかなと思う。
 本当は途中でやめるつもりだったのだが、とまらなくなってきた。
 大体バーナビーの赤面なんて初めてみた。
 貴重なもの見た、と思いながら唇を重ねようとした瞬間、バタンッという大きな音がして扉が開いた。
 流石に驚いてそちらを見れば、ここにいるはずもない人物が立っていた。
「……何してるんですか、オジサン」
 虎徹をオジサンなどという失礼な呼称で呼ぶ人間は一人しかいない。
 家で寝込んでいるはずのバーナビーだった。
 呆気にとられる虎徹である。
「お前風邪だったんじゃ」
 大股で一直線に近づいてきたバーナビーは、ぐいと虎徹の腕を取ると、イワンから引き剥がした。バランスを崩して思わずよろめいた。だがつかまれている腕のせいで、こけることだけは免れる。
 何するんだ、と文句を言うより先に、バーナビーがイワンに頭を下げた。
「お世話になりました、折紙先輩」
 バーナビーの声でようやく我に返ったらしいイワンが、はっとしたように答える。
「い、いや……」
 はたから見れば、バーナビーがバーナビーに話しかけている図である。奇妙なことこの上ない。
 写真にとって誰か見せたい、と思う。片手でポケットからごそごそと携帯を取り出し、カメラを構えたところでバーナビーに邪魔された。
「あ、お前何するんだよ!」
 携帯ごと取り上げられてしまう。
 バーナビーは虎徹の抗議など無視して、イワンに言った。
「この非常識な人は、僕が回収しますので。すみません、ご迷惑おかけしました、先輩」
「非常識って何だ! 俺は別に迷惑なんかかけてねぇぞ!」
 迷惑をかけたのは、寝込んだバーナビーのほうだろう。
「あなたは黙ってください」
 ぴしりと言って、バーナビーは折紙に言う。
「僕が来たので、先輩は擬態化といてもかまいませんよ。会社には僕から言っておきます」
「わ、わかった」
「それじゃ、失礼します」
 行きますよ、とぐいぐいと腕を掴まれて引っ張られる。こういうときは、何故かバーナビーのほうが絶対的に力が強い。気合の違いかもしれない。
 驚いた顔でこちらを見ているイワンに、虎徹は慌てて手を振った。
「またな、イワン!」
 バーナビー姿でこくこくと頷くのを見て、虎徹はやっぱり面白いなあと思うのだった。


 外に出て、そのまま帰るのかと思いきや、何故か近くの空き部屋に連れ込まれた虎徹である。
 部屋の中に押し込まれて、鍵までかけられてしまった。
 何をしたいんだ、と思っていると、壁際に追い詰められてしまった。顔の両脇にバーナビーの手がつかれて、逃げ出せなくなる。
「何してたんですか、あれ」
 問い詰めるように言われて、虎徹は正直に答える。
「ちょっと遊んでた」
「ちょっと?」
 ぴくりとバーナビーの眉が上がった。
「僕が休みの隙を狙って浮気だなんて、いい度胸ですね」
 隙を狙うとかいう表現は何なのだろうと思いながら、虎徹は言う。
 虎徹としては、別に疚しいところがあるわけではないので平然としたものだ。
「浮気じゃねぇ」
「誰がどう見たって浮気でしょう。折紙先輩に何してたんです」
 ちょっとキスを、なんて言おうものならこの後の展開が恐ろしいことになるというのは、虎徹も学習済みだ。既に何回も失敗している。
「……だってお前の姿だったし」
 虎徹としては自分の台詞は完璧に惚気だなと思ったのだが、残念ながらバーナビーにはまったく理解されなかった。いつの時代も、若者とオジサンの感覚の間には長くて深い溝がある。
「僕の姿だったから何だっていうんです」
 ぴしりとそう言われると、口を噤むしかない虎徹だ。
 バーナビーの姿をしていたのだから、ちょっと遊びたくなる気持ちくらい理解してほしい。
「だって、面白かった」
 子どものように虎徹は言った。
「あいつの演技完璧だったんだぞ、お前に見せたかったな。本当にお前そっくりでさ。なのに、待合室戻ったら全然違う表情するから」
 だから、と言ってみたが、バーナビーの表情はちっとも緩まないので困ってしまう。
 虎徹は眉を寄せて、首を傾げた。
「……怒ってんの?」
 伺うようにした虎徹に、バーナビーは突き放すように言った。
「それ以外にどう見えますか」
 なのに虎徹を閉じ込める腕が離れていくことはないのだから、不思議なのものだ。
 さてどうしたものか、と思う。
 バーナビーは虎徹の仕事上のパートナーであるだけでなく、プライベートでは恋人でもあるので、彼がこうも怒っているとどうにかしなくてはならない気にはなる。
 だが大抵それは成功しないのだった。
 バーナビーの機嫌が変わるスイッチが、虎徹には未だに理解できない。
「−−あなたの、その尻軽なところが、本当に腹が立つ」
 ぎりと拳を握り、バーナビーが低く言った。
「誰が尻軽だ!」
 聞き捨てならない単語に思わず怒鳴るが、バーナビーは無視して続ける。
「どこでも誰でも節操なくひっかけて」
「ひっかけてねぇ!」
「自覚がないからって、何でも許されると思ったら大間違いですからね」
 こいつの頭は腐ってる、と虎徹は時々本気で思う。
「ひっかけてねぇだろ。大体こんな中年に誰がひっかかるっていうんだ。お前頭大丈夫か」
 いつも虎徹のことをオジサンなどと呼ぶのは、バーナビーである。なのにそれを忘れたかのような台詞には納得いかない。
 もしも虎徹が魅力的な若い娘なら、まだバーナビーの言い分にも理解できる。
 だが虎徹は、そうではないのだ。
「本当に……っ、あなたは何も、わかってない」
 虎徹ですら無視できない激情を秘めた声で言われて、虎徹は口をつぐんでバーナビーを見た。虎徹を黙らせるだけの何かが、バーナビーの言葉や声の中にはあった。
 ちょっとだけ、悪かったかなという気持ちがわいてきた。まったく不本意な罪悪感だったが、それでもバーナビーは一応虎徹にとって大事なパートナーなので、こうも怒られると気持ちは動く。
 もちろんバーナビーが何に怒っているのかはさっぱりわからなかったが。
「……悪かったよ」
 ぼそぼそと謝ってみたが、バーナビーからの返事はない。
 黙ったまま、じっと虎徹を見ている。何を考えているのかわからない緑の目。
 バーナビーには恐らく、虎徹がとりあえず謝っていることや、何も理解していないことは、わかっているのだろうなと思う。
 虎徹はバーナビーをあまり理解できないが、バーナビーは虎徹のことをよく理解している節がある。
「そんなに怒るなって……なあ、バーナビー」
 滅多に呼ばない名前を口にすれば、バーナビーの表情が揺れる。
「あなたは、ずるい」
 そんなことはないだろうと思うが、虎徹はかもなと頷いた。
「本当に……」
 何か言いかけるようにして結局口を閉ざし、バーナビーは溜息を吐いた。
 怒っている気配が少しだけ薄れた。
 諦めたのかもしれない。
「……悪いと思ってるなら、あなたからキスしてください」
 そんなことを言う。
 珍しく、彼にしてはわかりやすい我侭だ。バーナビーに我侭を言われるのは嫌いではなかった。もちろんその我侭が、虎徹の常識の範囲内である場合だけだが。
 キスくらい、と思う。
 虎徹はゆっくりと顔を近づけた。先ほどのイワンと違って、バーナビーは赤くなったりもしないし、うろたえたりもしない。
 まっくたの無表情のまま、バーナビーは虎徹が口付けるのを待っている。
 可愛くねぇなあと思うが、まあこれはこれでいいのだろう。
 唇が重なるのと同時に、ゆっくりと目を閉じる。
 多分バーナビーは目を開いたままだが、気にしない。
 口づけを深くしようとした瞬間、虎徹はぱっと目を見開いて唇を離した。
 何ですか、と不機嫌そうにするバーナビーに、虎徹は慌てて手を伸ばしてその額に触れた。
「お前……! 熱があるじゃねぇか!」
 しかも尋常な熱ではない。かなり高い。
「風邪だって聞いてないんですか?」
 平然と言われて、虎徹はそりゃ聞いたけどと言い返す。
「熱があるのに、出てくるなんて何考えてんだ!?」
 だってしょうがないでしょう、とバーナビーが言う。
「あなた一人放っておくと、何をしでかすしかわかりませんから」
 どれだけ信用ないんだ、という話である。ああもう、と唸って虎徹はバーナビーの腕を掴んだ。
「おら、帰るぞ。今すぐ帰って寝ろ! ベッドから出てくるなっ。病院には行ったんだろうな!?」
「行ってません」
「はぁ!? 何でだよ!」
「病院は嫌いなんです」
「子どもみたいなこと言うなっ」
 怒鳴ったら顔をしかめられた。
「オジサン、煩いです。頭がガンガンする」
 確かに熱がある病人相手に、大声はまずい。慌てて声のトーンを下げる。
「じゃあとにかく家帰るぞ。看病してやる」
 これでも子どもの看病には慣れている。昔、娘が熱を出したときはずっとそばにいて看ていたものだ。
「いりません」
 バーナビーはそっけなく言うと、続けた。
「看病なんてしなくていいから、隣で寝てくださいよ」
 それだけでいい、なんて殊勝なように聞こえる台詞だが、虎徹は眉を寄せた。
「−−何もさせないからな」
 バーナビーが笑った。
「ようやく学習しましたね」
 何も言わなければ、何かされるところだったのかもしれない。熱があるのに、元気すぎる。
 だがしかし、バーナビーの体を引っ張った瞬間、力が抜けてずるりと倒れ掛かってきた。慌ててそれを受け止める。
「おい、バニー!?」
「僕はバニーじゃないって言ってるでしょ……」
 言い返す声にも力がない。
 どうやら限界がきたらしい。
「立てないのか」
 聞くと、返事は戻ってこなかった。つまり肯定だ。しょうがねぇな、と虎徹は溜息を吐く。
「運んでやる」
 そこでようやく応えがあった。
「お姫様抱っこしたら許しませんよ」
「お前な……」
 あれだけ人のことを公衆の面前でお姫様抱っこしておきながら、この言い草。
 だがここで押し問答する時間はない。バーナビーの体が心配だった。へいへいと頷いて、虎徹はバーナビーの体を背中に背負う。
 よほど限界なのか、バーナビーは抵抗もせずに大人しくされるがままになった。
 ずしりと重い体は、ほとんど力が入っていないようだった。そしてかなり熱い。
 部屋の鍵をあけて、バーナビーを背負ったまま歩き出す。出来るだけ振動を与えないように気をつけた。
「……元気になったら」
 バーナビーが囁くように言った。
「さっきの件、お仕置きですからね」
 まだ忘れてなかったのかと思いながら、虎徹は無言のまま歩き続けた。
 執念深いバーナビーの性格はよく知っている。きっと言葉通りにされるのだろう。いつものように逃げる方法は、ひとつも思いつかなかった。


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